潮騒の細道

種田和孝

第1話

 夏と冬、帰省のたびに就職の件と彼氏の有無を尋ねられる。今朝に至っては「考古学は修士で終わりに」と踏み込まれ、私はやるせなくなって独り散策に出掛けた。

 あれからすでに八年。中学三年生の夏休みのことだった。私とケイ君が自由研究の課題に武蔵野の歴史を選ぶと、担任の先生はあるお爺さんを紹介してくれた。お爺さんはかつて大学の教授だったらしく、課題に興味を示し、色々なことを教えてくれた。

 教授の家に通って打ち合わせを繰り返した後、お盆休みのある朝、私たちは実地調査に出発した。

 教授と私は麦わら帽子、ケイ君は野球帽、三人とも背中にはナップサック。真夏の空は碧かった。窪地の田んぼ、小高い林、また田んぼ、また林。そんな景色を貫く細い舗装道路をゆっくりと歩きながら、教授は言った。

 この辺りは今や所々住宅地になってしまっているが、昔の田園風景は見事だった。小川にはメダカやザリガニ、林にはカブト虫やクワガタ虫。道幅はもっと狭く、ただの田舎道。そして道の際には、春はクサボケ、秋はリンドウ。

 教授が「ほら」と指さした。向こうの方まで細長く続く水田。その両側には、水田を挟み込むように続く林。大昔、この水田は海だった。関東平野の中心辺りまでが水の中。海は周辺の丘陵地帯にも毛細血管のように入り込んでいた。

 なぜ、この水田までが海だったと分かるのか。私のその問いに教授は笑みをこぼして、この近所で縄文時代の集落と貝塚の跡が見付かっているからと答えた。しかし、この水田の標高は海面よりもずっと高い。ケイ君のその指摘に教授は満面の笑みを浮かべて、縄文海進後に大地が隆起したのだと言った。

 穏やかに揺れる稲を眺めながら水田を横切り、三たび林。教授は深呼吸をすると、子供の頃は良くこの林の中を駆け回ったものだと言った。生い茂る葉の隙間からは夏の木漏れ日。道端にはと思って私が周囲を眺めていると、「あれはネムノキ。そこの花はラン」と教授は教えてくれた。

 少し歩いた頃、蜘蛛の巣除けと称する杖で教授が道端の草を掻き分けた。見ると、肩幅ぐらいの小道の跡。もう、ここを行き来する者はいないのだろう。昔はこんな小道が林のあちらこちらに走っていたのに。教授はそう言いながら小道に入っていった。

 私とケイ君はコピーした地図に赤ペンで線を描き加えながら教授に続いた。教授は時折立ち止っては、「あれはクリの木、あれはクヌギ」と指さした。あれらは縄文時代の人たちが植えたもの。その言葉に私とケイ君が感嘆の声を漏らすと、教授は「もちろん縄文時代の木そのものではなく、その子孫」と軽く笑った。

 そんな雑談を交わしている内に、向こうの方に住宅が見えてきた。地図にある通り、林を小さく切り開いて建てられた六軒の建売住宅。小道は一軒の塀に突き当たった。私とケイ君は教授の指示通りに地図上、住宅の向こう側の道路まで赤い線を伸ばした。

 林を貫く細い舗装道路に戻り、小道を見付けては行ける所まで行って、また引き返す。地図の上には、小道を示す赤い線、食べられる実のなる木を示す青い丸や緑の丸。そんな作業を繰り返す内にふと気が付いた。いくつかの小道の脇には、まるで街路樹のようにドングリの木が並んでいる。私とケイ君がそう指摘すると、教授は大きく頷き、私とケイ君を交互に見詰めながら言った。

 おそらく、この林に広がる道のいくつかは縄文時代から続くもの。住宅地として切り開かれ造成されたことによって、それが消えてしまった。つまり、我々は歴史を失った。

 先ほどの家々の住人は多分高齢者。この先、おそらく郊外の小規模新興住宅地は衰退し、いずれ原風景が戻ってくる。その間、君たちが歴史を受け継いでほしい。

 教授からの唐突な依頼に意表を突かれながらも、私とケイ君は黙って頷いた。

 地図は昼過ぎにはほぼ完成し、私たちは縄文遺跡のあった場所に向かうことにした。その道すがら、教授はケイ君を相手に饒舌に話し続けていた。

 ケイ君は意志が強くて頭も良い。教授に志望先の高校を訊かれた時も、事も無げに県内の有名進学校の名前を即答した。教授は現役の教員だった頃、頻繁にこの種の野外調査に出掛けていたらしく、そんなケイ君をお供に当時のことをしきりに懐かしがっていた。

 雑草を掻き分けながら進み、もうすぐ貝塚跡と教授が宣言した時だった。ケイ君が「何か水の音がする」と言い出した。三人とも立ち止まって耳を澄ましてみると、確かに聞き慣れない水の音。そちらに向かって道なき道を突き進み、視界が開けて唖然とした。

 水田ではなく、まるで池、むしろ湖、いや浅い海。ふと周囲を見回すと、私たちの背後には鬱蒼たる雑木林ではなく、余計な下生えなど皆無のドングリの林が広がっていた。

 エッというケイ君の声。「一体何が」と教授の呟き。私がウーンと呻いていると、林の中から足音が聞こえてきた。見ると、犬を連れた小柄な人影が一つ。私たちと目が合うと、どこかへ向かって駆け去った。

 状況が分からぬまま立ち尽くしていると、貫頭衣姿の複数の人影が現れた。近付いて来る二人の手には槍。少し離れた所には弓を持った人。私が息を詰めて凝視すると、教授が「とにかく、ひとまず現状を受け入れるしかない」と囁いてきた。

 次いで教授は、私の推測が正しければと言った。縄文時代の人たちは、知識は乏しいとは言え、極めて聡明で慎重だったはず。ケイ君が根拠を尋ねると、そうでなければ原始的な環境を生き抜けないと教授は断言した。

 教授が手を挙げたり頭を下げたり、穏やかに話し掛けたりし始めた。私とケイ君もそれに倣うと、害意が無いことは伝わったらしく、縄文の人が「付いてこい」と手振りで伝えてきた。

 歩き始めてわずか一分、茅葺の屋根が見えてきた。棟数は四。槍を手にした人が声を発すると、縄文の人たちが姿を現した。人数は大人と子供約二十。教授に「君たちの方が歳が近いから」と言われて、私とケイ君は身振り手振りで対話を試みた。

 通じなかった。途方に暮れて教授に目を遣ると、教授は興味津々な様子で住居や物品、縄文の人たちの衣類などに目を凝らしていた。その時、私は思いついた。ナップサックから飴を取り出し、自分の口に一粒含み、残りを縄文の人たちに差し出した。

 縄文の人たちは飴を口にすると歓声を上げ、誰も彼もが満面の笑みを浮かべた。教授と私がコンビニのおにぎりを、ケイ君がコンビニ弁当を差し出すと、縄文の人たちは物珍しそうに皆で分け、あっという間に食べ尽くしてしまった。

 歓待が始まった。広場にゴザを敷いて車座になり、縄文の人たちは団子を振る舞ってくれた。味はともかく、とにかく笑顔と感謝の素振り。お礼に一曲歌えと教授に促され、ケイ君は何曲も歌声を披露した。その間、私には幼い子供たちがまとわりついていた。衣類や持ち物、髪型などが珍しいらしく、触ったり覗き込んだりを繰り返していた。

 小一時間が経った頃、教授が腰を上げ、身振り手振りで「帰る」と意思表示した。縄文の人たちにも伝わったらしく、皆が見送ってくれた。

 元の海辺に戻った。教授が考え込んでいると、ケイ君が「三人で目をつぶって、パンと手を叩いてみるとか」と提案した。教授は首を傾げつつ、「二礼二拍手一礼も試してみるか」と応じた。

 半信半疑で目をつぶり、三人で一斉にパン。その瞬間、海の音が消えた。辺りを見回してみると雑木林。私たちは深い溜め息をついた。

 帰り道、白日夢を見たとでも思うしかないと教授は言った。私とケイ君もそれに同意した。その後、教授は独り言を呟き続けていた。

 縄文は定住と原始農法の時代。あれが縄文の環境収容力。あそこにも織物があった。石製の鍬もあった。黒曜石もあった。素焼きの水漏れ防止は見事だった。

 突然、気付いたかと教授が尋ねてきた。子供一人が脚に怪我をしていた。傷口がわずかに化膿していた。あの時代、平均寿命は十代半ば。あの程度のことでも死に至る場合があった。現代の治療薬があればすぐに治るのに。

 ケイ君が「あの子は大丈夫かな」と呟くと、「薬草を使っているようではあったが」と教授は言葉を濁した。

 しばらく歩いて分かれ道に差し掛かり、そこで解散。私たちはそれぞれの家路に就いた。

 その夜のこと。ケイ君の家から電話が掛かってきた。ケイ君は家に戻ってくるなり救急箱を持ち出し、そのまま今になっても帰ってこない。行き先に心当たりは無いかと。

 捜索は数か月にわたって続いた。ケイ君は見付からなかった。白日夢を見たことは認めてくれても、その内容を信じてくれる人はいなかった。そして警察の公式見解。ケイ君は白日夢に釣られて遺跡近くのあの場所に戻ろうとし、その行きか帰りに何らかの事件に巻き込まれて行方不明となった。

 心の時計が止まってすでに八年。あの世界に行くには、草木のざわめきの中から潮騒を聞き分ける必要があるのだろう。そう思ってこれまで何度も試してみたが、教授や私では潮騒を探し出せなかった。

 ケイ君のことは忘れろと皆は言う。それならいっそ見合いでもと家族も言う。教授は近々老人ホームに移るらしい。おそらく、私にとっても区切りの頃合い。これが最後と思いながら、私は林の中をゆっくりと歩き続けた。

 あの場所に着き、私は独り無言でたたずんだ。眼下には水田。周囲からはセミの声、湿気を含んだ腐葉土の匂い。きっと、もうケイ君は戻ってこない。ずっと一緒と約束したのに。

 その時だった。パンと手を叩く音が聞こえた。驚いて振り向くと、野球帽、ナップサック、小脇に救急箱。私は目を見開いた。中学三年生のケイ君が立っていた。

 ケイ君の顔にも驚きの表情が浮かんでいた。ケイ君は十五歳、私は二十三歳。しばらく見詰め合った後、ケイ君が「ユウちゃん?」と言った。私は大きく頷き、ケイ君の手を取った。幻ではない血の通う温かい手。私はケイ君の手を握りしめた。

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潮騒の細道 種田和孝 @danara163

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