1-7.小国の国家予算並みの借金が判明しました

 言うまでもないけど、日記の読者は基本的に、それを書いた者のみに帰するものということを前提にしている。書き出しでいきなり、一般的には男が書くのだけど女が書いてもいいじゃんと宣言した貴族の日記なんかがあって、それはどう見たって第三者に読ませることを想定してるとしか思えんけど、それはさておき。


 日記という創作物は、私的(プライベート)領域でさえなく、個人的(パーソナル)領域においてのみ作られる。これを意識せずに、記述内容そのものの真偽を単純に確認するだけでは、そこにある正しい意味を見出すことはできない。そして言語を介した“解釈”を排して解釈しなければならない。


《何が書かれているかを読むのではなく、いかに書かれているのかを読むことが大事。特に、個人的なものについては、なおさら。テクスト分析の、いろはの“い”よね》


 もちろん、精緻な分析を行うなら、例えば史料批判的なアプローチが有効だろうけど、今大事なのは分析そのものじゃなくて、情報を引き出して整理することだ。書かれていること/書かれていないこと、書かれた理由と背景/書かれなかった理由と背景、採用された表現、事実表現と感情表現の対比。そういったことに注目することで、同一の日記の中でも、そこに織り込まれている情報を、かなりの程度、復元できるはず。


 日記という媒体なら、誰かに読ませるという意図がどれくらいあるか、というのもポイントだ。自分用の純然たる記録にする場合、非常時に証拠となることを考慮する場合、いざという時の連絡手段になることを考慮する場合など、いろいろなパターンが考えられる。これは、形式と内容をある程度の期間の分だけ読み込めば、それ以降については修正する必要はないだろう。もし、意図が筆記の中途で変わったのなら、書き手は別の媒体、要するに新しいノートに一から書き始めるだろう。いや、同一の媒体で書き続けたにせよ、意図の変遷は、それ自体が重要な読解材料になる。


 そういう意識で、レオノーラの日記をひもといていくと、まあ、開いた口が塞がらなかった。


 レオノーラの日記は、実の父が他界した後、彼女が実の叔父=現当主の養子になった直後からスタートしている。


 彼女の義父は、実父存命当時から暗愚かつ暴力的で、とても貴族家を継承できる人物ではない、少なくとも彼女はそう見なしていたようで、そんな人物が男爵家当主になったことへの当惑から始まっている。だいたい、実父の他界に対する悲嘆が六割、叔父=養父への不安と不信が四割ぐらいの比率だ。実父の他界に関する疑問などは特に書かれていないから、自然死ではあったのだろう。不自然な点があれば、肉親が真っ先に疑念を抱くだろうが、そういう気配はない。


 その後に続く義父のエピソードは、目を覆うばかりのものが多い。最初のうちこそ感情的な記述が多かったが、時を追うにつれて表現がしだいに淡泊になり、半年もすると単純な事実の羅列になる。この時期になると、行動だけでなく、人物評価自体が書かれなくなっていく。そして、事実さえ、書かれなくなっている。同じ屋敷にいるにもかかわらず、だ。


《無反応になったのではなく、見たくもなくなった、反応したくなくなったというのが妥当。筆致が唐突に変わったわけでもないから、具体的な事件がトリガーになったのではなく、毎日の蓄積の結果か。当惑が失望に変わり、そして関わり合いになりたくなくなっていった、と》


 重要なのは、失望が不信に転じた以降の記述だろう。


 不信感が強くなった以降、それでもあえて書かれている記述は、感情がマイナス方向へ大きく揺さぶられた事件と見てよい。そういう事件で、レオノーラ本人と義父以外が絡んでいる場合、エピソードの信憑性がさらに高くなる。


 そんなエピソードで、特に重要に思えたのが、巨額の借金が明らかになったことだ。


 この時点で、レオノーラと、義妹、すなわち義父の娘であるイザベラとの関係は冷え切っていたようだが、それでも、二人揃って義父に詰め寄り、状況の説明と今後の対応を迫ったという記述がある。具体的な展開や結論まではわからないが、その時点では何も書かれていないことから、解決は先延ばしにされたと推測される。その後、思い出したように、借金をどう返済するかについて記述が散見されるが、いずれも純粋な独白で、少なくともレオノーラ自身は返済になんらタッチしていない模様。義父の取った対応がわからないのだろう。


《しかし、判明した時点で、六兆五千億ガルンって》


 町中で果物を二個買った時の代金が、六十ガルン。現代日本でナシを二個買って二百四十円とすると、この世界での額面を四倍すると日本円になるという計算になる。先進国で物価が最低水準という国の食料品価格をベースにしていいのかはさておき、単純に計算すると、二十六兆円相当、と。


《日本の一般会計歳出が百兆円を超える程度、その四分の一となると、小国の国家予算並み。その額を個人が背負う。あり得へん》


 ナントカいう商会が債権者らしいが、プロの金貸しのやり方には見えない。金貸しのプロなら、搾り取れるだけ搾り取ることを考えて、金額がこんなに拡大する前に激しく取り立てるか、何とか支払い可能な範囲まで利息を抑えてエンドレス返済に持ち込むかするだろう。


 つまり、債権者の目的は単なるカネではなく、それ以上のもののはず。そう考えれば、その商会はダミーで、本体がどこかにあるはずと断定してよい。


《もともと利率を高めにした上に、借り手の無知につけ込んで複利計算にでもしたとか。中身をろくにチェックしないで契約書にサインでもしたのか。いずれにせよ、悪徳金貸しに引っ掛かったんだろうけど》


 目的を考えれば、エグナー家を破滅させるために、最初から仕組まれたものと考えるのが妥当だろう。


 文武高官を輩出するわけでもない男爵家を破滅させるために、時間をかけてじわじわと追い詰めていると考えれば、ターゲットは貴族家ならどこでもよかったというわけではなく、この家が狙い撃ちされたと見るべきだろうな。


 つまり、それなりの“うま味”があったということになるわけで。


《この家には、隠された何かがあるのかな。ひょっとすると、現当主でさえ知らない、何かが。それを知っているのは、レオノーラか、妹のイザベラ嬢か》


 ああ、知れば知るほど、知らない事が増えていく。学問探究の時によく使われるフレーズだけど、まさか異世界でこんな言葉が頭に浮かぶとは。


 そして、この巨額の借金が明らかになってから、相当の期間が過ぎていることも気になる。


 確かに、屋敷内の調度品は少なくうら寂しい有様だし、使用人わずか二人というのもさすがに異常だ。相当に無理して切り詰めてはいるのだろう。


 でも、節約するだけでなく、そもそも、収入がなければ返済できるはずがない。金額を考慮すると、利息分だって払えるはずもない。何らかの取引をしているはずだが、それはどんなものか。試しに、レオノーラの記憶から調べようとしたところ、アクセスはできたが、彼女も知らないようだ。つまり、少なくとも義父は、口に出せないことを隠している、と見るべきか。


《口に出せないこと。暴力行為なんかはすぐに露見するから、非合法な商売あたりかな。土地を持つわけじゃないから、麻薬栽培とか、無届けの鉱山経営とか、そういうことじゃない。人手や販路があるわけじゃないから、人身売買とか、誘拐とかも考えにくい。詐欺なんかでの名義貸し……いやいや、零細男爵家なんか看板にならないでしょう。便宜供与といっても、そもそも当家独自の権能がある気配もない。無形物の献上品なんて……》


 他にも、考えられる点はないわけじゃないけど、王宮絡みであれば、レオノーラの身柄が自由であるはずもないし、まして、王太子にアプローチするなんてことはあり得ないし。


《ただし“独自の強み”を握られているか、必死に探られているか、そんなところか。だからこそ、強硬措置は手控えているけど、いよいよタイムリミット、ということかな》


 そうすると、妹に、何らかの意味があるのか。でも、こちらは、肝心のレオノーラが情報をシャットアウトしているようで、実像がさっぱりわからない。


《レオノーラが持っているものを何でも奪いたがる、っていうのが、気に掛かるわね。その意図や、どのようなものを奪ったかの具体的な履歴なんかがわかれば、敵さんの狙いも読める可能性があるんやけど》


 借金に関しては、契約書を探して読むことができればいいが、それを探すのも骨だ。借金取りが、婚約破棄の一件を知っているかどうかによって変わるが、少なくとも現時点では、王太子の覚えがいいレオノーラ個人に対して、直ちにどうこうすることもなかろう。むしろ、レオノーラの地位がある程度固まってから、金銭以外での見返りを求める、と考えるのが妥当だ。ひどい言い方だが、レオノーラ本人の体が人質になっているといえる。


 体……ひょっとしたら、何らかの神秘的な力を持っている、あるいは、そう見られている、とか。この世界が典型的ファンタジー世界なら、魔法に卓越した能力を持っていて、それを囲い込もうとしているといったことがあり得るだろう。精霊や魔物へのコンタクトとか、いろいろありそうだ。そして、そういうものを把握する組織的な宗教集団。それが表のものか裏のものか。いや、そもそも、この世界での宗教が集団化されているとは限らない、案外と“見えない宗教”だったりして……。


 ううん、考え出したらキリがないな。現時点では、実際に入手できた情報を基に得られたものについて信頼性のあるものと判断し、ある程度確証を持てるものを優先的な情報として考え、それ以外については、致命的な影響を与えうるリスクだけを避ける、という方針になるか。


 そうなると、短期的には、王太子との婚約を消極的にでも後押しする可能性を考えて、レオノーラはこの件を放置している可能性も。いや、考えすぎか。


 いずれにせよ、重要な案件ではあるが、即時処理案件ではない、という結論に達した。


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有希江が在籍しているのは社会科学系のコースですが、教養課程の間は人文系が中心だったため、後者のジャンルについても一定の知識があります。大学などで新しい知識を得ると、知らず知らずのうちにそれを使って考えたり答えたりしたくなる、そういうお年頃なのです。

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