インクルージョン・ガールズ(リメイク版)

水月 友

第1話 おでかけ

 ―それは中学1年の秋。


 そのパン屋さんは、私の大のお気に入りだった。どのパンも美味しそうなものばかりで、お母さんがパートの帰りに買ってきてくれるのが、とても楽しみだった。

 でもそのお店は家から遠いところにあったから、車かバスで行かなければならなかった。私は普段から車椅子を使っていて、一人でバスに乗ったことがなかった。

 前に一度お母さんが車に乗せてくれて、そのお店に連れて行ってくれた。お店の中はパンのとってもいい香りがして、色がきれいでかわいい形のパンがたくさんあった。

 だけど、車椅子では一人で遠出なんかできないし、お買い物なんか無理だった。

 本当は自分で好きなものを選んでみたかったけど。


 先週、学校で先生が道徳の時間に、車椅子でも一人でバスに乗れるという話をしてくれた。

 今の最新式のバスには、シートを外して車椅子が乗れるようなスペースができることや、運転手さんにも介助方法の勉強をしてもらっていることが、教材のビデオで流れていた。

 これからは共生社会だから、周囲の人が協力してくれて、私のような状態でも、自由に好きなところに行くことができると言ってくれた。

 そうなんだ!なんて素晴らしいことだろう!もうお母さんに頼まなくても、自分でバスに乗って、好きな時にお買い物に行けるんだ!


 そして、その日がやって来た。

 私は、ワクワクしながらバス停でバスを待っていた。交差点の角からバスが見えた。行き先表示の横に車椅子のマークも付いている。

 よし!がんばってこれから一人で買い物に行くよ!

 停留所の前でバスが止まった。ドアが開き、運転手さんが来るのを待っていると、ドア横のインターフォンから運転手さんの声が聞こえた。

「え、乗るの?」

「はい!乗ります!」

 ちぇ、と舌打ちしたような声が聞こえた。なんのことか分からず、そのまま待っていると、運転手さんがバスのドア前にある座席を指さし、そこに座っている乗客に話しかけた。

「お客さん、ここに車椅子が入るので、席空けてもらえるかな?ほらここに『車椅子の人が来たらご協力をお願いします』って書いてあるでしょ?」

 座っている人は、ぶつぶつ言いながら立ち上がった。運転手さんはその座席を外してスペースを開けてくれた。

 リフトで車内に乗り込み車いすがベルトで固定されている間、バスは停車したままで、周囲の乗客からの視線が私に突き刺さった。

「かんべんしてくれよ、なんで俺が立たなきゃいけないんだよ」

「一人で乗れないんなら、乗るなよ」

「なんでこのバスなんだよ、こっちは急いでるんだよ、次のバスにしろよ」

 声になっては聞こえないけれど、そう言われている気がした。

 自分が恥ずかしくなって、助けを求めるように、近くに立っていた若いお姉さんの方を見上げると、すぐに顔を逸らされた。

 とても不安になったけど、がまんして先生の言ったことを思い出すようにしていた。


 あ、でも。

 目指すパン屋さんは、バスの終点である駅前の一つ手前で降りなければならない。ほとんどの人は、きっと駅前で降りるだろう。

 私が降りるためには、また時間がかかってしまい、乗っている人に迷惑をかけてしまう。電車に乗るのに急いでいる人もいるだろう。今度は本当に怒り出す人がいるかも。

 そう思うと怖くなって、ここで降ります、って言い出せなくて、そのまま終点まで黙って乗っていた。

 運転手さんは、全部の乗客が降りたあと、私の手伝いをしてくれた。そして最後に、気を付けて行きな、とぶっきらぼうに声をかけてくれた。

 そこからパン屋さんまで、停留所一つ分、車椅子で走った。ありったけの腕の力で、全速力で走った。

 ふらふらになりながらパン屋さんのドアを開けると、私は大声で泣き出してしまった。

 お客さんがびっくりして、店員さんがあわてて駆け寄って来て、私を優しくなだめてくれた。

 でも、何も説明できなくて、私はただ泣きじゃくったままだった。


 ―先生のうそつき。そんな夢みたいな世界、あるわけないじゃない。


 ひとしきり泣いて落ち着いたところで、店員さんに母の連絡先を伝えた。

 すぐに母がパート先から私を迎えに来た。店員さんは母の顔を知っており、私のお店での様子を説明してくれた。

 でも私が何も話さないので、二人とも事情がわからず、ちょっと困った様子だった。


 帰りの車の中で、母に少しずつ今日起きた出来事を話した。

 勝手に一人で出かけて、みんなに迷惑をかけてしまったと、ただ泣いて謝るばかりの私を叱ることもしないで、怖かったね、よくがんばったね、と車を止めて、ずっと私を抱きしめて頭を撫でていてくれた。

 私の頭を撫でながら、母も泣いていた。

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