小秋千広
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私には力がある。ひとを殺せる力だ。
小学校にあがる前のこと。その日は酷い雨で何をするにも退屈な日だった。すっかり日も落ち、うちの中で遊ぶのにも飽きた私は、ぼんやりと窓から夜の雨だれを眺めていた。そのときだ、私はその場面を目撃した。
女のひとが、男のひとを突き落としたのだ。共用廊下の手すりから押し出され、男のひとは手をばたつかせて駐車場に落ちた。酷い雨だから、叫んでも誰にも聞こえなかっただろう。私の家からは、現場のマンションが良く見渡せた。幸か不幸か、視力の良かった私は、男の頭がぱっくりと割れ、ピンクの中身が洗い流されていく様をじっくりと観察できた。
どくどく、と血の流れる音が耳元で聞こえていた。
もっと近くで見てみたい。体を突き破った好奇心が、私を死体のもとへと運んで行った。
気が急いていたけれど、大雨の中、子供の足では時間がかかってしまった。私が到着したころには警察と救急車が駆けつけていて、遺体に近づくことができなかった。諦めきれなかった私は、野次馬根性を発揮してうろちょろと覗きまわる。すると、警察と発見者の女のひとが話す声が聞こえてきた。
「主人から突然、会社をクビになったと電話があって、そのときはもう呂律もあやしくて……家で待っていたんですが、その、神経が過敏になっていたのでしょうか。重たいものが落ちる音が聞こえてきて、変だなと。なにか、悪い予感がしたんです……ふだんなら気にしません。でも、今日は、その……それで、外に出たら……」
発見者の女のひとは、手すりから突き落としたそのひとだった。涙ながらに、偽りの言葉を吐き出していく。昔演劇をしていたのではないかと思うほど、なかなか真に迫る演技だと思った。
「体内からアルコールが検出されました。だいぶ飲まれていたようです。一階の住人にも聞き込みをしましたが、落下に気づいたのは相野さんだけのようです」
死体を検分していた警察が、事情聴取を行っていた警官に報告をする。なるほど、酔っていたから大した抵抗もできずに落ちたんだな。私はなるほど、と納得していた。実は刑事ドラマや探偵の出て来るアニメが好きで、死体や事件は憧れの対称であった。私は異様なほど早熟で、年に対して賢すぎる頭をもっていたこともあり十分楽しめていた。
刺激。そう、私が好きなのは謎解きや人間ドラマではない。事件や死体が好きだった。
死というのは、いわば人間という生物の拭いきれない弱点。他人の生死を支配する殺人、他人のすべてを支配する状況の甘美さに、私は心を惹かれていたのだ。
「酔って手すりから転落、ということになりそうですね。この雨でぬれて滑った、ということもあるのでしょう、ご愁傷さまです。これから大変だと思いますが、どうか気を落とさずに」
警察は事故として、この件を処理するようだった。
馬鹿な、と私は思った。この大雨で部屋のなかに落下の音が聞こえるはずないだろう。現に野次馬は数人しかいない。目撃者が犯人の女ひとりしかいない、というのも音が聞こえなかった証拠だ。
私が見た限り、男が落ちたのはマンションの四階だった。女の部屋がどこかは知らないが、一階ということはないだろう。話を聞くに、死体の男と犯人の女は夫婦らしい。エレベーターで移動したにせよ、階段で移動したにせよ、男は上階へ移動したのだ。酔って部屋の階を間違えることはあるだろうが、一階でないことだけは間違いない。であるというのに、一階の住人が聞こえなかった音を、上階の住人が聞くのはおかしな話だ。
夫のリストラ。飲酒による酩酊。大雨のなか、目撃者はいない。
ふと、女の袖口から傷がのぞいた。一瞬のことで警察は見えていないようだったが、真新しく、生々しい傷痕だった。およそ、主婦が負うはずのない生傷。私はその傷跡に馴染みがあった。同じ保育園に通う男の子が、時折体につけてくる傷とそっくりだった。彼は傷を隠そうとするし、聞いてもなにも答えないから何かあると思っていたが、なるほど合点がいった。
虐待。家庭内暴力。つまり、そういうことなのだ。
私は女の確かな殺意をみた。涙の隙間から零れ落ちるように、黒い雨だれがみえていた。
夫は家庭内で妻を支配したつもりでいた。生死を握り、完全な優位に立つ存在だと油断していたのだ。それがどうだろう、リストラによって世界が裏返った。妻にとって夫は利用価値のない存在となり、横暴に耐える必要はなくなった。妻は夫の支配下にありながら、殺意の刃を研ぐことを怠らなかった。だからこそ、力関係の逆転した一瞬を逃さなかった。この夜だけは、間違いなく妻が夫の生死を握っていた。彼女はいついかなる時、方法をもってしても、この夜だけは夫を自由に殺すことができたのだ!
私は感動に打ち震えた。素晴らしい世界だ、拍手を送りたい! 彼女を讃えたい!
そして、私はもうひとつの甘美にも気が付いていた。
「わたし、見たよ」
そう、支配だ。
この場で彼女を支配しているのは私だ。私は彼女の人生の首根っこをすでに捕まえていた。
指をさし、警察の前で彼女を告発する。青白い女の顔が、絶望にゆがんでいくのがつぶさに見てとれた。甘美だ。素晴らしい。
「この女のひとが、突き落とすところ、見たよ」
警察の視線が細く尖る。警察とて考えないことではなかったのだ。ただ、疑うための情報が足りなかっただけ。私がその背中を押してあげる。
「相野さん、申し訳ありませんが、詳しく事情を――」
警察が逃げ場を塞ぐよりはやく、女は駆けだした。状況判断のはやいひとだ。でも、もうどうしようもない。私の言葉を覆すことも、逃げ切ることもできない。
一瞬のできごとだった。だれも彼女を制止できない。
道路に飛び出した彼女。雨で視界が悪いなか、通りに飛び出した人間。車が避けられるはずもない。
運転手がブレーキを踏むよりはやく、女の体は車と衝突した。たっぷりと速度を蓄えた車に、ためらいなく跳ね飛ばされたのだ。
たった一言だ。
私の言葉が女を殺したのだ。
歓喜に打ち震えた。甘美に涙を流した。素晴らしい! 人間を支配する、生死を握り締めるって、素晴らしい! ぜひ、今日の絵日記に書き記したい!
私はこの日、確信した。
私には力がある。ひとを殺せる力だ。
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