相野隆

1 inward

 ぼくにはなにもない。ひととして意味をもたない。

 人間と呼ばれる生き物は、二種類のタイプが存在している。働き蟻と王(女王)だ。奴隷と人間だ。ただ蟻とは違って、奴隷と人間の関係は環境や状況によって、複雑に変化する。逆転したり、入り混じったり、決して一様じゃない。

 父はぼくになんの関心もなかった。視界にすら入っていなかったんだと思う。仕事に忙しいらしく、毎晩上司の愚痴ばかりこぼしていた。けれど、一度電話がかかってくれば、電話越しに命令されれば、腰を折り曲げて言うことを聞くのだ。ビデオ通話でもないのに、へこへこと。それはもう、ぺこぺこと。あんなに文句を言っていたのに、どれだけ常識はずれな時間でも電話一本で仕事を始めるのだから、正直感動すら覚えていた。父は立派な奴隷なのだと。

 社会では奴隷の父だが、家では王だった。父は母に命令し、虐げた。罵倒し言うことを聞かせ、鬱憤を晴らした。そして、母はぼくに命令した。母はぼくの女王だった。

「あいつと結婚したのは失敗だったのよ。収入も大したことないくせに、家では大きな態度をとる。威張って、暴れて、小さい人間。でも、私も悪いのよ。勉強していい大学に入って、良い職場に就くことができたら、もっとましな選択肢があったのに」

 母はぼくに必死で勉強させた。それはもう小さなうちから。計算を間違えれば殴られたし、わからない所があれば理解するまで食事を抜かれた。父はぼくが母にどう扱われていようと、見て見ぬふりをした。事実、見えてなかったのかも。

「あなたには私を幸せにする義務があるのよ。いい大学にいって、いい会社に入って、育ててもらった恩を返すの。はやく、はやく、はやくお母さんを助けれる大人になりなさい!」

 母の教育は勉強だけに及ばない。社会で生き抜くために、どのような人間になるべきかを教え込んだ。ひとに気に入られる人格者であれ。他人に騙されない抜け目なさをもて。ひとを陥れ優位に立つ勝者であれ。小学生にもなっていない、園児のうちから人間の術を叩きこまれた。ぼくは母を賢い人だと思ったし、ぼくは父のように立派な奴隷になるべきだと思ったから、彼女の言うことは余すことなく吸収していった。ぼくは女王の言うことを聞いていれば、すべてうまくいく。そう信じていた。

 世界が変ったのは、ぼくが小学校にあがってすぐの頃だった。

 父と母が時期を同じくして死んだ。詳しい事情を知ったのはずっと後のことだが、父は殺され、母は交通事故にあったらしい。ともかく、ぼくは人生の指針を失い、途方に暮れた。父も母も実家と絶縁していたから、身寄りなどあるはずもなく、ぼくは施設に入ることになった。そこでの暮らしは、人生のなかでも最悪なものだった。

 食事の許可、トイレの許可、教材の供与や指導の徹底、ぼくの育成計画。それらを与えてくれるひとが誰もいなかったのだ。だれもぼくの王になってくれない。ここには正しい王がいない。

「次は何をすればいいですか? 何の教科を勉強すればいいですか? それとも家事をすればいいですか? 今日の消化すべき課題はなんですか? 目標を提示してください。タスクを設定してください。指針を示してください」

 ぼくは職員に指示を仰いだ。家ではいつもそうしていたから。

「あのね、たかしくん。ここではもっと自由にしていいのよ? みんなと遊んでもいいし、ゲームしてもいい。外にいってもいい。好きなことをしてくれていいのよ」

 ここの人間は曖昧なことしか言わない。適当なことしか言わない。自分が死ぬことを分かっていないのか? 長くても百年ぽっきりしかないというのに、どうして余分な時間や隙間が存在するのだ? 自由にしろ、好きにしろ。そればかり、最悪だ。ここではなにも確かでない、自分で考えろだの、好きなことを見つけろだの、不安になるばかりだ。子供を、奴隷を恐怖で押し潰すつもりなのか?

「可哀想に……あの子、両親に洗脳されていたんだわ」

 可哀想に。施設の職員がぼくに隠れて、そう評価するのを盗み聞きした。かわいそうって、なんだ? そんなものはなんの役にも立たないし、ぼくの人生になんの関係もない。少なくとも母からは一度も訊いたことのない言葉だった。

 小学校ではちょっとだけましだった。少なくともやるべきことは用意されているし、どの時間になにをするべきか決まっているし、母の教えを実践するいい機会になったからだ。ただ時々、教師も信じられないことをいうのだ。

「好きなものを自由に作ってください」

「自分の得意や、やりたいことを教えてください」

「好みや将来の夢に合わせて、個性を伸ばしていきましょう」

 ここでも、好きとか自由とか夢とか、クソの役にも立たない事ばかりを教える! しかも、愚かしいことには、教師たちは生徒に対して正しい指針を示せないことだ。普段偉そうにひとに物を教えたり、命令するくせに、ぼくらの将来に対して一切無責任なのだ! ありえない!

 例えば、隣の子は将来、海外で活躍するような映画監督になりたいのだといった。

「いい夢ね。しっかり勉強すれば、きっと叶うはずよ」

 たったそれだけだ。みんなの前で発表して拍手、終わり。なんだ、この茶番は。

「先生、具体的な指針や日々の計画目標は立てないのですか? 映画監督を目指すにあたって必要な知識……勉強すべきことへの助言はないのですか? 毎日こなすべき練習は?」

「そういうことは高校生や大学生になってから自分で調べればいいんじゃないかな。いまは映画をみて、いいなと思った気持ちを大事にすればいいのよ。好きな気持ちをしっかりと覚えておけば、きっと将来に繋がるわ」

 中身が空っぽで、なんの確かさもない。助言ともよべない台詞だ。ほとんどなにも考えてないのと一緒だ。母は神経質なまでにノルマを設定して、毎日ぼくの成長具合に合わせて計画を調整していたというのに。それでも実現可能か保証できない、と常に模索していたというのに。馬鹿じゃないのかと思った。夢とか聞いてきて、叶うとかいうくせに、なにひとつ現実的にまともな頭を持っていない。

「たかしくんの将来の夢はなにかな? みんなの前で発表してみよう」

 ぼくは母が立てた、ぼくの教育計画――分厚いファイルと予定表を持ち出して発表を始めた。

「ぼくは○○県の○○中学を入学、高校は○○県の○○高校を受験します。大学は○○大学を受験して、○○学部に入学します。その時の社会の状況によると思いますが、株式会社○○か、○○グループに入社する予定です。そのためにまず、今週の学習目標は――」

 ぼくは週刻み、月単位で達成すべき課題、小学生で行うべきことを発表しようとした。ほかにも両親がいなくなったことによる経済的変化からの修正の助言を教師に求めようと考えていた。期待はしていなかったけれど、案の定教師はぼくの発表に割り込んで来た。

「いや、たかしくん。そういうことじゃなくてね……」

 教師の困り果てたような顔。クラスメイトの変なものを見る目。気が狂いそうだった。ぼくは教師の命令に従って、言われた通りに将来の計画を発表しているといのに。

 全然だめだった。ここにはぼくの王になってくれるひとがいない。奴隷と王で成り立っている社会の在り方すら知らないんだ。

 絶望だけがあった。父と母が死んで、苦しみだけがあった。

 ぼくは父のような正しい奴隷になることもできない。母のような正しい女王を見つけることもできない。

 ぼくは完全に思考停止してしまっていた。脳が固まった。息が詰まった。

 なにをすればいいか、まるでわからなくなった。

 日がな一日中、ぼうっとしていることが増えた。一度外れた計画を修正する術もない。施設の職員に計画書は捨てられてしまった。やることがなにもない。母が教えてくれたことを何ひとつ実践できない自分に腹が立った。あれほど綿密に練られた、ぼくのための計画が遂行できないことが悔しくてしかたなかった。空虚で、孤独な時間を過ごした。両親が死んでから、人生でもっとも不幸せな二年間を過ごしたと思う。


「わたし、清子。たかくんは、今日からわたしの友達ね。だから、私の荷物を運ぶのよ」

 三年生になってクラス替えした初日。ぼくは母が死んでから、ようやく正しい女王に出会うことができた。

 命令だ。彼女はぼくに命令してくれる。奴隷を従える言葉を知っている、素晴らしき女王。

 ぼくの女王、名越清子。

 彼女の紡ぐ言葉は本物だ。

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