Episode108.5 side 百合宮 奏多⑩ 回想 恐れていることは
僕を見た妹の肩がビクッと震えた。
明らかに泣きはらした顔で、震える唇から紡ぎ出されるのは、どこか恐れの滲んだ声。
母を見、そして僕を見た瞬間、キラキラと光るその瞳からポロポロと涙がとめどなく零れ落ちていく。
母じゃない。――僕を見て、泣いた。
ひどく衝撃を受けていたら父から大きな声で妹から離れるように言われ、頭も感情も混乱しながら後ろへと下がった。妹が僕は違うと言って泣き、父に抱えられて自室へと連れられて行く。
父から指示を受けた母は未だ呆然としたままの僕の肩に手を添えて、リビングへ向かうようにと促してくる。
「奏多さん。今は、待ちましょうね」
「……はい」
ソファへと座り、父の説明か妹の気持ちが落ち着くまでかと脳内で母の言葉を
あの時父は何と言った。妹は何と言った。
『分かっている。大丈夫だ。ここはお前の家だ。もう、何も怖いものはない』
『こわっ、おにい、さま、こわく、ないっ!』
会うのを約束した子がいて、父宛に来ていたパーティの招待に妹も自ら行くと言い出して、付いて行った。僕は違う家からの招待を受けていて、卒なく対応して早めに帰ってきた。
父が付いているのならと。
笑ってどうだったと、話してくれる妹を思い浮かべながら。
――何も怖いものはない?
――僕は、怖くない?
声も、表情も、態度も物語っていた。
妹は僕を見て、確かに――――恐怖していた。
一体何があった。何が妹の身に降りかかった。
あんなに泣くほどの、何が。
グルグルと同じ問答ばかりが頭の中を巡り、一向に整理のつかないまま両親がリビングへと入ってきた。
「父さん! 花蓮はっ」
「落ち着きなさい。……まぁ、落ち着けないな。私も、何があったのかはっきりとは分からない」
はっきりと分からない……?
父が、百合宮の
親交行事の時だって自分がいたのに、そのことを忘れて父が口にした言葉にカッとなる。
「何があったら花蓮があんな状態になるんです! 僕を、“僕だけ”を怖がって泣くほどの、何が……!」
言って、思いの外そのことが突き刺さる。
どうして。僕は妹を、花蓮を傷つけたりしない。
大事に、今度こそ守りたいのに。
「……貴方」
「……うむ。私が大丈夫だったこと、奏多がダメだったことを鑑みれば、恐らくは……」
父が大丈夫で僕がダメ。
それは、どういう……。
妹が自室で眠りについている中、父が出した結論としては眠る前の妹の様子では妹自身が話したいとのことだったが、過呼吸まで起こしそうになったことでそれは難しく、別の方法で原因を突き止めることに。
――それが。
父の携帯から電話をし、スピーカーで話されていく、妹が泣きはらした原因。
父は拳を握り締め、母は顔面蒼白となり。
僕は――……。
ガアァンッ!!!
話が終わり携帯を切った後、ふらりとリビングを出て行った父。
それから少ししてそんな大きな音が鳴ったので、恐らく書斎部屋に飾ってある
そしてすぐ戻ってソファへと座る父。
母も、僕も無言のまま、リビングに静寂が満ちる。
まさか、僕の通う学院でそんなことをするヤツがいるとは思わなかった。思うわけがなかった。
そこまで腐っているのか。
百合宮の令嬢と知りながら。
気に入らなかったからスカートを濡らす、気に入らなかったから頬を張る、気に入らなかったから突き飛ばしケガを負わせる。――自分の欲のために、嫌がる子を。
ギリッと無意識に奥歯を噛みしめた、その時。
「っ、か、花蓮!?」
「えっ、花蓮ちゃん!?」
父が何故か驚き跳ね上がり、隣に座っていた母も立ち上がる中で僕はただ一人、固まった。
……妹が、来た? 起きた? 大丈夫なのか。
僕は。――僕は、どうすればいい?
母と妹が何事か話すのを耳にしながらも、顔さえ向けることができない。
また僕を見て泣いてしまったら。
泣いた時は抱きしめるのが一番だと覚えたけれど、それができない。
僕は……僕は、妹に近づいてはいけない。
妹は僕に気づいているだろうか?
どこか、どこか気づかれずに隠れられる場所は……!?
必死に目だけを動かして隠れ場所を探していたら、「お兄様」と普段の妹の声で呼び掛けられ、いつの間にか接近されていたことに今更気がついた。
「お兄様。私、これなら近づけます。ちゃんと話せていますし、声だって、震えていません。ね、だからこっち向いて下さい」
顔を向けたら、また泣くのではないか。
恐怖に彩られた瞳に映ってしまうのではないか。
「もうお兄様見て泣きません。あ、怒られたら泣くかもしれません」
僕が怒っても、滅多に泣かないじゃないか。
けれど、今回は違うかもしれない。
「お兄様。お兄様、こっち向いて」
向けない。向けられるわけがない。
……初めて知った。
――妹に拒絶されることが怖い
――受け入れてもらえなくなることが、怖い
そう思って自嘲する。
僕がそれを言える立場か。
最初に妹を拒絶し受け入れなかったのは、僕なのに。
「……っ!?」
膝に置いていた手に温もりが触れた。
小さな、手の平。
「ほら、触れました!」
喜色しかない、その嬉しくて仕方がないという声に、思わずその手を軽く握ってしまった。
やってしまってから、けれどこの手を離せない。
「……大丈夫なの?」
そう聞くと、力が込められた。
確認したくてゆっくりと妹へと顔を向けると、彼女は何のてらいもなく笑った。
「ただいま帰りました! えへへ、ご挨拶できてなかったので」
「何そのゴーグル。本当に、変なことばっかり思いついて……っ」
父が跳ね上がった原因はそれか。
ゴーグルつけたら大丈夫なんて、どうしたらそんな発想になるのか。
何でこんな変なことを思いつく妹が――――僕は愛おしくて仕方がないのか。
「お兄様、抱っこして。お兄様のお日さまの匂い、大好きなんです」
抱っこ、抱っことせがまれて、僕が椅子になるように座らせて抱え込む。
「お兄様」
「我慢して」
言いたいことは分かっているけど、こんな情けない顔見られたくない。
僕が守りたいのに。……助けたいのに。
どうして妹はいつも、いつも――……。
◇+◇+◇+◇+◇+◇+
「奏多坊ちゃん」
窓の景色からカーミラーへと視線を向けると、専属運転手の本田さんと目が合う。彼は一つ笑みを浮かべると。
「花蓮お嬢さまのことを?」
目をパチクリと瞬かせ、首を傾げて問う。
「どうしてですか?」
「とても優しいお顔をされていらっしゃるので。大好きなお嬢さまのことを、思い出されていらっしゃったのかと」
「……よく見てますね」
微笑んで言うと、本田さんもまた微笑んで。
「坊ちゃんの専属ですから。あ、あともう少しで着きますよ」
「……いつもありがとうございます」
「どういたしまして」
こんなやり取りも、妹の態度が激変する以前はなかった。当たり前のことと享受し、本田さんも仕事の一環としての姿勢を崩さなかった。
妹を中心に家族が変わっていく。
またその周囲も変わっていく。
だから妹を脅かすものなど――――容赦しない。
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