8ー3 溶けない雪(1)
「市川さん、外……雪が降ってますよ」
白い花瓶を手に、勇刀は市川に話しかけた。勇刀が歩くたびにその振動が花瓶に伝わって、白いラナンキュラスの丸いシルエットが、コロコロと揺れる。無造作に生けられたラナンキュラスの花びらには、瑞々しい水滴がいくつも付着し、揺れるたびに室内灯の光を反射した。勇刀は白いサイドテーブルに花瓶をそっと置く。
「どおりで、寒いはずっすよねぇ」
はぁ、と息を吐いて。勇刀は、冷え切って赤くなった自分の指先をあたためた。勇刀が言ったように、窓の外には粒の細やかな雪がハラハラと舞いはじめている。ゆっくりと空から落ちる雪は、時間が止まってみえるほどに、勇刀の目に幻想的にうつっていた。
「そう言えば! 遠野係長が警部試験に合格したんっすよ! 『ようやく、追い抜かれたイッチーに並んだッ!』って、無茶苦茶喜んでました!」
窓の外を見ていた勇刀は、市川の方に振り返って言った。いつものように明るい勇刀の声。市川も喜ぶであろう朗報であるにも拘らず、市川は、一切の返事をしない。勇刀は困ったように笑うと、白いベッドの上で眠る市川の手に、そっと自分の手を重ねた。
F県警察本部からほど近い病院の一室。入りくんだ長い廊下の突き当たりにある病室。四人部屋の病室の窓側、その一角にあるベッドの上に市川はいた。固く目を閉ざして眠っている市川、細い腕に点滴用の針が刺さっている意外は、息をしていないのではないかと思ってしまうほど、市川は穏やかな顔をして目を閉じていた。勇刀は、市川の手を両手で包み込む。
「そうそう! 稲本が結婚するんです! 相手は保育士さんなんっすよ! 一人だけ合コン上手くいっちまって……。皆、一足早く春を迎えちゃってます。俺も……」
勇刀は、ぐっと言葉を飲み込んだ。ためた息を深く吐き出すと市川を握る手に力を込め、ゆっくりと呟いた。
「俺も……もうすぐ、特研生の任を終えます」
勇刀は市川の手を、額に当てて俯く。
「早く目を覚さないと、置いてかれちゃいますよ? 市川さん……目ぇ覚ましてくださいよ」
こうして手を握り、市川に語りかけて半年。
仕事帰りにも、非番日や週休日にも。勇刀は時間の許す限り、深い眠りについている市川に話しかけた。静かな病院に勇刀の明るい声のみがこだまする。考えないようにしても、勇刀の意識は次第にあの事件へと向いてしまい、極力明るく振る舞っていても、じわじわと半年前からの記憶が勇刀の心を縛り上げていく。勇刀はなんとも言えない胸の苦しさに苛まれた。事件は解決しても、自分の中で解決できてない。別世界に置き去りにしてしまったコールドケースみたいに。未だ勇刀は、何かを探し求めて別世界の中を彷徨い走る感覚に陥っていた。
✳︎ ✳︎ ✳︎
--カシャッ!!
と金属が床の上で擦れる音がして、市川はハッとした。無理矢理開けた目は、焦点が合わない。靄のかかる市川の視界に、見慣れた型式の拳銃が突然、滑り込んできた。市川は無意識に拳銃に手を伸ばす。冷たく硬い金属の感触が指先に伝わった瞬間、ひどい目眩いに襲われて伸ばした手が床に落ちた。はっきりとしない意識下。それでもその拳銃を手にしなければならないと本能で感じていた市川は、浅くなる呼吸を無理矢理に深くした。
「……ッ」
途端に、喉元が焼けるように熱くなる。言葉が上手く出てこず、胸を圧迫するような苦しさが、市川の呼吸をさらに困難にさせた。体の中は内臓まで熱くてたまらないのに、市川の四肢は雪に長く触れていたように冷たく、思うように動かせない。
(夢なのか? それとも現実なのか?)
ふと、市川の目の前に、チラチラと白い雪が舞っているのが見えた。市川の周囲が次第に暗くなり、舞い散る雪がより鮮明になっていく。市川はゆっくりと体を起こした。雪が降る向こう側に、何かが見えたからだ。乱れる呼吸と言うことを聞かない体を気力で支え、市川は必死に目を凝らした。
「!?」
瞬間、落雷を受けたのではないかと思うほどの衝撃が、全身を貫く。衝撃は心臓が止まりそうになるほど強く、俄に信じ難い光景を目の当たりに、市川は幻覚を見ているのではないかと思い始めていた。なぜなら、そこには。先刻までいなかった、小さな男の子が倒れていたからだ。
(あの子……見たことある)
職業柄、どこかで見かけたであろうその男の子は、目に涙をいっぱいにためて市川を見つめていた。
(そうだ……あの子は、確か町外れの神社で)
古い神社の祠で震えていたあの男の子だ、と。市川は確信した。咄嗟にその子に駆け寄ろうと、市川はかなわない体を必死に奮い立たせる。次の瞬間、市川はハッとして動きを止めた。チラチラ舞う雪のその子の視線の先。
あの男……ルカがいたのだ--!! 市川を長い間苦しめていたルカが、小さな男の子に馬乗りになっている。ルカの右手には、市川の体を深く傷つけて、記憶を禍々しく刻んだ短剣が握られており、今にも小さな男の子に向かって振り下ろされそうに掲げられていた。
(やめろッ!!)
音にならない叫び声をあげた市川の全身から、冷や汗がドッ噴き出す。
『オレ、悪い子なんだ……』
短剣を突きつけられている男の子が、市川を見て震える声で呟いた。口角を少し上げて諦めたように笑う男の子に、市川は自由に動かせない体を床に這わせて、必死に引き摺った。
『オレ、生まれた時から、ずっと悪い子なんだ。だから、ね。誰もオレと手を繋いでくれないの』
悲しげに言ったそばから、男の子の手がみるみる真っ赤に染まっていく。市川はハッと息を呑んだ。血のような色味がその子の手を深く染め上げ、反射的に市川の体は硬直した。
『オレが悪い子だから、みんなオレを見てくれない。オレが悪い子だから、嘘をついて離れていっちゃう』
(違うッ! そんな風に言っちゃダメだっ!)
『……ごめんなさい』
辛そうな顔をしているのに、男の子は無理に笑顔を作って市川に謝罪する。
(何で!? 何で謝ってるんだ!? 君は悪い子じゃないだろ!!)
『オレ、すごく嬉しかったんだ。あの時、声をかけてくれて。オレに笑ってくれて。オレに……手を差し伸べてくれて。すごく……すごく、嬉しかったの』
溜まった涙が、瞬きしたその目から揺れて溢れて、頬を伝う。市川は体を引き摺り、床を這いながら男の子に手を伸ばした。
(もう少し……もう少し!!)
「それは、偽善だよね? 市川さん」
男の子との距離を、一気に壊す刹那。短剣を振り翳したルカが、笑いながら振り返る。一瞥するルカの瞳は、市川が忘れることができない狂気を含んでおり、市川の背中を言いようのない冷たい汗か流れ落ちる。
「生まれながらの悪なんだよ」
ルカは、男の子を蔑むように見下ろした。振り上げたルカの握る短剣に、雪の光が反射する。その鋭い光には市川の目の奥を焼き切るような痛みを感じさせる。たまらず市川は、目を細めた。
「市川さんに謝罪してるコイツが、腹の中で何を考えているかわかる?」
ルカは、嘲笑うように言う。
「市川さんの腹に刃物をつき立てたいって、そう思っているんだよ?」
(勝手なこと……を! 言うなッ!)
「所詮、みんな一緒なんだよ。ここに抱える悪は」
短剣を握り直したルカは、短剣の柄で自分の胸をコツンとついた。どうにもならない怒りや負の感情が、ルカから煙のように立ち昇る。常軌を逸したルカの雰囲気に、市川はルカから目が離せなくなった。押さえつけ、馬乗りになっているルカから感じる強烈な殺意。市川は全身が震えあがるような狂気を感じ、握りしめていた拳銃に力を込めた。
これが夢なのか、現実なのか。
今、目の前の光景は……。それすら判別することが市川にはできない。
しかし、今なら。
今なら、ルカを止められるのではないか、と。市川は床に右手を固定して支えた。そして、ゆっくりと撃鉄を引く。
「コイツも、この期に及んで……! 消してやるよ! 一生でてくんなッ!!」
舞い散る雪を払いのける勢いで、ルカは短剣を大きく振りかぶった。
泣きながら顔を引き攣らせる男の子に、鋭い刃先が振り下ろされる--。
--パァン!!
重たい衝撃が右手に伝わり、軽い破裂音が市川の耳をつん裂く。同時に、ルカの体がビクッ大きく震えた。反動なのか、時間が止まってしまったかのように、短剣を振り上げたルカの体が止まる。ゆっくりと、ゆっくりと。大きく傾いたルカの体は、チラチラと舞い散る雪を巻き込みながら、床に倒れた。
(!?)
瞬きをしているほんの僅かな時間。舞い上がった雪が渦を巻きながら倒れたルカと男の子を包み込む。姿が見えなくなるほどに舞い上がった雪。市川が目を閉じた瞬間、跡形もなく消えていた。まるで雪が二人を攫っていったみたいに、あっという間にいなくなる。
〝そばにいてよ……さみしく、しないでよ……。ぼくを、ひとりに……しないで……〟
渦を巻いた雪は、何事もなかったかのように、闇に吸い込まれる。またチラチラと暗闇の中を舞いはじめたその雪は、あの男の子の寂しげな声を含み、冷たい風に乗って市川の耳に音を残す。
(雪になったんだろうか……? 私も、雪になるんだろうか?)
それもいいか、と。市川は床に体重を預けて、暗闇を見上げた。止まることなく、雪は市川にしんしんと降り積もる。肌に当たる雪はなぜか冷たくもなくて。溶けもせずに市川の体を覆い始めていった。ぼんやりと、市川は自分に降り積もる雪を眺めていた。そうしているうちに、尋常じゃない眠気が市川を襲う。
「……いちかわ……さん」
静かな、暗闇に身を落とそうとしていた市川は、遠くから自分を呼ぶ声を拾った。
でも、もう関係ない--。市川は、心地よい声に耳を傾けながら、深く沈む意識に合わせて目を閉じた。
「市川さんッ!!」
そうか、この声は--。市川をいつも引き止める、お節介の声。暗闇に深く沈む意識に割り込むその声に、市川はゆっくりと目を開けた。
(あぁ、やっぱり……)
目の前には、心配そうに自分を覗きこむ勇刀の顔。ガラにもなく、目に宿した涙が溢れてしまいそうな勇刀に、市川は思わず苦笑した。
「……緒方……早く……帰……れ」
「市川さん!! しっかりしてください!!」
必死に市川の手を握り、体を支える勇刀の体温が何故か非常に心地よく感じて。市川は勇刀の頬にそっと触れた。
「雪に……攫われ……る……」
「市川さん……!?」
「緒方……離れろ……」
再び落ちそうになる意識下。雪混じりの闇が、次第に市川の視界を狭くさせる。勇刀の姿が、雪混じりの闇に飲み込まれて始めた。
(あぁ、そうか……)
相変わらず市川の頭上からは、チラチラと雪が降っていて、勇刀を避けるように市川に降り積もる。勇刀には雪が見えないのか、と。市川は少し安心した。
「……勇……刀」
「市川さんッ!!」
勇刀が市川の名を叫んだ瞬間、階下からバタバタと複数の靴音が建物を揺らすのが聞こえた。静寂から一変。壁に反響する声が、捜査員たちの声であることがわかり、勇刀の張り詰めた緊張の糸がスッと緩んだ。体の力が抜けた途端、抱き上げた市川の体が、勇刀には異様に重たく感じた。
「市……川……さん……?」
呼びかけても応じない市川を抱き上げたまま、あたりを見渡す。床の上に投げ出された三人の周りに広がる黒い水溜りが、淡いオレンジの灯りを乱反射させた。凄惨な現場を、経験していないわけではない。
しかし、この現場は……。自分の目に映るこの現場は、ため息が出るほどキツい焦燥感を勇刀に纏わりつかせる。この感覚は、勇刀の父親が殉職した時の感覚に似ていると思った。堪えていた涙が、驚くほどゆっくりと勇刀の頬をつたった。
「緒方ーッ!!」
自分を呼ぶ声に反応する気力すらない。勇刀は市川を抱きしめたまま、徐々に近づく足音と声にただただ耳を傾けていた。
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