8ー2 重ねる手、繋がる手(2)

「まま……」

 固く閉ざされた、重く深い色合いの扉。その前に、小さな男の子は、耳の下で綺麗に切り揃えられた髪を揺らし、寂しそうに母親を呼んだ。扉の向こう側からは、微かに人の気配がする。部屋の中に、その子の母親がいるのだろうか。母の温もりを欲する男の子のか細い声が、波紋のように廊下を滑っていく。しかし、部屋の中の人は、渇望したその声に反応し答えることもなく、重厚な扉のドアノブはガチャリと音すら立てなかった。

「ルカ様。また、こんなところに」

 突然、背後から男の子に投げつけられる、女性の威圧的な口調。男の子は、肩を小さく震わし振り返った。決して開かない扉に添えられた小さな男の子の手を、大人の手が鋭く掴んで乱暴に引き剥がす。男の子を見下ろす若い女性は、眉間に皺をよせ不機嫌さを隠さずに男の子の手を捻り上げた。

「いたいよ……」

「ここに来てはいけませんと、何度も申し上げているでしょう!」

「いやだ……いやだぁ!」

「帰りましょう、ルカ様」

「やだぁぁ! ままぁ! ままぁ!」

 泣き叫ぶ男の子に、女性はわざとらしくため息をつく。そして、肩が外れてしまいそうな勢いで、男の子を引きずりながら廊下を歩き始めた。薄暗い廊下に響く、幼い子どもの泣き叫ぶ声とカツンと踵が強く地面に当たる女性の靴の音。その音は誰にも邪魔されることなく、いつまでもこだましていた。


 幼い頃から一人だった。

 ルカ自身、そう記憶している。遊びきれないくらい、部屋に並べられたたくさんの玩具に、肌触りのよい上等な布地で仕立てられた山ほどの服。裕福な家庭に生を受け、何の不自由もないはずであるのに。物心つく前から、形の成さない人の暖かさや安らぎと言った類のものを、感じて育つことはなかった。

 物に溢れた静かな部屋と物言わぬ大人に仄暗い廊下。それがルカの世界の全てだったのだ。

 仕事以外は全て無関心な父親に、心を病んで部屋から出てこない母親。幼いルカの世話をしてくれる女性はいたものの。寂しさや心の隙間を埋めてくれるほどの愛情を、ルカへと注ぐことはなかった。

 手を握って欲しくても、暖かな体温を感じたくても、泣いても笑っても、怒っても。感情の全てをぶつけて手を伸ばすルカに、手を差し伸べ抱き上げてくれる人はいない。寂しさや苦しさから救い出し、ルカの全てをあたたかく満たしてくれる存在は皆無だった。小さなルカは一人。誰とも接することなく広い屋敷で、孤独で平坦な日々を過ごしていたのだ。

 転機は、それからすぐに訪れる。幼稚園に通うようになり、ルカの生活は一変した。家とは違う眩い光と言葉に溢れた明るい世界。自分と同じ格好をした子どもたちは、部屋や園庭を所狭しと遊び回り、思いのままに感情を表現する。差し伸べた手が差し出された手と繋がり、眩しいくらいに笑いあう。土砂降りの雨のように、ルカに容赦なく降りかかる言葉や感情。他人の感情の起伏に初めて触れ、なんとも表現し難い気持ちの悪さが、ルカの腹を締め付ける。

「ルカくん、あそぼ?」

 〝手を握りたい〟と、切望していたはずなのに。いざ目の前に、差し出された柔らかそうな手を、ルカはどうしても触れることもできなかったのだ。

 --馴染めない。違う……この手じゃないんだ。

 今まで育っていた環境がそうさせていたのだろうか。先生が手を引いて子どもたちの中に誘っても、ルカは首を横に振ってそれを拒否する。輪の中へと入れない。代わりにそわそわと落ち着かないほど明るい部屋の隅で、ルカはひたすら本を捲る。一人でいることは、全く苦ではない。むしろ、一人でいたかったのだが、明るい世界はそれを許してはくれなかった。

 しかし喜怒哀楽の溢れる世界とルカの境目を、本は曖昧にしてくれた。ルカは深くその身を嵌らせた。境界線が曖昧なら妙に構われることはない。誰もルカを咎めることもない。そのうち本を眺めながら、ルカは周りの子どもを観察するようになった。観察した結果、子どもたちを真似をした違和感のない笑顔を習得することができた。周りに馴染んで溶け込むこと、それは幼いルカが初めて身につけた処世術だった。

 ある日、ルカは一冊の絵本を手にする。たまたま目にした絵本に、ルカは目が離せなくなった。小さな生き物の体の仕組みが、図入りで解説してある絵本。体の中の細部まで具体的に記されたその本に、ルカは異様なまでに興味を示した。ページを捲るたびに、頭や胸が躍り出すほどにルカを刺激する。詳細な図解の動物の体の内部をもっと知りたい、そう思えば思うほど。対象が、絵から実際の生き物に変わるまで、たいした時間もかからなかった。


「コバヤシさん、おそとであそんでくるね」

「あまり遠くには行かないこと。それと……」

「〝ムシはへやにいれない〟でしょ?」

「……よろしい」

「いってきます」

 年長ほどになると、ルカは見様見真似で習得した感情のスキルを自由に操れるようになっていた。普通の子どもと変わらぬその姿に、世話係の女性も以前のように厳しい態度を取ることもない。ルカはにっこりと可愛らしく笑うと、虫取り網を振り回して庭へと走り出した。

 ルカの住む屋敷には、広い庭があった。記憶の破片と化した母親の姿を求めて、家の中から出ることがなかったルカは、虫取り網片手に庭を走り回る。雑木林が広がる庭には、たくさんの小さな生き物が生息していた。休みの日になると、ルカは朝から晩までそれを追いかけ回しては捕まえる。はじめはバッタや蝶等の昆虫。籠いっぱいに捕まえたそれらを、ルカは手にしたカッターナイフで、一匹一匹丁寧に解剖していった。

(本より、すごくキレイだなぁ……)

 詳細に鮮明に記憶した絵本の図が、今、ルカの手の中にある。興味を刺激する、ルカが初めて味わう満たされた時間。見たいものが見れたという満足感を得られた反面、満たされた時間が一気に色褪せてしまうほど、動かなくなる小さな生き物が許せなくなった。たくさん捕まえた虫も、カッターナイフを体に入れるとあっという間に動かなくなり、ルカの髪を撫でる旋風に攫われていく。

〝そばにいてよ、さみしくしないでよ。

 ぼくを、ひとりにしないで。

 ……あ、そうか。もっと……おおきかったら、だいじょうぶなのかな?

 ぼくをみたしてくれるものを、さがさなきゃ〟

 その思いは小さな対象から、大きな対象へと移る。次こそ自分を一人にしないのではないか、と期待が昂り渦巻いていった。心に芽生えた期待が、初めて〝生きている意味〟を見出したのだ。

 その日を境に、ルカはさらに変わった。積極的に話しかけてコミュニケーションをはかる。友達も増え、先生からの覚えもよくなった。誕生日を重ね成長するごとに、ルカはあることに気付いた。

 〝人は嘘をつく。そして、真実よりも嘘を信じる〟と。

 友達も先生も、何でもない表情をして平気で嘘をつく。そしてその嘘を真実にしていく。そのたびに〝生きている意味〟が小さくなり、ルカは自分を否定されたような感覚に陥った。


「佐藤! 今日、俺ん家でゲームしねぇ?」

「ごめん、今日は用事があるんだ」

「そっか、残念」

「また、今度やろう」

「〝真実の門〟のクリアの仕方、教えてくれよな! 佐藤!」

「うん!」

 体に合わなくなったランドセルを背負い、ルカは反対方向につま先を向けた友達に手を振った。一人歩く大通り。その道から一本逸れて裏道に入る。通学路とは違う道のりを、ルカは迷うことなく歩き続けた。

 可愛らしかった容姿が、思春期に入る手前の危うさを含む。随分と大人びた雰囲気を放つルカは、ランドセルの底でカタカタと重力を帯びる短剣の存在に、自然と胸が高鳴った。

(今日は、何をかな)

 思わず口元が緩み、同時に無数に刻まれた腕の傷に、ルカは頭が冷たくなるほど冴えていくのを感じていた。

「佐藤、その腕どうしたんだ?」

「ん? これ? 猫にひっかかれちゃった」

「大丈夫か?」

「大丈夫だよ。オレおっちょこちょいだから」

「確かに!」

 ルカが他人に見せる感情は、本当の自分ではない。嘘はついていない。ただ合わせるだけ。友達と交わす笑顔も、映画を見て泣くことも。ただ、そうしていれば楽だと気付いた。共感し合わせていれば、ルカのことなど気にする者はいない。たとえ、ルカの腕に刻まれた傷の本当の理由など、誰も興味はないのだ。

 父も、母も。誰もルカに興味はないのだ。

 昆虫を解剖していた小さな男の子は、〝生きている意味〟をうちに秘めたまま成長した。より強い意味を得るために、いつまでも昆虫や爬虫類で満足できるはずもない。

 この日もルカは人目を避けながら、街外れの雑木林へと足を踏み入れた。落ち葉が深く積もる道なき道を進む。足がサクサクと落ち葉に埋まるたびに、高揚感と緊張感が増幅する。無意識に歩みが速くなった。

 この先には、古びた神社がある。誰も来ない小さな祠は荒屋と化していたが、辛うじて雨風が凌げる祠にはルカの〝獲物〟がたくさんいたのだ。ランドセルから取り出した短剣を鞘からソッと抜いて、いつものように足音を消して祠へと入る。暗い祠の奥に緑色に輝く二つの光。こちらの様子を伺う小刻みに揺れる光に気付いたルカは、間髪入れず襲いかかった。

「君、何してるの?」

 突如、ルカの背中に刺さる言葉。思わず握りしめていた短剣が手から離れ、祠の奥へと飛んでいく。次の瞬間には、暗闇の中でルカを見つめていた緑色の光が消えた。心臓の鼓動が耳から漏れ聞こえてしまうのではないか、と思うほど。驚愕し、うまく息が吸えないルカは、ゆっくりと振り返った。

「……」

「大丈夫? この祠、すごく古いからいつ崩れるかわからない。危ないからこっちにおいで」

 近くの高校生だろうか。この辺りでは有名な進学校の制服を着た男が、ルカに穏やかな笑顔を向け、腕を伸ばしてルカに手を差し伸べる。ルカは思わず身を引いた。

「……」

「ほら、早くおいで」

 --これ……これなんだ! この手なんだ!!

 綺麗な指の、白い手。ルカは思わずその手を掴んでしまった。斜光のあたたかな光に照らされた男の笑顔が眩しい。嘘がない笑顔も、繋いだ手の暖かさも。小さな頃から与えられず枯渇した〝愛情の器〟に水を満たして溢れさせるほど。ルカに強い衝撃をもたらす。

「大丈夫? ここは最近、変な人が出るらしいから。一人できちゃダメだよ」

「変な……人?」

「うん。猫が死んじゃったりしてるんだ」

「……」

 ルカはたまらず息を止めた。嘘をつけないから息がとまる。湧き上がる言葉で嘘をついてしまいたくなるほど、ルカの手を握るこの人に嫌われたくないと思った。同時に、自分の手を握るこの人に、短剣を突き立てたくなる欲求が支配する--。

「もう、ここに来たらダメだよ? いい?」

「……うん」

「約束だ」

「……オレも、約束したい」

 咄嗟に、ルカは呟いた。

「何? いいよ。約束しよう」

 学生服の男はルカに視線を合わせると、傷だらけなルカの小さな手を両手で包み込む。

「また、会える?」

「会えるよ」

「会ったら、オレと仲良くしてくれる?」

「うん。もちろん」

「オレと?」

「うん。いいよ」

 名前も知らないその男の表情や声を、頭のメモリに深く刻み込む。いつか二人で、二人だけで〝生きている意味〟を見つける。その日のために。

 その男がまさか、ルカの目の前にいきなり現れるとは思わなかった。拘束した制服警察官が、探して探し求めた男--市川雪哉だったのだ。

 年齢を重ねるにつれ、ルカの求める刺激は強く狂気を孕む。大学生になる前には、野心が強い警察官・霜村の情報屋として闇の仕事を請け負い、刻み込んだ約束を果たすための感覚を研ぎ澄ませていた。すべては、あの日出会った--市川との約束を果たすため。


 ルカから逃れようと必死に身を捩る市川に、ルカは満足した。毎日妄想した。どんな方法でどうしたら市川と〝生きている意味〟を共有できるのか? 実際、苦しみ震える市川の姿を目の当たりにしたルカは、自分の想像を遥かに超える現状に、頭が熱くなるほど興奮した。たまらず笑いがこみあげる。

「ねぇ、市川さん」

 腰から短剣を引き抜く。鋸を引くように前後に動かして、男は拳銃吊り紐をギリギリと軋ませて言った。

「また、オレと遊んでよ」

「!?」

「ね、市川さーん」

「……何をッ!!」

「はじめは目隠しをしてあげるよ。大丈夫、怖くないから」

 ルカは、市川の拘束された手を包み込むように握る。

「約束、だから……ね? あの日の約束なんだよ」



 ✳︎ ✳︎ ✳︎


 --パァン!!

 暗闇を引き裂く一発の銃声が、ルカの近くで聞こえた。同時に、胸にじんわりと熱さが放射状に広がる。幼少の時に感じた、永遠に進まないのではないか? いやにゆっくりと刻まれる時間。瞬間、ルカの視界が大きくブレた。

「ッ!?」

 胸元に視線を移すと、黒い上着にじわじわと濡れたシミが広がっていくのが見える。体の力が抜けて、ルカは側面から荒れた床に倒れ込んだ。

「……市川、さ……なん、で……」

 言葉を発すると、血が逆流した血が溢れ出す。辿々しく息をするルカの視線の先には、ルカに銃口を向けている市川の姿があった。虚な表情で銃を構えている。

「……手ェ、繋いで……市川さ」

 必死に市川へ手を伸ばすルカの脳裏には、あの日の市川の感覚が蘇る。穏やかで嘘がない笑顔に、腕を伸ばして手を差し伸べた手の綺麗な指。繋いだ手の暖かさも、全て。鮮明に蘇り、宙に浮いている血だらけのルカの手は余計に、市川の手を欲した。

「……市川さんは、繋げない」

 その時、横から急に現れた大きな手が、ルカの手を強引に握る。勇刀の手は、冷たく濡れたルカの手をしっかりと掴んだ。離さないように、その掌に尋常じゃないくらいの力が入った。

「離……せ! 離せ……」

「繋げない。繋がせない」

 ルカの目を真っ直ぐに逸らさずに、勇刀はルカに向かって言った。

「おまえの最後の記憶を……市川さんにしてたまるか! おまえは……おまえには……後悔しか残さない! 今まで殺めてきた命の分、おまえの望む最後にしてたまるかッ!!」

 黒い靄が視界にかかり、意識が遠のく最中にも拘らず、ルカの胸に勇刀の言葉が深く刺さる。

「……しないで」

 それでも、ルカはもう一つの手を懸命に市川へと伸ばした。深く根を張る幼少期の記憶。その寂しさや苦しさが一気にルカを覆い尽くしていく。ルカの微睡んだ瞳から、一条の涙がこぼれ落ちた。

「そばにいてよ……さみしく、しないでよ……。ぼくを、ひとりに……しないで……」

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