7ー3 過ち(3)
「裏はどうだ? 緒方」
遠野の声は、白い息に乗せて暗闇に溶けていく。その声に反応して、装着したイヤホンがガサッと音を立てた。
『こちら、緒方。建物裏側には、勝手口等の出入り口はありません。二階の窓から、僅かに灯りが見えます』
勇刀のはっきりとした声が、耳に差し込んだイヤホンをとおしてダイレクトに聞こえる。受信した声に混ざり、腰に携行した無線受令機は相変わらずガサガサッと雑音を発していた。
静かな林道の奥に佇む建物。かつては、賑やかな声がこだまする別荘だったであろう佇まいは、古いながらも洒落た造りをしていた。暗闇に慣れたとはいえ、老眼が進んだ遠野の視力でも、それは十分に確認することができた。
遠野は、ハッと短く息をする。ジャケットの下に手を入れて、右手でそっと拳銃の銃把に手を添えた。そして、ジャケットの襟口にピン留めされたマイクに顔を近づけた。
「出入り口は、正面玄関とウッドデッキの掃き出し窓だけだ。緒方、表に回れ」
『了解』
林道の奥に覆面パトカーを停めた勇刀たちは、無線機を県内波から署活系に切り替えた。そして、ジメッとして柔らかな腐葉土が覆う道なき道を慎重に進む。五分あまり進んだだろうか。当たり前のはずの静けさに、違和感を覚えながらも。着実に近づていく建物に、遠野は人知れず緊張の度合いを大きくしていた。
急に目の前から木々がなくなる。拓けた林道の先には、古びた建物が、来るものを拒むかのように聳え立つ。実際はそこまで大きくもないのだが、迫り来るような暗い壁は、遠野の緊張を助長させるには十分だった。
遠野は勇刀と稲本に目配せをして、建物外の検索を開始した。勇刀は左手から裏側に回り、稲本は別棟の小屋へと足を向ける。遠野は靴音を響かせないように、正面のウッドデッキに上がった。掃き出し窓の鍵は壊され、辛うじて残った窓ガラスが、いつ落ちてきてもおかしくないくらいプラプラしている。遠野は衝撃を与えないように、ゆっくりと後退した。
「遠野係長、こちらは異常なしです」
別棟の小屋を見回っていた稲本が、懐中電灯を片手に遠野に近づいてきた。
「稲本、懐中電灯を消せ」
「え?」
「中から丸見えだ」
「!?」
稲本が慌てて懐中電灯を消したと同時に、黒い輪郭の影を揺らし、勇刀が建物の右手から現れる。その方向には、セダンタイプの自動車と懐かしい型式のスカイラインが止まっている。建物の影を沿うように、車の間をすり抜けた勇刀は、途端に暗闇に向けた目を凝らすと怪訝な顔をした。
「……どういうことなんだ?」
「どうした、緒方」
「このスカイライン、市川さんの弟さんが乗ってるんです」
「……」
「なんで、こんなところにあるのか……」
めずらしく難しい顔をして、考えを巡らす勇刀の肩を遠野は軽く掴む。眉間に皺を寄せる勇刀の耳元に、遠野は口を近づけた。
「余計なことは考えるな、緒方」
「……」
「市川を救うことだけ考えろ! いいな!」
「……はい」
「気を抜くんじゃないぞ。緒方、稲本」
「了解」
二人の小さな返事を聞いた遠野は、若い二人にさとられぬよう、自分自身を鼓舞するように頷く。徐にジャケットを左手で再び掴むと、ピン留めされたマイクに向かって声を放った。
「サイバー遠野から、署活三系各局。ただ今より、当該無線はサイバー犯罪対策課優先とする。現在、市川を誘拐したと思われる被疑者が潜伏している建物に到着。周辺検索、異常無し。遠野、緒方、稲本の三名にあっては現時刻をもって建物内に突入し、検索を開始する。なお各サイバー犯罪対策課員の応援に当たっては、赤色灯の消灯及びサイレンの消音を確実に励行し、現場に臨場されたい」
『サイバー佐野、了解。当該、現場位置詳細情報を至急、各捜査員に転送されたい。どうぞ』
無線の言葉を受け、間髪入れず勇刀が、現在地情報を捜査員に一斉送信する。
「サイバー遠野、了解。現在地を各捜査員の携帯端末へと送信した。現着にあたっては細心の注意をはらい、受傷事故防止に努められたい。以上、サイバー遠野』
淀みなく、遠野が無線を通して指令を出し終えた。その時--。
--パン、パン! パァン!!
「わっ……!」
頭上から雨が落ちるように響く銃声。稲本が短く叫び頭を抑え蹲る。よく聞き慣れた音であるにも拘らず、遠野は反射的に身を縮め、勇刀は咄嗟にホルスターに収まった拳銃に手をかけた。
「……遠野係長ッ!」
勇刀の緊迫した声に、体に電気が走るような衝撃が貫く。
急を要する--! そう判断した遠野は、汗ばむ両手で拳銃を握りしめた。
「行くぞ……! 緒方! 稲本!」
銃口を地面に向け、体勢を低くして玄関の扉へと走る。遠野がドアノブに手をかけた。瞬間、遠野に目配せをした勇刀が、小さく頷く。
ギィィィッ--!!
腐った扉の軋む音と錆びた蝶番が擦れる音。不快に響く音が、遠野の心拍数を引き上げた。サッと軽い身のこなしで玄関に滑り込んだ勇刀が、四方に拳銃を構え叫んだ。
「クリア!」
その声に弾かれ、遠野と稲本が建物の中へと続く。床材が割れ、壁がひび割れる室内。長いこと人を受け入れてこなかった建物であることが、一目瞭然だ。荒んだ目の前の光景とは反対に、あたたかな柔らかい光がぼんやりと三人の輪郭を染め上げた。その光は、絶望するほど散乱した床の上までをも、別世界の如く照らし出す。
「緒方! 稲本! 二階だ!! 急げッ!!」
「はいッ!!」
正面の階段を、勇刀と稲本が勢いよく駆け上がる。下に向けられた二人の銃口を見ながら、遠野はギュッと下唇を噛んでそのあとに続いた。
光がのぞく二階の入り口まで、あと数歩。遠野が拳銃を構え壁に背をつけた、次の瞬間。目の前を走る稲本が、遠野の視界から消えた。
「うわぁぁぁ!!」
「稲本ッ!?」
壁にぽっかりと口を開けた大きな穴。底のない深い闇が、突然横に吹き飛ばされた稲本をのみこんでいく。遠野が手を伸ばす間もなかった。腕時計の秒針が二つ、三つと進む間に。稲本の叫び声が、段々と遠くに落ちていく。
「あんた、人の心配しているヒマないんじゃない?」
「……なっ!?」
遠野の面前に突如として現れた、若い男。その男は監視カメラに映っていたあの人物と酷似していた。
(こいつか……!?)
稲本が落ちる時間とは正反対に、ゆっくりと流れる時間が遠野に纏わりつく。ニヤリと笑う男と遠野の間に、スラリと冷たい光が横切った。手入れが行き届いた刃先の鋭利。水が滴るような短剣が、光の弧を描き遠野の鼻先を掠める。瞬間、冷たい汗が遠野の体から一気に吹き出した。同時に、後ろに遠野の体が大きく傾く。
思わず遠野は、手にした拳銃の引き金を、ひいた--。
--パァン!!
「よく聞いて、雪……。遠い昔を思い出すんだ」
ピクリとも動かない市川の肩を抱き、陽哉は壁にもたれて静かな声で話しかけた。ルカが部屋を出て行って、静寂が二人を包み込むように広がる。ルカの望むとおりに、忠実に。陽哉は市川の記憶を呼び起こす暗示をかける。ハッと息を漏らした瞬間、陽哉の張り詰めていた緊張の糸がいきなり弛緩した。思考や体が、とてつもなく重力を感じる。
「雪……思い出して、お願いだから……雪」
言葉は切実ながらも、感情のこもらない抑揚のない陽哉の声や言葉。その言葉に、市川が返事をすることはなかった。
響くのは、緩慢とした陽哉自身の声。
腕の中にいる市川が、あまりにも静かで。たまに呼吸をしていないのではないか、と不安にかられた陽哉は、腕に力を入れて華奢な市川の体を抱き寄せる。市川の体から発せられる尋常ではない熱に、陽哉は泣きたくなるほど安心したていた。
--生きていてほしいのに、生きていて欲しくない。
相反する自らの気持ちに整理がつかないほど。陽哉の心は、今限界の瀬戸際にきていたのだ。
市川の体内に流し込まれたのは、いつもより濃度の高い催眠剤。その薬剤が市川の意識を底のない闇を絡ませ、別世界へと落としていく。カクンと落ちる市川の首を自分の肩にのせ、陽哉は天を仰いだ。
ルカに言われるがまま。毎晩毎晩、陽哉は市川の飲食物に催眠剤を飲ませ暗示をかけた。そして、記憶を遡る。その度にあの事件の記憶に阻まれ、魘され苦しむ市川の姿を目の当たりにしていた。恐ろしくてたまらなかった。陽哉は市川のそばにいることさえできず、震えながら一人夜を明かす。毎晩のことだ。部屋の隅でうずくまり、時がすぎるのを待つ。自分自身がおかしくなりそうだった。
何度、終わりにしようと思ったことか。今日こそは、ルカとの関係を終わらせる。兄をルカの魔の手から離さなければ。
そう決意して一歩踏み出そうとしても、ルカの発する禍々しい狂気に気圧されて、言うことに従ってしまう自分がいた。
どこで間違ったのか? この過ちをいつまで繰り返すのか? 自問自答しているうちに、自分の正常が、なんなのかが分からなくなった。気がつけば、身を守るために陽哉は自ら強い薬に手を出していた。
市川の世話をする良き弟を演じ、良識ある人物を取り繕う。強い薬は陽哉に正気を与えたが、市川とのかけがえのない記憶を塗りつぶしていった。
〝ルカの言うことさえ聞いていればいい。ルカは兄を酷い目に合わさないと言った。自分を兄を守るためには、ルカの言うことを聞いていればいい〟のだと。
自分を守るために築いた壁。全て、陽哉自身を守るための見えない壁を築くためにしたこと。
そのかわり、取り返しがつかないくらい、落ちるとこまで落ちてしまった感覚に苛まれる。落ちた別世界から這い上がりたいと望めば望むほど。陽哉の犯した過ちが立ち塞がった。這い上がることすらできない。苦しさに目を背け、また強い薬に手を出す。
どうしようもない悪循環。自分の本当を、兄である市川に見られたくない。透明感のある市川の目と、自身の濁りきった目を合わせられなくて、陽哉はリビングの写真立てを伏せた。伏せたのは自分のはずなのに、強い薬はその記憶すら塗り替えてしまう。虚構に守られた砂の城のような陽哉の心は、打ちつける波に攫われ壊され流されていく。次第にルカにも薬にも。陽哉は抗うことができなくなっていた。
(もう、どうしようもないじゃないか……)
陽哉の犯した過ち。過ちに懺悔しても救われない。終わることない異常な日常と、ルカの本心を知ってしまった今、陽哉は心身ともに限界に来ていた。
--終わらせたい! もう、終わらせなきゃ!
「……雪、もう……終わりにしようか」
何の感情も生じないまま、陽哉の頬を涙がつたう。悲しいというわけでも、解放感からというわけでもない。ただ、終わらせたい。その思いだけで、陽哉は市川の細い首に手を回した。
「雪……雪……ごめんね、雪」
回した手に力を込めた、その時。
--パァン!!
背後で嫌な記憶を呼び起こす破裂音がして、陽哉は振り返った。
「陽哉さん……何、してんすか……!?」
聞き覚えのある、真っ直ぐな声。その声に驚いた陽哉は、咄嗟に意識のない市川の首に腕を回した。今にも華奢な首を締め上げてしまいそうな体勢をとる陽哉。痙攣した市川が苦しそうに息を乱す。
取り乱した陽哉の正面には、拳銃を構えた勇刀がいた。自身を落ちつかせるように、肩で息をする勇刀は、間合いを少しずつ詰めながら静かに陽哉に声をかける。
「陽哉さん、市川さんを……お兄さんを離してください」
銃口を向けられ表情が強ばる陽哉に、勇刀は再び口を開いた。同時に、ガチャリと。勇刀の手の中で拳銃が音を立てる。
「陽哉さん、俺は本気です。早く市川さんを離してください……陽哉さんッ!!」
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