7ー2 過ち(2)

「はぁ? どういうことー?」

 冷たい空気がキン--と、市川の肌を刺激した。頭上からは、それ以上に冷たい声が滝のように落ちてくる。鈍く痛む背中の感覚に呼吸ができず、市川は体を捩った。

 ガチャリと。腰のあたりで、金属が擦れる音がする。後ろ手に拘束された腕、同時に生温かい感覚と鋭い痛みが走った。途端に市川の心臓の鼓動が爆発したかのように、一気に速くなる。体中を巡る血液の速度に促され、直近の記憶が映画のダイジェストシーンの如く脳裏に蘇った。

 現場臨場を指令する無線。パトカーの赤色灯。霜村と交わした他愛もない会話。頭の中で絡まり廻りだす。

(霜村と現場に臨場して……それから……それから)

 ぼんやりとする視界に。市川は瞬きを何回も繰り返し、懸命に照準をあわせた。強く速く目を瞬かせている内に、自分の置かれている現状がようやく、認識できるようになってくる。

 だだっ広い、何もない部屋。小学校のように柵のついた横に長い窓ガラスが、市川の目に飛び込んできた。開放的な窓ガラスを透過して、うっすらと月の光が部屋を照らしだす。市川の目の前まで迫るその僅かな光は、市川の未だ薄らとぼやける視界に二つの影を落とした。

 一つの影を辿る。その先には憔悴した表情の霜村がいた。たまらず声をかけようとした矢先、何かに引っ張られるように右側の腰が浮き上がる。     

 瞬間、市川の血の気が引いた。

 交番勤務に従事する警察官は、拳銃を携行する際、自分の身と拳銃が離れないようにストラップで繋ぐこととなっている。このコイル状のストラップを拳銃吊り紐という。拳銃の強奪防止のために装備されているものなのだが、この拳銃吊り紐は、ちょっとやそっとの刃物や圧力では断線しない仕組みになっている。腰付近に目をやると、通常は腰に装着した帯格にぶら下がる拳銃吊り紐が、重力に逆らってビンと上向きに引っ張られていた。市川は、ハッとしてその先を目で追った。

 拳銃吊り紐の先の鉄の塊を、若い男が握っている。一瞬、中学生かと思うほど。その容貌は、市川にはひどく若く幼く見えた。腕を伸ばし拳銃を構えた男の視線の先には、強張った顔をした霜村がいる。

「……やっぱり、やめよう」

 両手を後ろ手に拘束された霜村は、銃口を向けられながらも、若い男を宥めるように落ち着いた口調で言った。表情とは正反対の霜村の声音。その声をよそに、男は拳銃を握る手に力をいれた。ガチャリと撃鉄が音を立て、弾倉が回転する。いつ引き金が引かれてもおかしくない状況に、市川は息をすることすら忘れていた。

「シモムー! 今更、何言ってんのー!?」

 男は苛立ちを隠さずに叫ぶ。

「大丈夫! おまえのことは誰にも言わない! だから、市川を開放してくれ」

「はぁ?」

「お願いだから、な?」

「この人消して、一番になりたい。そう言ってたよねー? シモムー」

「いや……もう、いいんだ」

「はぁ? 何言ってんの? シモムー」

「……」

「オレとの約束、反故ほごにするわけ?」

「いや、そうじゃない! そうじゃなくて!」

「うるさいよ!」

 --パァン!!

 重量感のない、軽い発砲音が部屋に響く。男が、銃口を上に向けて引き金をひいた。

 こだまする音が市川の鼓膜を揺さぶる。それは、背中を冷たくするには十分だった。

(……まさか、空砲を知っていた!? こいつ……)

 目の前の男に得体の知れない恐怖。市川は額に冷たい汗がつたうのを感じていた。

 警察官が携行している拳銃の弾倉は、六発の実弾を装填できる回転式拳銃。通常はこの弾倉に、実弾は五発しか装填しない。これは、旧式の回転式拳銃がハンマーブロックを備えていない事によるものだ。落下等の衝撃によって、拳銃の暴発を招く危険性があることから、このような措置が講じられている。

 市川は確信していた。辛うじて空砲だったものの、目の前の若い男は確実に銃の扱いに慣れている。そして、警察官が携行している拳銃の一発目が空砲だということを知っている、と。

 男は静かに腕を下ろし、銃口を再び霜村に向けた。

「遊びは終わりだから」

「……やめろ! やめてくれ!」

「邪魔されんの、めっちゃイラつくんだよねー。マジで」

 長い緊張に晒されて腰が抜けたのか。床にへたり込んで懇願する霜村に、男は小馬鹿にしたようにニヤリと笑う。

 次の瞬間、市川の耳が僅かな金属音--撃鉄を引く音をとらえた。

「霜村ッ!! 逃げろッ!!」

 僅かに浮き上がる腰をものともせず。市川は、体を捻ると若い男の膝に蹴りを入れた。ガクンと若い男の膝が折れ、間髪入れずに霜村が走り出す。市川が、ホッと安堵の息を漏らしたのも束の間。

 --パン、パン!!

 耳をつん裂く破裂音に、一瞬、市川は目を瞑った。ビクッと震える自身の体と、弓形に反る霜村の体がシンクロする。市川の視界の端にうつる霜村が、ゆっくりと床に体を沈めた。時間の流れが急に遅くなったかのように、霜村がバタンと倒伏する。

「霜村ぁーッ!!」

 市川の叫び声に応えることなく、霜村は体を床に張り付けて痙攣していた。

「……何、すんだよ!!」

 市川の一蹴により転倒した男は、拳銃吊り紐を引っ張って市川の体を己の方へと近づける。男は、幼く綺麗な顔を引き攣らせた。強い怒りが足の先に集中するかのように、市川の腹を蹴り上げる。男の爪先は、市川の腹に深く食い込んだ。

「……ぐッ!!」

 腹を縮みこませ、体を丸めた市川を、若い男は冷たく見下ろした。

「……そこで見てなよ、シモムーのこと」

「やめ……ろッ!!」

「市川さんの拳銃で殺す、の」

「ッ!?」

「ちゃんと、見てなよ」

 呻き苦しむ市川を拳銃吊り紐ごと引き摺って、男は小刻みに震える霜村に近づいていく。

「霜村……ッ!」

 うつ伏せに倒伏した霜村の肩を小さく蹴ると、男は霜村を仰向けにした。

「……に、逃げろッ!! 霜村ぁッ!!」

 --パン、パン! パァン!!

 市川が叫び声を上げる。同時に、男は霜村に銃口を向け引き金を引いた。何度も金属が擦れる不快な音がする。破裂音が鳴り響くと同時に、動かなかった霜村の体を感電したかのように大きく跳ね上げさせる。そのうちカクンと霜村の首から力が抜け、霜村は完全に動かなかくなった。

「……霜……村」

 市川の声が、絶望の色を帯びる。胸に三発。市川がいる位置からでも、その銃弾は霜村の急所を貫いているわかった。

「なんで、そんな顔するの?」

 男は市川を見下ろして言った。月明かりに照らされた男の表情は、息をのむほど美しく狂気さえ滲ませている。市川はゴクリと喉を鳴らした。

「あの人、市川さんを殺そうとしたんだよ?」

「……嘘だッ!!」

「嘘じゃないよ?」

「いい加減なことを……ッ!?」

 これ以上好き勝手にさせてたまるか! 反撃にでようと体を起こした市川だったが、瞬間、その体はいきなり床に叩きつけられた。制服のシャツのボタンが派手に飛び散り、露わになった胸元に何かが押し付けられた。途端、肉が焦げた匂いが市川の鼻をつく。

「ゔわぁぁッ!!」

「……歯向かうからだよ? 市川さん」

「ぁぁ……あぁぁ」

 皮膚に吸い付き燃える上がるような金属の熱さに、体が無意識に反応する。足の先まで力が入った市川に、男はそっと囁いた。さっきまで引き攣らせていた顔に、にっこりと満足げな笑みを浮かべている。戦慄が市川のつま先から脳天を貫き、強張りをさらに助長させた。

「弾を放った後の拳銃の熱さ、分かったかな?」

「……っあ」

 市川は、男から逃れようと必死に身を捩る。その姿に男はより楽しそうに笑う。

「ねぇ、市川さん」

 男は腰から短剣を引き抜くと、鋸を引くように前後に動かして拳銃吊り紐をギリギリと軋ませて言った。

「また、オレと遊んでよ」

「!?」

「ね、市川さーん」

 楽しそうに笑うその若い男こそ、ルカだったのだ--。

 

 --パン、パン! パァン!!

 と市川の耳に、微かに軽い銃声が聞こえた。実弾のような重さを感じない銃声。模擬弾フェイクのそれに近いと思い、市川はゆっくりと目を開ける。

「……!」

 後頭部を襲う耐え難い激痛と、力の入らない投げ出された四肢。朦朧とする意識と視線を漂わせ、市川は銃声がした方に顔を向けた。

「き……りた……」

 目と鼻の先に切田の顔があり、見開かれた目が市川を見つめる。視線の先があわない切田に声をかけるも、市川の掠れた声は届かなかったのか。切田が反応することはなかった。

 頭痛は未だに市川を蝕んでいるが、次第に鮮明になる視界に合わせて、市川は切田に目を凝らす。微睡み、生気のない切田の目。瞬きをすることもなく市川を見つめる眼球は、黒く濁りを帯び瞳孔を拡張させていた。

「きり……たッ……」

「そんなに呼んでも、起きないよー」

「ッ!?」

 切田の顔が、目を開けたまたグッとマットレスに沈んだ。激痛を耐え、歯を食いしばりながら、市川はゆっくりと顔を上げる。切田の頭を踏みつけた黒いスニーカー。市川はその先を辿った。市川を見下ろす男・ルカ。先ほどまでの不機嫌さは消え失せた笑顔に、市川はどうしようもない怒りを覚えた。

「オレに逆らおうなんて、そんな過ちを犯すからだよー」

「……お、まえッ……!!」

「やっと邪魔者がいなくなった! ゆっくり遊んでよ、市川さん」

「……ッ!」

 市川が無理に体を起こそうとした瞬間、いきなり後ろから腕を捻りあげれた。たまらず顔を顰め、市川は叫び声を上げる。余裕綽々にルカは言った。

「ルナー、離しちゃだめだよ? 市川さん、油断も隙もないから」

「!?」

 ハッとして振り返ると、陽哉はるなりが市川の腕を捻り上げていた。身動きが取れないほど、強い力で拘束された市川は抵抗することもできずギュッと下唇を噛み締めた。

「いつもの飲ませてあげなよ。市川さんに」

「……ルカ、それは」

 戸惑いながら小さな声で応える陽哉に、笑顔のままルカは鋭い視線を飛ばした。

「いつもみたいに、薬を飲ませて、囁いてあげなよ」

「ルカ……!!」

「早くしろって!!」

 ルカの一喝に、陽哉は体を大きく体を震わせる。そして、ポケットから小さな水筒を取り出した。市川の下顎を支えると、水筒の飲み口を市川の口に押し当てる。グッと口を噤み抵抗する市川に、陽哉はなかなかその中身を流し込めないでいた。その様子を見ていたルカは、再び切田を強く踏みつけ市川と視線を合わす。

 ルカは市川の顎を強く掴むと、無理矢理口をこじ開けた。嘔吐えずく市川の喉に、勢いよく流し込まれる水筒の中身。小さく手足をバタつかせ抵抗していた市川の動きが、微かに痙攣しパタリと止まる。

 深く、別世界に堕ちていく感覚。

(……堕ちていく)

 その身を深く堕としていく。陽哉はもう二度、この世界に這い上がることは叶わないと直感した。死してもなお、自らの遺体は別世界で朽ちていく。二度と陽の光などのぞめない別世界に永久に縛られるのだと。

「早く、思い出して。市川さん」

 ルカは固く目を閉じた市川の頬を撫でて言った。大事なオモチャを手にする子どものように、繊細な手つきで市川の頬に指を滑らせる。

「邪魔な記憶はいらないでしょ? 早くオレだけを、思い出して……市川さん」

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