6ー3 蛇の鱗

 市川の動きには、迷いはなかった。拳にためた力を、目の前に現れた男・市川陽哉の横っ面に向かわせる。

「ッあ!!」

 ガキッ--と。骨と骨とがぶつかる鈍い音を、地下室に響き渡った。

 同時に、背の高い陽哉はるなりが後ろ向きに傾く。スローモーションのようにゆっくりと倒れる陽哉を肩で押し退けると、市川は鋭く体を捻ってパニックルームから外へと飛び出した。

「ッ!!」

 飛び出したその先に、市川は暗闇にうっすらと鈍い光を放つ拳銃を目視した。滑かに浮かび上がる鉄の銃口は、しっかりと市川に向けられている。市川は体を小さくして、暗い床の上を転がった。

「やっぱり、市川さんは楽しいよねー」

「……」

 市川に銃口を向けたまま、のんびりとした口調でルカは言った。頭の奥に忌々しく刻まれたあの声に、市川は抗うようにグッと下唇を噛む。

 市川の拳に握りしめられていた小石が、床に落下しチャリと小さな音を立てた。市川は代わりに、目の前にあった木片を手にする。一メートルほどの長さの木片。肩で深く呼吸をしながら、市川はゆっくりとそれを構えた。

「おっとー。オレに歯向かったら、いくら市川さんでも打っちゃうよ?」

「……弾丸たまなど、残ってないだろ」

 市川の返答に、ルカはニヤリと笑い、ゆっくりと親指で撃鉄げきてつを引く。カチャリと冷たい音を響かせて、弾倉が動いた。

「どうして? どうして、そう言い切れちゃうわけ?」

「五発……全部打っただろ、さっき」

「分かんないよ? 模擬弾フェイクが入ってるかもしれないじゃん」

「いや……」

 市川の胸に残る傷がジワッと疼く。同時に、記憶に残る痛みと恐怖が、全身を駆け巡り足を竦ませた。

(本心が、見えない)

 過去の記憶と今の緊張を払拭するように、市川は息を止めた。グッと足に力をいれる。

 自分を奮い立たせ、市川はルカとの間合いを一気に詰めた。

 --ガツッ! 

 正眼に構えた木片が弧を描き、拳銃を握るルカの手首にあたる。反動でルカの手から、拳銃が落下した。振り切った木片が更に弧を描き、丸腰となったルカに襲いかかる。

(……とらえた!)

 手に力を入れて、市川は木片の先をルカの頭部めがけて振り切った。

「惜しかったねー、市川さん」

 ガクン--と。木片の震動が、市川の掌に伝わる。

「ッ!?」

「やっぱさー、武器はアナログが一番じゃない? 市川さんもそう思うよねー」

 渾身の力を宿して繰り出した市川の一振り。その力を宿した木片は、ルカの横っ面に僅かな距離を残して止まっていた。木片の先には、見覚えのある短剣ダガーナイフ。暗い中でも鏡のような刃面を光らせ、刃先を深く木片にくいこませる。

「あぁ! でも、市川さんは拳銃も上手かったんだよねー。今はどうだか分からないけど」

「……クソッ!」

 腕を激しく揺らして、市川は短剣にくいこんだ木片を引き抜いた。

「市川さんも、そんな表情するんだー」

「……黙れッ!」

「いいねー、ますます遊びたくなっちゃう」

「黙れッ!!」

「そろそろルナにも……陽哉にも飽きてきたんだよね」

「……!?」

 市川はたまらず振り返った。後ろで頬を抑え倒れこんだ陽哉は、その視線に耐えきれず市川から顔を逸らす。市川は刹那に、陽哉に手を伸ばしかける。

 その僅かな隙を、ルカは見逃さなかった。短剣を振りかぶって市川に襲いかかる。反応が遅れた市川は、慌てて木片を構えて短剣が繰り出す軌道に合わせた。市川よりも小柄で華奢な体からは、想像できないくらいルカの強い力と圧。市川は足元を掬われるように、背中から倒れた。その上に、間髪入れずにルカが馬乗りになって覆い被さる。ギリギリと木片と短剣がぶつかり軋む音が耳に纏わりついた。拮抗する力に、思わず市川は顔を顰める。

「くっ……!」

「あれー? デジャヴかな? 前にもこんなことあったよねー」

「ッ!!」

「思い出さない?」

「……!!」

「オレがつけた傷、まだ残ってるよね」

「うるさいッ!!」

 過去を抉るルカの言葉に、血が一気に市川の頭に昇った。同じ轍は絶対に踏まない! そう決めた市川の決心が、グラつきのみこまれてしまうほど。記憶の波が体を震え上がらせる。

(しっかり……しろ! のまれるなッ!!)

 市川は再び下唇を噛み締めると、自分に向けられたルカの刃を押し返した。

「市川さん、いい加減大人しくしてよー」

「ッ!!」

 鋭く体を引き上げると、市川はルカの脇腹に膝蹴りをいれる。ドッと鈍い音がして、ルカが横に吹き飛んだ。体が一気に圧迫から解放される。市川は素早く立ち上がり、階段へと走り出した。

 階段まであと一歩、というところ。市川の背後で破裂音がした。パンと耳をつん裂く音に、サッと血の気が引く。

 同時に市川の右肩に燃え上がるような激痛が走った。体を貫く衝撃に、市川はバランスを失ってよろめく。そして倒れる間際、後ろを振り返った。

 ルカが拳銃を握り、銃口を市川に向けていた。

(まさか……!)

 ルカの構えた拳銃から発射された異物は、肉を貫き体内で熱を帯びる。模擬弾か実弾か定かではないが、ルカの持つ拳銃には銃弾が装填されていた。無様に床に倒れ混みながら市川は、肩を押さえて蹲る。そんな市川を、ルカは鋭い目つきで睨んだ。

「めっちゃ痛いし……」

 そう呟くと、ルカは顔を歪ませゆっくりと立ち上がった。右手には拳銃、左手には短剣を握るルカは、呻き声をあげる市川に近づくと、ルカは市川の背中を思いっきり踏みつけた。

「うぁッ!!」

「調子乗りすぎだよ……! 市川さんッ!」

 飄々と感情の浮き沈みもなく、捉え所がなかったルカの口調が感情を帯びる。市川からはその表情を窺い知ることはできなかったが、余裕がないことは手にとるようにわかった。グッと息をのむ、市川の頭上で空気が唸る。瞬間、ルカの右手に握られた拳銃の銃把が、市川の後頭部に振り下ろされた。

 --ガッ!!

「ぁッ!!」

 頭が割れんばかりの衝撃。市川は思わず頭を手で押さえた。

「手ェ邪魔だよ!」

 --ガッ!! ガッ!!

 続け様に市川の頭に銃把が、二回、三回と振り下ろされる。そうしているうちに次第に市川の体が、ピクリとも動かなくなった。その様子を確認したルカは、市川の体を蹴って仰向けにひっくり返す。市川を見下ろすルカの表情には、怒りが滲み出ていた。

「手間、掛けさせんなよ……市川さん」

 ぐったりとする市川を尻目に、ルカは陽哉に視線を向ける。

「サッサと立ってよ、ルナ」

「……」

「市川さんを、運んで」

「……兄には、手を出さないって……」

「はぁ?」

 陽哉の消え入りそうな声に反応したルカの目が、燃え上がる炎のように鋭くなった。瞬きを一つする間も無く、陽哉の腹にルカの蹴りが食い込む。陽哉は、激しく咽せながらルカを見上げた。

「オレに指図するなよ、マジで」

「……ごめ……ごめん」

「本当、ムカつく。早く運んでよ」

 そのルカの目に、陽哉はこの上なく後悔していた。

 鋭く光る蛇のような目、その手に握られる蛇の鱗のように滑る短剣。

 あの時、目の前の男に興味を示さなければ。あの時、目の前の男の誘いに乗らなければ。

 陽哉は唇を噛み締めて、ゆっくりと立ち上がと、倒れたまま動かない市川の肩に手をかけた。


 

 ✳︎ ✳︎ ✳︎

 

「今の講義、どう思う?」

 三年前、心理学の講義を受けていた陽哉は、目の前に座っていた小柄な学生に声をかけられた。陽哉に向けられた、はっきりとした意志の強そうな目元に、短く切り揃えられたサラサラの髪。声を聞かなければ女性かと間違えてしまうほど、綺麗な容姿をしていた。それなのに目立たないのは、身につけている物が、地味な色合いであるからなのか。人の輪の中にいそうな容姿であるにも拘らず、一人で連まないその学生は、隅の方で講義を受ける陽哉に声をかけてきた。陽哉自体、この学生を初めてみる。ニコッと歯を見せて笑うその学生に面食らいながらも、陽哉は答えた。

「今の……どの部分?」

「〝公害で病気になるのは、悪い環境の中で偶発的な要因と条件が重なっておこる。快楽殺人を起こした犯人も然り。育った環境と様々な要因、そして、その人に与えた様々な影響が、快楽殺人犯を作るのだ〟」

 と、その学生は教授の真似をして言う。似ているようで似ていない、あまりのクオリティに陽哉は思わず笑いだしてしまった。陽哉の反応に気を良くした学生は、得意げな顔をして更に歯を見せてニコニコと笑う。兄の事件のこともあり、人と接することを避けていた陽哉だったが、突然投げかけられたその会話に興味を持った。右上を見上げながら陽哉は答える。

「そうだなぁ。教授の言った事は、ごく稀な快楽殺人の犯人には、当てはまると思うけど。育った環境が悪くても、立派に生活している人もいるし。殺人犯が罪を犯してしまうのにも、それなりに切羽詰まった理由があってのことだと考える。一概にはそう言えないと思うよ」

「優しいんだね」

 目の前の学生は、退屈そうに大きく伸びをして言った。

「どうして?」

「〝悪い人が悪いことをしただけ〟って、考えてないから」

「……そうかな?」

「君の中の殺人犯は、快楽殺人犯でも性善説なんだね」

 なんだか小馬鹿にされているように感じて、陽哉はムッとして答える。

「じゃあ、君はどうなの?」

「殺人犯が色んな理由で罪を犯す考えは、一緒。ただ....」

「ただ?」

「快楽殺人をする犯人は、快楽殺人をすべくして生まれくるから。根っからのワル。絶対に治んないだよ。だから、オレの中の快楽殺人犯は、疑いようもなく性悪説なんだ」

 屈託のない笑顔の中に僅かに狂気を含んだその答え。陽哉は言葉を失った。しかし、絶句しながらも陽哉は、その学生に惹かれてしまうくらい興味を示してしまったのだ。

 その学生は、佐藤ルカと言った。

 目立つこともなく、どこにでもいる普通の学生。他人を寄せ付けず、一人でいることが多い陽哉に普通に接してきたその存在に陽哉は容易に心を開いてしまったのだ。兄の事件以降、興味本位で近づく学生に辟易していた矢先の出来事。次第にルカと過ごす時間も多くなっていった。

 家でも外でもなんとなく落ち着かない。四六時中、自分の周りに壁を作っていた陽哉は疲れていたのだ。

 ルカの隣にいるだけで、落ち着く。まるで現実世界から隔離されたような。居心地の良い、二人だけの世界にいるような、そんな感覚にさえ陥っていた。

「ルナッ! 明日、オレん家でレポートしよーよ!」

「ルナって、なんだよ……」

「はり、でルナッ!」

「……変な呼び方するなよ」

「で、レポートする? しない?」

「あぁ、いいよ」

 いつもの如く、軽く返事をした陽哉。その軽い返事をしたことに、陽哉は後悔することになる。


 大学より少し遠いルカの部屋。一人暮らしにしては、厳重なセキュリティの高級感溢れる佇まいのマンション。その最上にあるペントハウスがルカの部屋だった。〝オレん家〟という表現が些か不釣り合いに感じる。

 「親の持ち物なんだけどねー」と明るく言うルカの言葉に妙に納得はしたものの。陽哉は、落ち着かない様子で広い室内を見渡した。視線を走らせた陽哉は、リビングの奥にある扉が妙に気になって仕方がなかった。理屈で通じないもの、カンは信じないタイプの人間だ。それなのに、その扉の奥から漂う空気に陽哉はただならぬ圧を感じていた。扉の存在に気もそぞろになりながらも、陽哉はルカと共に黙々とレポートを進めていく。

「はぁー、終わったぁ!」

「思ったより、早く終わったね。ルカの資料のおかげだよ」

「大したことないってー」

「いや、本当に助かったよ」

「頭使ったから、お腹空いちゃったな……。そうだ! ピザでも頼もうか!」

「え……でも」

「一人暮らしじゃ、なかなかピザなんて頼めないし! ねっ! お願い!」

 陽哉は、腕時計に目を落とした。

 時刻は午後七時五分。

 その瞬間、自分の空腹に気が付き、胃がキュウと音を立てる。復職したばかりの兄の様子が気にはなったが、友人と過ごす時間に小さな安らぎを感じていた陽哉は、ルカの願いに、つい「いいよ」と頷いた。


「……久しぶりに飲んだかも」

「えー? そんなにジジクサイの?」

「うん、まぁね」

「確かに! 合コンとか誘われてるの、見たことないや」

「それ、お前もだろ? ルカ」

「バレた?」

「バレバレだって」

 少しのアルコールと他愛もない会話。久しぶりに腹の底から笑った陽哉は、時が過ぎるのを忘れていた。ふと、腕時計に目をやると時刻は、午後十時を回っている。

「そろそろ帰ろうかな?」

「えー、もうちょっと!」

「終電なくなっちゃうし……」

「タクシーで送ってあげるよ」

「いや、悪いよ」

「いいから、いいから! ちょっと待ってて! タクシーつかまえてくるから!」

「ちょ……ルカ!」

 言い出したらきかないルカは、上着を手に持つと慌ただしく部屋を出て行ってしまった。陽哉は一人、ルカの部屋に残される。陽哉は、はぁとアルコールを含む息を吐いて鞄に手をかけた。鞄の中にノートや筆箱を放り投げ、帰る準備をしている陽哉の目に、あの扉が飛び込んでくる。

 久しぶりに血液を流れるアルコールに、顔が上気しているのを感じながら、陽哉はゆっくりと立ち上がった。吸い寄せられるように扉に近づく。そして、ドアノブに手をかけた。

 ガチャ--、と。ノブに連結したラッチが軽い金属音を響かせる。

「……なんだ、これ!?」

 部屋の中の光景を目にした陽哉は、酔いが覚めるほどの衝撃を受けた。

 正面の壁一面に貼られたあらゆる生き物の死体写真。インターネットからの拾い画とは、到底思えないリアルな写真に、たまらず胃の中が逆流した。ムカムカした体を引き摺りながら、部屋を後にしようとしたその時、陽哉の目に膝の力が抜けるほど光景が飛び込んでくる。

(なんで、雪の写真が……!?)

 ガクンと床に座り込んだ陽哉の目の前。側面の壁いっぱいに兄である市川の写真が貼られている。

 『行方不明の警察官、奪われた拳銃により死亡か』煽情的な新聞記事の見出し。大小様々に切り抜かれた新聞記事がいくつも散らばるように、画鋲でとめられていた。

「見るだろうと、思ったんだよねー」

 背後で響くその声に、陽哉の呼吸が一瞬、息が止まる。ガクガクと震える膝と腰に、体に力が入らないまま、陽哉はゆっくりと振り返った。

「……これは、一体」

「趣味、かなぁ?」

「趣味って……」

「言っただろ? 前にさー」

 ルカは片方の口角を上げてニヤリと笑った。手には目を奪われてしまうほど鋭く光る短剣が握られており、陽哉にゆっくりと近づいてくる。陽哉は逃げようと試みるも、バタバタともたつく手足がそれすら阻んだ。

 ルカはしゃがみ込んで陽哉と視線を合わせると、短剣の刃先を陽哉の頬に押し付ける。冷たくそして滑るように光る短剣。頬から伝わるその感覚に、陽哉は身じろぎすらできなくなってしまった。

「快楽殺人の犯人は、快楽殺人をすべくして生まれくるから。根っからのワルって」

 ルカは、いかにも楽しそうに目を細めて陽哉を見た。

「オレの中の快楽殺人犯は、疑いようもなく性悪説なんだよ」

「……」

「市川さんに、言う?」

 その言葉に、陽哉は一気に血の気がひいた。

 分かっていて、自分に近づいてきたのだと。初めから、兄である市川がルカのターゲットだったのだと……。

「……ッ」

「あんたの死体を切り刻んで送りつけたら、市川さんどんな顔するかなぁ」

 陽哉は、震えながら首を横に振った。

「じゃあさ、オレの言うこと。聞いてくんない?」

 ルカは陽哉の耳元で、甘く囁く。

「市川さんに似てないけど。オレ、あんたも気に入っちゃったんだ」

「……」

 ルカの言葉が、じっとりと体に絡まる。まるで巨大な蛇が体に纏わりつき締め上げるように。そして、頬にあたる冷たい短剣の刀身は、冷たい蛇の鱗の感覚にも似ていた。

(逃げられない……! 二度と、逃げられない!!)

 知らなかったとはいえ、隙を見せた自分が悪い。後悔してもしきれない。陽哉は自ら踏み抜いた落とし穴に、真っ逆さまに落ちていった。

「殺されたくなかったら、オレの言うこと聞いてよ、ね?」

「……」

「ね、ルナ」

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