6ー2 慢心

「あんた、全然つかえないじゃん」

 小柄な男は、手にしていた拳銃で切田に殴りかかった。銃把の底が鋭く弧を描き、切田のこめかみに当たる。その勢いに逆らうことなく、切田の体は横に吹き飛ばされた。低い呻き声をあげ、床に倒れ込む。

「シモムーの方が、全然つかえたし」

「……やめ……ろッ!」

 頭を押さえた切田の革手袋の隙間から血が滲む。切田は声を絞り出して言った。

「それとも」

 床から立ち上がれない切田が気に入らないのか、男は容赦なく拳銃を振り下ろす。ガシン、ガシン--と。金属特有の重たい音が、切田の体を通して響いた。男から距離をとろうと、切田は懸命に床を這いつくばる。

「オレに歯向かうと、シモムーみたいになっちゃうって、学習してないわけ?」

「や……やめ」

「シモムーも頭悪かったけど、あんたも相当悪いよ」

 そう言って、男は銃口を切田の後頭部に押し付けた。身を捩って抵抗をしていた切田の動きがピタッと止まる。ほのかに熱を帯びる銃口。切田は呻き声すらあげずに、その場で身を縮こませた。

「なーんてね。もう入ってないよ、この拳銃に弾なんてね」

「……ッ!!」

「おっと、歯向かうなよ。マジで」

 体を少し捻って見上げた切田の後頭部を、男は再び銃把で殴りつける。頭を割られたような痛みに、切田は再び床に伏した。

「いつまでも倒れてないで。ちゃんと痕跡、消しててよ」

「……」

「分かった? 鑑識の、切田さん」

 嘲笑する男の声。切田は頭を押さえて、ゆっくりと体を起こすと膝をついた。頭から流れる赤い血を拭うこともせず、切田は男を見返した。

「いいねぇ、その目」

 肩で息をする切田を見下ろし、男は満足げに笑う。そして、切田の腹部に蹴りを入れた。

「ッ!!」

 咳き込みながら倒れる切田に、男は小馬鹿にしたように笑う。そしてゆったりとした足取りで階下へと向かった。男の後ろ姿を見送る切田は、肩で息をしながら再び膝をついた。ズボンのポケットを弄り、震える手でハンカチを取り出す。こめかみを強く押さえるた切田は、よろよろとおぼつかない足取りで立ち上がった。

(……クソッ!!)

 フラつく体を支えるため、切田は近くにあった机に手をついた。湧き上がる、行き場を失ったどうしようもない感情。切田は机を力任せに拳で叩いた。

(あれさえ……あれさえなければ……!!)

 頭を押さえ机に突っ伏した切田は、再び強く机を叩く。脳裏には霜村が片方の口角をあげ、笑っている姿が浮かび上がっていた。



「パケ、横領してんの。おまえだろ」

 念願の鑑識業務に従事し、何年もの月日を積み重ねて鑑識に精通する。誰よりも正確で優秀な鑑識となった切田は、年上の部下を従え、上司からも一目おかれている存在となっていた。その頃の切田は、指紋や足跡痕の鑑定書まで任されるようになる。先生でもないのに一線署の警察官から「先生」と呼ばれていた、

 切田は慢心していた。霜村の発した、その一言を聞くまでは……。

 仲の良かった霜村と市川は、同期で一番に巡査部長になり、とんとん拍子で警部補にまで昇任した。別に羨ましくもない。切田は自分の仕事と、置かれている現状に満足していたからだ。

 切田が鑑識を目指すきっかけは、本当に単純だった。鑑識が題材の海外ドラマに魅了されてから、切田の将来の夢は鑑識一択となった。警察官採用試験に合格し、純粋に警察官として切磋琢磨しあう仲間に出会う。試験勉強は得意ではなかったものの、鑑識の技術に磨きをかけ、切田は鑑識総合上級を取得するまでとなった。憧れが仕事になることの幸せ。それを実感するたびに、切田の心に少しづつ驕りが生じていく。

 初めはほんの出来心だった。当時、切田はある窃盗事件の足跡痕鑑定を任されていた。他の刑事事件の裁判で証言をすることもあった切田を、傍聴人が覚えていたのだろう。切田は帰宅途中、いきなり腕を掴まれ暗闇に引き摺りこまれた。

「あの窃盗事件の担当だろ?」

 ひと気のないガード下。灯りも満足に届かない暗闇で、切田は見知らぬ男に声をかけられる。驚いて立ち止まっていると、間髪入れずに男は言った。

「鑑定結果を変えてくれ」

 同時に、男は紙袋を強引に切田の手に握らせる。相手の顔すらまともに確認できないほどの暗がりで、切田の手にズシッと重さが伝わった。自分に起こった出来事に動揺した切田が、袋に目を落とした瞬間、その男は闇に紛れて切田の前から煙のように消えてしまったのだ。

 遠くで通り過ぎる車のヘッドライトが、切田が覗く袋の中身を刹那に浮かび上がらせた。

「!?」

 封の切られてない札束が三つ。切田はハッと息をのんで慌てて男を追いかけた。しかし、消えた男を簡単に見つけ出せるわけもなく。切田の手元には罪過の札束だけが残されていた。

 切田の心に得体の知れない感情が蠢き出す。黙っていたら、現金を授受したことが暴露することもない。しかし……あの見知らぬ男が。何らかの報復をしてきたら? そう思うと、目の前に広がる自分の人生の道が、ガタガタと崩れ落ちていくように思えた。

(一度だけ、一度だけなら……。平気だ)

 切田は警察官としての清廉な職責を投げ捨て、欲にまみれた札束を手にしたのだ。

 一度きり、と思っていた鑑定書の改竄かいざん。心臓が潰れてしまうのではないかという圧の下。切田が改竄した鑑定書は、今まで培ってきた実績により有効な鑑定であるとみなされる。検察での調べでも裁判でも、改竄が発覚することはなかった。知る人だけが、わかる事実。その事実を胸に秘め、これからの職責を全うしようと奮起したのも束の間。

 そこからは、あっという間だった。

 どこから聞きつけたのか、切田の元には現金を携えた男が次から次へと現れる。毎回違う男が、切田を行く先々で待ち構えているのだ。そして皆、口を揃えて言う。

「F県警の切田だろ? おまえ、金さえ払えばなんでもしてくれるんだろ?」

 当然である。一度ではすまない。分かっていたはずなのだ。一度不正に手を染めた切田は、もう元の〝鑑識の切田〟に戻ることができなかったのだ。

 開き直るしかなかった。

 どうせバレないと、自分の立場と信用を盾に必死に予防線を張った。はじめは良心の呵責かしゃくに苛まれていたものの、次第に感覚が麻痺してくる。切田の行動は次第に大胆になっていった。自分に置かれた全幅の信頼。切田はその上であぐらをかいていたのだ。

「パケ、横領してんの。おまえだろ」

 調子にのっていた矢先の霜村の発言。切田は、肯定の言葉も否定の言葉も発することができなかった。切田を追い詰めた霜村はニヤリと笑った。背中を冷たい汗が一筋流れ、頭の中が真っ白になる。絶句する切田を前に、霜村は笑いながら更に言葉をつなげた。

「黙っておくから、俺に協力しろよ。切田」

「……な、何を」

「今の仕事、続けたいだろ?」

 切田を壁際に追い詰めた霜村は、その耳元で囁く。

「悪い話じゃない。なぁ……わかるだろ? 切田」



 勇刀が覆面パトカーを走らせている頃。

 市川はパニックルームの奥で壁にもたれて座り込んでいた。ジワジワと蝕むように、鈍い痛みが全身を包む。市川は目を瞑り、ひたすらその痛みに耐えていた。無事やり過ごせるとは、毛頭考えていない。体が回復する時間を、自分を見つけてくれる時間を。市川はただ稼ぎたかった。四肢を投げ出しその時をじっと待つ。

 どれくらい経過したのだろうか。体感は結構な時間の経過を告げている。しかし、市川の視界の端にある小さな窓は、磨りガラス越しに未だ夜の闇をうつしていて、パニックルームに入ってから、さほど経過していないようにも思えた。

(何も、考えるな……今は、何も)

 そう強く考えれば、考えるほど。切田やあの男の顔が、頭の中で渦を巻く。浮かび上がる思考を振り払うべく、市川は頭を振った。そして、ゆっくりと目を開ける。仄暗い灯りの中に照らし出された、自分の姿が否応なしに目に飛び込んできた。服も何かも、ずいぶんと汚れいる。

(本当に警察官かどうかすら、疑わしいな……こんな格好じゃ)

 そう思うと、なんだか自然と口元が緩み、緊張が解けてきた。

(大丈夫だ……大丈夫。同じ轍は……絶対に踏まない!)

 市川は深呼吸をすると、再びゆっくりと目を閉じた。


 --カツン、カツン。

 本棚の向こう側から、固い靴底が擦れる音が響く。深く目を閉じていた市川は、ハッとして目を開けた。同時に身を固くする。市川がいる地下に近づく、不協和音の如く重なる靴音が、一人のものではないことが顕著だった。市川は、息を止めた。

「最後はここ。外にいなけりゃ、ここにいるはずなんだけどなぁ」

 本棚越しに聞こえる声に、市川は思わず体を小さく震わせる。市川の記憶の底に眠るその声。そして今、市川に再びその恐怖を蘇らせる、その声。市川は満身創痍の体を、パニックルームの奥へ押し付けた。

「ねぇ、本当に見なかった?」

「……」

「だんまりしないでよー」

「……」

「ひょっとして、怖気づいちゃったの?」

「……」

「ちょっとー!」

 しきりに、男はもう一つの足音の人物に話しかけている。

「ここまできたらさー。オレ達、運命共同体なんだからねー」

 その様子にじっと耳を澄ませ、市川は想定しうるできるだけの事を予測をした。自然に、市川の手に力が入る。徐々に近づく二人分の靴音と一人分の明るい声。本棚を挟んですぐそこから感じる気配に、市川はゆっくりと体を動かして片膝をついた。

「ねぇ、ちょっと聞いてる? ルナー」

「……変な呼び方をするな、ルカ」

 その声に市川は、頭に岩をぶつけられたような衝撃を受けた。

 パン--と、鼓膜が弾けるような音が頭の中で響き、くすんで閉じ込めていた情報が、一気に体中になだれ込む。

「ッ!!」

 肺を潰さんばかりに。体に刻まれた傷跡が凍らんばかりに。痛みを増幅させ体中になだれ込み駆け巡る情報に、市川は思わず叫びだしそうになった。必死に掌で口を押さえ、苦しみを抑え込む。末端から腐食し動かなくなっていく感覚が、徐々に市川を侵食していった。

 本棚の反対側で苦しむ市川をよそに、ルカと呼ばれた男はいつになく明るい声で言った。

「いいじゃーん、ルナ! オレとお揃いみたいじゃん?」

「やめろッ!!」

「おお、怖っ」

 二人の会話が突如として無くなり、暗い地下室に再び張り詰めた静けさが覆い尽くす。さっきまで体内で暴れていた情報に刺激された心臓が、激しく強く鼓動する。その音が漏れ聞こえてしまうのではないか、と思ってしまうほど。市川を支配する不安と衝撃とが、動揺となって深く心身に刻みはじめた。その動揺は、苦しみ抜いて疲れきった市川の体を無意識に震わせる。

 --ズズ、ズズズ。

 身動きが制限されるほど、体の震えが止まらない市川の目の前で、本棚が軋み不快な音を立てた。ゆっくり、と。本棚と壁に隙間ができていく。市川は浅くなる呼吸を無理矢理深くし、グッと掌を握りしめる。

(同じ轍は、踏まない……!)

 次第に開いていく本棚の動きに合わせ、市川は体を小さくして目を閉じた。体の横で動く本棚を感じ、目を開くと同時に飛び上がる。

 小さくした体がバネのようにしなり、市川の体がパニックルームの外へと飛躍した。同時に、本棚の向こう側から現れた人影めがけて、握りしめた拳に力を込め殴りかかる。

 うっすらと差し込んだオレンジ色の淡い光が、その人物の輪郭を、顔立ちを鮮明にする。瞬間、市川の顔が険しくなった。

「雪……!?」

「……陽!!」

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