1ー2 秘密

「大変だったなぁ。緒方」

 ようやく解放された激務の当直明け。突然、目の前に現れた遠野の笑顔と明るい声に、勇刀は激しく脱力した。

 結局、市川も勇刀も事件対応に追われ、一睡もできなかった。勇刀は、深くため息をつく。

「大変ってもんじゃなかったですよ、本当」

「イッチー、持ってるからなぁ」

「は? え? ちょ……どういうことですか!?」

「署にいたなら、わかるだろ? 持ってる当直主任とかさ」

「……」

 〝持ってる〟とは。いわゆるイワクツキを〝持ってる〟というものである。ある警察官が当直につくたびに、事件事故が多発して、他の当直員が相当な激務にまきこまれることをいう。

(あー、いたいた! そういう人。あんまり酷くて、お祓いとかしちゃってる人までいたもんなぁ)

 つい最近まで警察署の刑事課にいた勇刀も、〝持ってる〟警察官がいることは認識していたし、カチ合ったこともある。それそこ、一線署は少人数で事件事故の対応をしなければならなかったし、その後の処理も担当しなければならない。翌日は普通に終業時間まで勤務しなければ、事務処理が追いつかない。ちょっと気を抜けば山のように溜まっていってしまうのだ。溜まると業務が円滑に進まないし、何しろ「書類の溜め込みは非違事案の始まり!」と言って憚らない刑事課長にドヤされて。まだ新米刑事で若かった勇刀でさえ、半ば意識が朦朧としながらも、供述調書等の整理をした覚えがあった。〝ブラック〟なんて言葉が、かわいいと思えるほどの激務が懐かしく思える。

 しかし、ここは一線署とは違う。警察本部の当直だ。比較的事件事故に遭遇しないだろうと、勇刀はたかを括っていたが。まさか本部当直でさえ、こんなになろうとは想像していたなかった。制服の第一ボタンを外して、勇刀はため息をついた。

「緒方、見たか?」

「何をです?」

 今の今まで緩い笑顔を見せていた遠野が、急に神妙な面持ちになると、そっと勇刀に耳打ちをした。今の今まで、事件に係る電話応対をしていた勇刀は、力のない気の抜けたゆるい返事をする。

「犯人らしい奴が、ライブ配信してる」

「……は?」

 勇刀は、半ば閉じかけていた目を見開いて執務室を見渡す。ふと、執務室の真ん中にあるディスプレイに目が止まった。そこに何人かの捜査員が集まっている。重たい頭を引き摺るように、勇刀はその隙間をぬうように体を入れ込む。そして半ば閉じかけの目で、ディスプレイを注視した。

 一瞬、何も映っていない。真っ黒な画面かと勇刀は思った。

(いや、違う)

 真っ黒な背景と同化した人影。たまに黒い塊が左右に揺れて、その塊が人であることが認識できる。

『いやぁ、あのお巡りさんたち死んだかな? いいなぁ、何年ぶりかな?』

「何年ぶりって……どういう?」

「……緒方は、知らないのか?」

 目の前にいた捜査員が、真っ青な顔をして返答した。

『そういえば、あのお巡りさん、元気かなぁ? 唯一、殺しそこねた、あのお巡りさん』

 画面の中の人物が楽しそうに言った、その時。鈍い鉄の光が画面に映り込む。

「拳銃!?」

 勇刀は堪らず叫んだ。その場にいた警察官全員が、一目で拳銃と認識できる。画面の中にいる犯人はわざと拳銃をチラつかせた。そして嬉々として口を開く。

『イチカワさーん』

 犯人の発したその言葉に、その場にいた一同が凍りついた。

「佐野……!! 追跡は!!」

 遠野の逼迫した叫び声に、バックアップにあたっていた捜査官が首を横に振る。

「海外サーバーを複雑に経由しています。追跡までしばらくかかります……」

「田中! 中井! 援護しろ!!」

「はい!!」

 いつもは飄々としている遠野の表示に、次第に焦りの色が濃くなっていく。そのただならぬ様子に、勇刀は思わず息を呑んだ。疲れた頭も体も、一瞬で忘れてしまうほどに。その切迫した光景を、手も足も動かせない勇刀はただ見守ることしか出来なかった。

 その間にも、犯人は拳銃を大事そうに撫でながら、実に楽しそうに自らの犯歴を列挙する。

『市川雪哉さーん、元気ー? 見てるんでしょー?』

 画面から流れる言葉に、キーボードの打突音が響いていた執務室が一瞬で静かになった。

(今……なんて言った?)

 勇刀は捜査員を押し退けて、ディスプレイの前に身を乗り出す。疲れ切っているはずの目と耳だけが嫌に研ぎ澄まされていた。

(ちゃんと、見ろ!! 俺ッ!!)

 外見的な手がかりを見つけようと、勇刀は真っ黒な画面を食い入るように見つめる。

『会いたくなっちゃったなぁ……。市川さーん。あなたもオレに会いたいでしょ?』

 ボイスチェンジャーで変えられた声に、遠野がさらに大声で叫んだ。

「追跡まだかッ!!」

「あと、五パーセントです!!」

 サイバー犯罪対策課の捜査員を嘲笑うかのように、画面の中の犯人は愉快そうに続ける。

『オレ、忘れられないんだよねぇ。市川さん、キレイだったなぁ。……おっと、これ以上配信したら特定されちゃうなー。今日はこの辺でおしまい。……市川さーん、迎えに行くから。待っててね』

「佐野ッ!!」

 遠野が叫んだ声と同時に、配信がプツリと切れる。

「……ダメでした。なんて数のIPアドレスもってやがんだ、コイツ」

 ダァァン!! 遠野が執務机を思いっきり叩いた。再び、執務室がシン--と、静まり返る。

「途切れても追え! アドレスから何からひっくり返して特定しろ!! いいな!!」

「無理しなくて、結構です」

 瞬間、静かに響くその声に。その場にいた捜査員一同が顔を引き攣らせた。

「市川……」

 辛うじて発せられた、遠野の掠れた声。振り返ると、そこには制服からスーツに着替えた市川が立っていた。

「……今の見てただろう?」

「はい。大体は」

「アイツはお前に執着している!! 一刻も早く特定しないと……」

「〝迎えに来る〟と言っていました」

 まるで自分のことではないような、どこか現実味のない不思議な感覚で、市川は静かに淡々と語る。どこか他人事みたいな振る舞いをする市川の様子に、勇刀は息をするのを忘れていた。

「何もしなくても、現れますよ。遠野係長」

「なっ……!!」

「大丈夫です。同じ轍は踏まないようにしますから」

「市川ッ!!」

 興奮する遠野に、市川はいつものように抑揚なく冷静に答える。その時、勇刀は昨夜の市川の様子を思い出していた。

 震える、細い手--。おそらくあの時点で、市川は気付いていた。あの犯人の犯行であることに。そして、自分を狙っているとに……。

「今日は当直明けなので、これで、失礼します。急用があれば携帯に連絡をください」

「市川ッ!!」

 遠野の言葉に応えることなく。市川は「ご迷惑をおかけしてすみません」と一言付け加えると、深々と頭を下げて執務室を出て行った。

(あの人、平気……なのか? 平気なわけ、ないだろ!! 平気なわけ!!)

 勇刀は弾かれるように執務室を飛び出した。咄嗟に、エレベーターに乗ろうとする市川の腕を掴む。

 驚いたように大きく見開かれた、眼鏡越しの市川の瞳。冷静な市川の動揺した表情に、勇刀はグッと息を呑む。

「……離してくれないか? 緒方警部補」

「なんで平気な顔をするんですか!? 震えてる……今、震えてるじゃないですか!!」

「震えて……ない。震えてなんていない!!」

 驚くほど大きな声を上げ、市川は乱暴に勇刀の腕を振り払った。いつも冷ややかで、鋭い光を放つ市川の瞳。今、その瞳は怒りと熱を宿らせ、眼球を焼いてしまうのではなないかと思うほど、強く勇刀を睨みつける。窓から差し込む朝日の強い光に負けない意思のある瞳に、勇刀は一瞬たじろいだ。

「特研生に心配されるほど、落ちぶれちゃいない!!」

「……市川さん」

 その市川の表情に、勇刀は父親の言った言葉を思い出し市川の姿に重ねていた。

(裏にある真実を、聞き出すんだ)

 怯んだ心を立て直すべく、勇刀は市川を睨み返す。そして再び、市川の華奢な腕を掴んだ。

「言わなきゃ分からない!! 俺たち警察官はエスパーじゃない!! 神でもない!! 口をつぐんだら、真実がわからないじゃないですか!!」

「お前に言う真実などない!!」

「ッ!?」

「言ったところで何になる!! 同情するのか!? 笑い者にするのか!?」

 市川の感情は、燃え上がる青白い炎のように吹き出した。それは、勇刀の動きを封じるように延焼をしはじめる。じわじわと勇刀の体を覆いつくす感情の炎。市川は動けなくなった勇刀の体を、壁に打ちつけた。その威力は華奢な体からは想像が付かないくらい強い力で、壁に背中を打ちつけた勇刀の肺が、ビクッと鋭く振動する。

「土足で……踏み込むな!!」

「市川さん!!」

「それに、私は!! ……もう、いい!! そこを退いてください!!」

 苦しそうに、声を振り絞る市川の罵声。市川は勇刀から目を逸らすと。動けなくなった勇刀に踵を返して、エレベーターに乗り込んだ。扉の中に吸い込まれていく市川を見送ることしかできなかった勇刀は、その時、ようやく息をすることを思い出す。

「はぁ……」

 長いため息と同時に、勇刀はその場に座り込んだ。自分を覆いつくした、市川の青白い炎。市川が体の中に宿す怒りや不安が一気に、勇刀に流れ込んだ感覚が全身から抜けない。市川の放ったいまだ勇刀の体の中でくすぶる炎は、身をジワジワと焦がしていた。

 そんな状態であるにも拘らず、直感していた。

 〝拳銃を携行できない〟理由が。捜査から外され庶務係にいる理由が。全て、市川が仕舞い込んでいる秘密の内にあるんだと。勇刀は直感していた。

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