The snow in underworld
汀
1ー1 市川警部
「認められません」
けんもほろろに、冷たく放たれた言葉。
「……」
「きこえませんでしたか? この領収書、全て認められません」
冷たく言い放った男は、輪ゴムで領収書を几帳面に束ねると、座ったまま勇刀を見上げた。眼鏡の奥の色素の薄い瞳が勇刀の目を真っ直ぐに捉える。勇刀は一瞬、ドキッとした。
(綺麗な、顔をしてんな……この人。女の子だったら、さぞモテただろうに)
突き返された衝撃から、全く別のことを考えてしまった勇刀の頭上を。白い髪の塊が放物線を描いて飛んでいく。
「ちょ……ちょっと!! 何するんですか!?」
命の次に束を、勇刀は慌ててキャッチした。
(いやいや! 認めてもらわなきゃ、困るんだってば!!)
勇刀は拳を握りしめて、目の前の冷血漢に食ってかかる。
「捜査上、絶対に必要な経費だったのです!!」
勇刀の反論に眼鏡の端を手で上げた冷血漢は、さらに鋭い視線で見返した。
「緊急性、秘匿性。全てにおいて該当しない。事前に申し出てくれたら、十分予算措置できていたはずのものばかりです」
「でも!」
「何を言っても、何度提出しても同じです。認められません」
「……」
勇刀の健闘虚しく。放たれた勇刀の熱意は、冷静に言葉を発する冷血漢にスルスルとかわされる。あっという間に、反論する言葉もないくらいコテンパンに叩きのめされた。
(強い……強すぎる)
ぐうの音も出ず傷心した勇刀に、冷血漢は追い討ちをかけるようにため息をつく。
「そういうことですから、そちらの領収書。全てお持ち帰りください」
「……」
「残念ですが、そういうことです」
「……」
「遠野係長にでも相談してください。庶務の方では対応いたしかねます」
冷血漢はそう言うと、再びため息をついてパソコンに視線を移した。キーボードから軽やかに響く
勇刀は執務室の四方から刺さる視線に堪えながら、冷血漢に踵を返して歩きだした。
「あはは! お前もイッチーにやられたか」
「やられたか、とか言ってる場合じゃないですよ、遠野係長!」
「いや、悪い悪い。イけるなかぁって、思ったんだけど。無理だったな」
執務椅子に座る遠野は、おかしそうにひとしきり笑うと、財布の中から、諭吉が印刷された紙幣を二枚取り出した。状況が飲み込めずポカンとする勇刀にそれを握らせる。
「係長……」
「捜査部門でやるんなら、面倒だと思っている捜査費も真剣に考えろってことだ」
「……ひょっとして、わざと?」
「ま、特研生の通る道だ。お前の勉強代くらい払ってやるよ」
「……」
腑に落ちない、そんな顔をして、勇刀は手渡された紙幣に目を落とす。諭吉の顔が、段々とさっきの冷血漢の顔に見えてきた。
「……」
勇刀は紙くずと化した領収書の束と紙幣を乱暴にズボンのポケットに捩じ込んだ。
F県警察本部、刑事部刑事企画課。
晴れて警部補に昇任し、緒方勇刀は今春から念願だった刑事特別研修生として指定を受けた。捜査活動の中核となる捜査官の育成強化のため、優秀な若手警察官の中から選抜選考された研修生。それを特別研修生--通称「特研生」という。
一年間、刑事部門や生活安全部門の各課に赴き、実践研修に従事する。基礎捜査から起訴に至るまでオールラウンダーな幹部候補生として捜査に関する技能・技術を高い次元で習得するのだ。現在、勇刀は生活安全部サイバー犯罪対策課に席を置いているのだが。
(変わってる、とは聞いてたけど……めちゃくちゃ変わってる)
サイバー犯罪対策課の研修が始まる、というと。刑事企画課の諸先輩方は口を揃えて勇刀に言った。
「サイバー自体変わってるけど、市川警部には特に気をつけろよ」
先輩方の言葉に、あの冷血漢の顔が鮮明に脳裏に浮かび上がる。そして、いきなり腑に落ちた。
(イッチーって、市川警部!? あの人か!!)
(やっぱ、変わった人じゃんか……)
サイバー犯罪対策課で、実践研修についているこの二週間。刑事部の捜査官とは違う雰囲気に、多少違和感を覚えていた勇刀だったが。さらに特殊な存在感の市川の登場により、勇刀の疲労と気力は研修中の緊張と相まって限界に達していた。
勇刀は、全く捗らない整理中の捜査書類を前に頭を抱える。ただでさえよくわからない情報技術関連の専門用語が飛び交う捜査に加え、あの市川の圧。遠野のポケットマネーで精算してもらったとはいえ、捜査に心血を注いだ結晶である領収書は、市川に一蹴されただの紙切れとなった。二進も三進もいかない現状に、勇刀は無意識に深くため息をつく。遠野は小さくなった勇刀の肩をポンと叩いた。
「緒方、調書が出来たら、イッチーに一度見てもらえ」
「えぇ!?」
「あいつの調書の指摘、めちゃくちゃ勉強になるからな」
「!?」
勇刀のこめかみに冷たい汗が伝う。優秀だからとはいえ、なるべく市川には関わりたくないと思っていた勇刀は、遠野の提案に心底うんざりした。
しかし、市川は随分と若く見える。昇任試験のタイミングで割り出した実際の年齢より、ずっと若い。若年で警部に昇任し、警察官でありながら事務方の庶務に席をおいている。まかりなりにも、将来を有望視されているはずである勇刀は、いきなり現れた強敵に完全に打ちのめされた気がしていた。そうなると勇刀の胸の内で、市川に対する反抗心がじわじわと燃え上がる。
捜査費でコテンパンにやられた上、調書の書き方でまたコテンパンにやられるなんて……。
(何か、弱点があるはずだ!! 人間なんだから弱点くらいあるだろう!!)
清廉を信条とする警察官からは程遠い、姑息な手であることは認識しつつも。どんな些細な弱点でもいい、と。勇刀は前のめり気味で遠野に質問をした。
何も知らないような顔をして、勇刀は遠野を真っ直ぐに見つめ詰め寄る。
「庶務の市川さんって、警部なんですよね?」
「あぁ」
「調書作成も上手いくらい、捜査に長けてらっしゃるんですよね?」
「優秀だからなぁ」
「じゃあ、なんで庶務なんかしてるんですか?」
「……庶務なんかは、失礼だろ?」
「優秀な方なら、捜査の現場にいるべきでは? 何故あんなとこにいるんです?」
遠野は勇刀の質問にそっぽを向いた。この人は捜査官でありながら、嘘をついたり隠し事をするのが苦手だ。そう踏んでいた勇刀は、遠野の視線にワザと入り込み食い下がった。
「教えてください! 口外はしませんから!」
遠野はチラッと勇刀に視線をおとす。
「……絶対に誰にも言うなよ」
「はい! 大丈夫です! こう見えて口は固いんで!」
「そういうヤツほど……」
「いやいや! 信じてください!! 遠野係長!!」
「……」
遠野は周りの気配に気を配ると、目をパチパチさせ落ち着かない様子で勇刀の耳元に口を近づけた。
「拳銃を携行できないんだよ」
「……は?」
「アイツは、拳銃を携行できない警察官なんだ」
〝拳銃を携行できない警察官〟なんて、致命的だ。
勇刀は、対面で黙々と自分の調書を添削する市川に視線を投げた。
スーツではない警察官の制服に身を包んだ市川と勇刀は、警察本部の片隅にある当直室で顔を突き合わせていた。警察本部の当直体制なんて、警察署に比べたらたかがしれている。それでも苦情や相談による電話の類は多いし、体制が弱い分バタバタと事務処理に追われてしまう。
長い相談電話からようやく解放された勇刀は、見慣れぬ市川の制服姿に見入っていた。
思ったより線が細い。長袖のシャツ越しのシルエットは薄く華奢だ。スーツ姿とは雰囲気の違う市川から、勇刀は目を離す事ができないでいた。
「緒方警部補」
「は、はい!!」
不意に話しかけられて、勇刀は文字通り飛び上がりながら返事をする。
「そんなに変ですか? 私の制服姿」
「い、いえ! いや……その、見慣れなくて……」
「これでも一応、警察官として拝命を受けているんです」
「……はい。承知しています!」
「遠野係長に何を吹き込まれたかは知りませんが、あまり彼の言う事は真に受けないように。お願いします」
「……」
「緒方警部補」
「はい!」
「お願いします」
「……はい」
結局、有無を言わさぬ市川の圧で、勇刀は押し黙ることになってしまった。遠野にあれだけ口外するなと念を押された強烈な一言が、勇刀の頭の中をグルグルと回り出す。
〝拳銃が携行できない〟
凛とした雰囲気で制服に袖を通す市川に、勇刀は警察官として致命的なその真意を確かめてみたくなった。本当に拳銃が携行できないのか? もし事実なら、何故、携行できないのか?
深夜二時。幸い当直室には、市川と勇刀の二人のみ。
(聞き出すなら、今だ!)
ギュッと。勇刀は、拳に力を入れた。
ビビビ、ビビビ--。
その瞬間、事件発生を知らせる警報音が、無線機からけたたましく鳴り響く。勇刀はハッと短い息を吸った。
『警察本部から各局。C署管内にて警ら中の警察官が襲撃された模様。二名中一名の警察官が、黒服の男に刺され拳銃を奪われた。男は
凍りつくほどの。その無線機から発せられる指令に、勇刀は速くなる鼓動を浅い呼吸で抑えた。
〝警察官が襲撃。拳銃が奪われた〟というワードが、勇刀の頭を何度も駆け巡る。二つのワード、それだけで。これから想像もつかないくらい大変な事態となるはずだ。勇刀の胸中に不安だけが先走る。そんな勇刀に向かって、市川は静かに口を開いた。
「緒方警部補。
「は……はい!」
「私は本部長と刑事部長に連絡をします。緒方警部補は参事官と一課長に連絡がついたら、
「はい!」
「報道対応が激しくなるな……。現在仮眠中の当直員を起こして対応しよう」
極めて冷静に。極めて穏やかに。無線機か流れる緊迫した雰囲気に流されることなく。状況を冷静に判断し的確に指示を下す。しかし、その時。勇刀の目の端は、信じられない光景をうつしていた。
市川の手が微かに。本当に微かに、震えている。本人も分かっているのか、いないのか。震える手で勇刀に紙を差し出した。
「一課長と参事官の連絡先です」
「……」
「ぼんやりしないでください、緒方警部補」
「……はい」
「当直中は、当直員のできる
「……」
「緒方警部補、頑張りましょう。今からが山場です」
市川ははっきりとした口調で、色んな事が情報過多となって固まる勇刀を鼓舞するように言った。
なんとなく、いけすかないと。冷たい眼差しを動揺させるほどの弱みを握れたら、と。勇刀自身、非常に軽い気持ちで、拳銃が携行できない理由を知りたかった。その気持ちが今、恥ずかしくなるほどに勇刀の心は揺れている。
体の中で渦巻く違和感。それが、パラパラと音を立てて砕け散る。
〝拳銃を握れない警察官は致命的〟
はじめはそれを端緒として、市川の弱点を探るなどと。部下としても、警察組織の一員としても。かなり不謹慎な事を思っていた勇刀だった。しかし、頭の中で手にしたその破片が、深く歪つで。弱点といってはいけないほど、複雑なものであることを本能的に察知した。
そう、これはまるで。まるで、形の揃わないパズルのピースだ。
勇刀は、頭の中でパズルを一つ一つ手に取った。形も色も、全く異なる形をしたピース。
取り零さぬように。壊さぬように。散らばったピースを丁寧に拾う。
この違和感を、一つ一つ解決することができるのなら。いつかそれが、この人の抱える何かから救えるのか? それが救済になりえるのか?
頭の中の遥か遠くで響く電話の着信音に、うっすらと意識を戻しながら。勇刀は静かに受話器に手を伸ばす。そして、大きく息を吸った。
「はい。本部当直、緒方が取りました!」
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