あたしのメディア論

@kuragenoongaeshi

メディア論との出会い

第1話 メッセージを伝えること

「メディア論」という言葉をちゃんと聞いたのは最近のこと。「メディアリテラシー」もほとんど知らず、「情報リテラシー」は聞いたことがあり、「マスメディア」は「マスコミ」と同義の言葉として理解していた、かな。

でも最近、人の思考や生活について考えていたいろいろなことが、メディア論の土台の上でつながってきていると感じている。


NAMLE(全米メディアリテラシー教育学会)の出している「メディアリテラシー教育の中核原理」の中に、

1.1c Media messages are produced for particular purposes.

というフレーズがあるのを知って、考えたことがある。

メディア・メッセージは特定の目的で生み出されている、と聞いて、当たり前だと考える人もそんなこと気にしてなかったと考える人もいると思う。「特定の目的」に何か良からぬ匂いを感じ取って、マスコミは人々をコントロールしようとしている、とか考える人もいるだろうな。

私が気になったのは、特定の目的を読み取るうえで、人によって違いが生まれているよな、ということ。そして、発信する側からはどれくらいその正解率をコントロールできるのだろう、ということ。


数か月前、新型コロナウイルスのワクチンの職域接種の申請が始まったばかりの頃に、ある学習塾が社員だけでなく、塾に通う生徒やその家族も対象としている、という貼り紙を見てびっくりした。厚生労働省の出しているQ&Aを見に行ったら、対象者はそれほど厳しく制限されていないことがわかった。でも、近隣住民は?という質問の中で、「慎重に検討してください」という表現があって、私は「禁止とは言えないけれど望ましくないということだろうな」と解釈をした。

私にとって職域接種とは、企業がその従業員の予定をある程度コントロールできる範囲で行うものというイメージがあった。体調不良でキャンセルが出たときも、その会社の中で他の人が受けることができればワクチンが問題にならないと思った。なので、すぐ呼び出せる範囲にいない人は想定外だ。だからお客さんの家族とか近隣住民とかは全くイメージに入っていなかったし、今でも、厚生労働省の最初の想定には入っていなかったんじゃないかと思っている。

けれど世の中の結果としては、大企業がある程度のワクチンと会場や人を確保して、それなりの移動を伴う範囲であっても近くの自治体の住民に枠を開放してワクチン接種を進めていくのが正解の流れになっている。


では、伝えたいことを伝えるには、もっと厳密な表現をする必要があったということなんだろうか。

日本でのコミュニケーションは文脈依存度が高いというけれど、メディア・メッセージの伝えるものを読み取る力は持っていても、読み取った結果のばらつきが大きかったら、それは実は伝わっていなくて、文脈依存というよりコミュニケーションの質が低いというだけなんだろうか。

あと、発達障害の人の中には文脈を読み取るのが苦手だったり、一般的なやり取りと違う解釈をする人もいると思うけれど、このあたりはどうなんだろう。


このメッセージはこういうメディアを選んでこういう雰囲気を選んでこういうことをこの程度伝えるためにあえてこういう表現をしています、と解説をする人たちが出てきたとして、人々はそれをそのまま受け止めるようになるんだろうか。それとも、重層的にメッセージを伝えられることこそがメディアの意義で、それをうまく受け止められない世界の人々は、置いて行かれるということになるんだろうか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る