自転車

カイセ マキ

第1話 - 1

「おじいさんがよくそんなのやってた!」

 市街地から抜けてくる道と国道がぶつかる交差点にある自転車屋さん。その自転車屋さんの主人にお客の女性がいった言葉。外で信号待ちしていた人が思わず店を覗いた。聞いた人が恥ずかしくなるほど、喜びと驚きに溢れた声だった。九月も終わる、ある夕方のこと。


 庭に柿の木を植えたのは、結婚してこの家を建ててすぐだったから、もう四十年以上になる。新しい暮らしを始める自分たちとともに成長し、いずれ増える家族みんなの拠り所となる、そんな大きな木に育ってくれるよう願いを込め、おじいさんが植えた柿の木。願いの通り、すくすくと成長して、この辺りで一番立派な大木に育ってくれたのだった。


 一女一男をもうけ、お姉ちゃんは嫁いでいってしまったが、弟はこの家にお嫁さんを迎えて暮らしている。その息子にもお姉ちゃんと弟の一女一男を授かったのは、なんの縁であろうか。


 八月。蝉が鳴いている。「時雨」などいう生易しいものではない。「夕立」のように、その鳴き声は家をビリビリと痺れさせる。

 午前十時の太陽が、家の西側にある庭を既に照らし始めている。おじいさんは、庭の草むしりをしている。大きな柿の木の傘の下で、影の中で直射日光を避けてはいるが。


 お嫁さんは今日もパートに出ていた。旦那と子どもたちに朝ご飯を食べさせて送り出すと、急いで自分も支度をして八時過ぎには家を出ていく。子どもたちは夏休み中だが、それぞれ部活にいった。お姉ちゃんは高校二年生の吹奏楽部、弟は中学二年の野球部。


「すいません、いってきます」

 と出ていくお嫁さんの声を聞いてから、用意してくれてある朝食をおばあさんとおじいさんは二人で食べる。自分たちが食べた分の洗い物と、他の家族の洗い物をおばあさんが片付けると、ざっと九時を過ぎていた。ちなみに、キッチンにはおばあさんとおじいさん、お姉ちゃんと弟のお昼の用意もしてある。毎日毎日、ほとんど欠かすことなく用意してくれる。ほんとに、頭が下がる。


 九時過ぎ。自分たちの部屋に戻ると、おじいさんは庭に出て草むしりをするのが日課だった。この時季でも一時間ほどは草むしりをする。そんなおじいさんの日課を縁側から眺めるのが、おばあさんの日課だった。


 ときには自分も草むしりに出ることもある。この日も、おじいさんが庭に出るのを追いかけるように、おばあさんも庭に出た。

「おじいさん、これ、ちゃんと被ってください」

 しゃがんでいるおじいさんの頭に、ぽんとのせた、麦わら帽子。すまん、忘れてた、といいながら振り返ることもなく、斜め上からみるおじいさんの横顔、唇の端は確かに笑っていた。おばあさんの頭にも麦わら帽子。おばあさんの唇も、ほんのり笑う。


 おばあさんは十分もせずに縁側に戻ってきた。汗で額が濡れていた。そこには扇風機が回っている。ゆっくり首を振っている。午前十時であれば、この部屋はまだそれほど暑くない、といえる。


 二人だけの家は、静かだった。外からは蝉の声が押し寄せてくるが、家の中から近寄る音はない。怖いほどの蝉の声と、怖いほどの静けさの狭間に、おばあさんはついつい身を委ねていた。いつしか、おじいさんも隣に座っていた。


 十一時半ころ。洗濯物を干しているおばあさんに、おじいさんが縁側から、今日は自転車ででかけないのか、と尋ねる。

「出かけませんよ。なんかいる物でもあるんですか?」

 洗濯物から目を離さないおばあさんの返事はおざなりになる。


 珍しいことではある、おじいさんからそんなことをいい出すのは。なにか買い物でもしてきて欲しいのか。おじいさんは、今日も夕立がきそうだから、と返す。洗濯物が風になびくと、日差しを弾いてきらきらと光を放った。

 

 おばあさんは、空を見上げた。眩しい。なんて眩しさ、なんて熱さだろう。なんという激しさだ。手庇の下からみえる空には、雲が多かった。なるほど夕立がきそうだ。夕立がある日の午前中とは、こんな空なのか。そう、さっき天気予報でいっていた。夕立がある日の午前中とは、こんな空だった。

 おばあさんが出かけて夕立に降られるのを心配している、という雰囲気は感じなかった、おじいさんの口ぶりからは。

 それ以上、あまり深く考えないのだけれど。


 孫たちは、お昼に帰ってきてご飯を食べると、お昼過ぎもそれぞれ出かけていった。

「ばあちゃん、じいちゃん、ちょっと出かけてくる」

 弟が部屋に顔だけ入れてくる。

「夕立がくるっていうから、あんまり遅くならないようにね」

「いってきまーす」

 少しして。

「おばあちゃん、おじいちゃん、ちょっと出かけてくるね」

 お姉ちゃんの顔が部屋をのぞいた。

「夕立がくるっていうから、遅くならないようにね」

「はーい。じゃあね、いってきます」


 再び、家が「シーン」と静まりかえる。

 姉弟の部屋は二階にある。多少の物音はしていたが、この部屋にそれほど「音」の影響があるわけではない。

 それでも、人が二人出ていったという事実は、この家から確実に二人分の「なにかしら」が出ていったことを意味するものだ。


 午後三時。掃除もざっと済ませて、お風呂掃除もしてある。お嫁さんがいつもだいたい四時ころ帰ってくる。

おじいさんが、よっこいしょ、と立ち上がる、テーブルの上の湯飲みがコトリと鳴る、縁側の掃き出し窓に寄って、障子を開けて部屋の中から空を見上げた。

「もう降りそうですか?」

 というおばあさんの言葉に、夕方まではだいじょぶだろう、と答える。テレビがついている。クーラーが効いて部屋の中は確かに涼しく快適ではあるだろう。

 が、クーラーが、部屋を閉め切っていることと相俟って、今度は外からの音までを部屋の中から追い出している。ときどき、息苦しさを感じることがある。おじいさんが窓を開けたくなる気持ちもわかる。

 ワアアア!

 と音が膨らんだ、蝉の声がぶつかってくる。おじいさんが窓を開けたのだ。

 午後三時といえば暑い盛りだ。それでも、この部屋では快適に過ごせる。それは、エアコンのおかげだけではない。部屋に差し込む影がある。それは、庭の柿の木の影だった。

 おじいさんとおばあさんの家、家族の家に、柿の木の影が伸びていた。


 おばあさんが携帯電話に出る。相手は、友だちの外所さんだった。

「ちょっと、出かけてきます」

 午後四時まであと五分ほど。

「外所さんが、きゅうり取りにこいっていうんで、ちょっといってきます」

 今からか、とおじいさんは心配そうな顔でおばあさんに声をかける。夕立がくるかもしれない。

「きゅうりもらって、さっと帰ってきますから」

 自転車でいくのか、とおじいさんが聞いたので、おばあさんは「はい」と短く返した。おばあさんが出かけるといったら自転車である。何を今さら、と少し訝る。

 外所さんの申し出を断ったほうがよかったかと、おばあさんは立ち上がりながら少し後悔した。いかないほうがいいような気もする。夕立が怖い。出かけることに躊躇いを感じていた。

 躊躇いを感じながらも、おばあさんは支度をして部屋を出ようとしている。外所さんの家は、ここから自転車で十分もかからない。さっといってさっと帰ってくればいい。とはいえ……。

 とりあえず外までいってみよう。部屋を出かけたおばあさんを、背後からおじいさんが呼び止める。振り返ると、おじいさんも立ち上がっていた。

「手、出してみな」

「なんですか」

 いわれた通り、おじいさんに向かって手を伸ばす、手を広げてみろ、いわれるがままに掌を広げてみせた。おじいさんが拳を乗せる、暖かくも冷たくもない、久しぶりに感じたおじいさんの手の温度はむしろ新鮮だった。発見だった。おじいさんが手を引く、おばあさんの掌にははっきりと冷たいものが残った。固くて冷たい。

「鈴だ」

「あら!」

 紐の先に二つの鈴の付いた。おじいさんの照れ臭そうな笑顔だった。


 小さな鈴だった。高く可愛らしい音を出す。神社を思わせる、お守りのような鈴。


 おばあさんが玄関で自転車の鍵に鈴をつけていると、そこにお嫁さんがパートから帰ってきた。

「おかえりなさい」

「ただいまー、あれ、どうしたんですか、それ」

「鈴。おじいさんがくれたの」

「へぇぇ、凄いですね!」

「ねえ、珍しいこともあるものね」

 買い物袋を家の中に入れ終わり、奥へと入っていく、お嫁さんが驚いたように振り返った。今自分が閉めたドアが開いたから。

「おかあさん、出かけるんですか」

「外所さんがね、きゅうり取りにこいっていうから」

「でも、夕立きそうですよ」

「すぐ戻ってきますよ、さっといってさっと帰ってくるから。じゃあ、いってきますね」

「はい、気を付けて」

 おばあさんは出ていってしまった、鈴を鳴らしながら。鈴の音は遠ざかり、そして消えた。

 鍵の付いた鈴をみるおばあさんの嬉しそうな顔だった。出かけることにはっきり「やめた方がいい」をいえなかった。いえなかったことを、お嫁さんは後悔した。夕立がくるまえに、早く帰ってきてくれることを、とにかく願うだけだった。  


 おばあさんは自転車が好きだった。結婚したころは、晴の日はもちろん少々の雨の日も自転車で買い物にいっていた。いかざるを得ないといえばそうなのだが、自転車は、いつしか「手段」以上のものになっていた。

 相棒といっていいかもしれない。もちろん、ずっと同じ自転車に乗っているわけではないが、自転車を変える度に「よろしく」とシートをさする。自転車に乗るときはいつも、家に帰ってきたときその度に、「よろしく」そして「お疲れ様」「ありがと」とシートをさする。それが、おばあさんの自転車に対する思いである。

 おじいさんがよく自転車をみてくれた。チェーンに油をさしてくれたり、パンクを直してくれたり。シートの高さを合わせてくれたり。

「シートの高さくらいは自分で調節できるようにならんとな」

 嫌味ではない。出先でシートが合わないと感じたらその場で調節できるほうが、おばあさんにとっても有益だろう、という思いから。

「はい」

 おばあさんは、そのやり方を教えてもらった。できるようになった。それでも、なるべくおじいさんにお願いした。なんでもできるおじいさんが好きだった。おじいさんを頼りたかった。

 最近はあんまり自転車のことをお願いしなくなった。自転車に乗る時間も減った。

 また、整備をお願いしなくちゃ。

 この近くには「観音山」という山がある。山頂標高百九十メートルのところに慈眼院というお寺がある。見晴らしもよく、大きな観音像もあり、観光地としても人気の場所だった。毎年、年に二度か三度、おばあさんもおじいさんや家族とお参りにいく。無論、自転車で上がるような場所ではない。ふと、観音山を見上げた。今度の週末あたり、家族でお参りしたい、そんなことを思った。観音山の上、空には灰色の雲が満ちていた。風も少し出てきたようだ。いよいよきそうだな。急いで、帰ろう。


 外所さんの家で少し話が弾んでしまった。それでも、降り始める前には帰れそうだった。空をみると、黒い雲が厚みを増している。救急車のサイレンが鳴っていた。孫たちももう帰ってきているだろうか。雷の音が聞こえたような気がした。なんとなく、胸がざわつくようだった。


 家の前がみえる場所まできた瞬間、血の気が引いた。家の前に救急車が停まっていた。

 自転車を家の横の自転車置き場に停めると、玄関へと向かう、開け放したドアから横になったまま運ばれるおじいさんが出てきた。促されるままに、おばあさんは救急車に乗り込んだ、お嫁さんの泣き顔を、横目でちらっとみただけだった。


 時間が戻ることはない。止まることもない。誰にだって夜がきて朝がくる。滞ることなく新しい一日はやってくる。生きている人には。

 いや、新しい一日はくる、誰にだって、なににだって。

 おじいさんは亡くなった。一度も意識を取り戻すことなく、二度と目を開くことはない。


 心不全ということだった。

 お嫁さんの話によると。おばあさんが出かけた少しあと、おじいさんが部屋から出てきた、おかえり、ただいま、と声を交わした、おじいさんはトイレに入った。

 また少し経って。お姉ちゃんが帰ってきた。そして、お姉ちゃんがトイレにいく、

「おじいちゃん、まだ鍵閉めないで入ってるし、マジ焦る」

 そのセリフに、お嫁さんは「ハッ!」とした、鳥肌が立った。

「おとうさん、入りますよ、おとうさん、おとうさん!」

 おじいさんは、トイレで意識を失っていた。


 結婚しておじいさんの実家に入ったが、そこで義理の両親と過ごしたのは一年ほどだった。一年ほどで、この家を建てて二人で暮らし始めた。

 まさに柿の木とともに過ごしてきた四十年だった。小さい苗を見守る日々があった。夫婦での暮らしに、子育てに、義理の両親との関係に、悩んだ日々、苦しみを柿の木に吐露した回数は何度かしれない。

 あっという間だった、ということはできる。楽しい思い出もある。楽しい映像が幾らでも蘇る。悲しい辛い思いも、たくさん、思い浮かんでくる。「あっという間」のその「間」は、時間に置き換えられない厚みを持っている。

 いい人と結ばれたと、しみじみ思う。気が小さくてお人好しなくせに、おばあさんには我がままを通して困らせる。他所に迷惑をかけずに身内に面倒をかける。逆じゃなくてよかったと、おばあさんは思ったものだ。

 若いころは、家の中でよくイライラしていた。仕事のイライラを家に持ち込んで。夫婦喧嘩も日常茶飯だった。子どもが独立したころからだろうか、家の中であまりイライラをみせなくなったのは。

 長女が県外に嫁いだことは、おじいさんにとって決定的だっただろう。寂しさで体まで小さくなったように、おばあさんは感じたものだった。

 息子が結婚してお嫁さんを迎えると、おじいさんははっきりと優しくなった。「優しさ」を表にみせるようになった。孫を溺愛する様は、滑稽なほどだ。

 孫ができるような歳になれば、仕事の上でも周りとぶつかることは少なくなるだろう。「年寄り」にぶつかってくる者がいなくなる。相手にされなくなるのだが。

 定年の前から、おじいさんはおばあさんにも優しくなった。犬も食わない喧嘩をしなくなってかなりの歳月が経っていた。

 定年して外にあまり出なくなる。ストレスも減ったからだろう。おじいさんは、大人しい、ただのおじいさんになった。

 人づきあいがなくなって、家のものに面倒をぶつける人もいると聞くが、ここのおじいさんはそうではなかった。これがおじいさんの「本質」だったのだろう。

 柿の木の世話をするのが、おじいさんの日課だった。草をむしり、幹を撫でる。他にもちょっとした家庭菜園を開いていた。おばあさんが好きそうな花を植えたり。庭いじりに精を出す、穏やかなおじいさんになっていた。


 思い出の数々、数々、数々。そこにはいつもおじいさんがいた。おじいさんが一緒じゃないときも、おじいさんがいた。いつもおじいさんがいた。おじいさんと結婚する前から、おじいさんと一緒だった。おじいさんと結婚した自分の、結婚する前の思い出だ。

 生まれてから思い出せる全ての時間が、おじいさんと共にあった。

 振り返ってみれば。

 人生を振り返ってみれば。

 おばあさんの人生は、まるで終わってしまったかのようだった。

 おばあさんは、庭を眺めている。おじいさんが生きていたときと同じように。おじいさんが生きていたときよりも、一日の中で庭と向き合う時間が長くなっていた。それはそうだ、部屋の中におじいさんはいない。家の中におじいさんはいない。リビングにも風呂場にも、トイレにも、おじいさんはいないのだから。

「わたしが早く気づいてれば」

 お嫁さんはおばあさんにそういって、詫びた。しかし、それはいっても仕方のないことだった。おじいさんがトイレに入ってからお嫁さんが声をかけるまで三十分ほどの間があった。その時間を、二十分にすることはできたかもしれないが、五分にすることはできなかったろう。

 おじいさんは血圧が高かったために、血圧を下げる薬を飲んでいた。病院にも定期的に検診にいっていた。腰をちょっと悪くして、長い時間歩いたりはできなかったが、庭で草むしりはするし、内臓に悪いところはなかった。少なくとも、自覚するべきことはなかった、それまでに受けた検診の結果に鑑みて。おじいさんが亡くなったことは、その出来事に関わってきた誰の過失でもない。それはもう、天命というしかないものだった。

 おばあさんは庭を眺める。それまでと変わることなく。おばあさんは変わらない。変わったのは庭の方だった。そこには誰もいないのだから。


 お嫁さんを責めたい気持ちはない。仕方ない、どうしようもなかった。

 それはおばあさんにもわかっている。理解している。

 お嫁さんを責めたかった。一番近くにいて、可能性があったのはお嫁さんだった。

 お姉ちゃんを責めたかった。お姉ちゃんがすぐに異変に気付いていれば。トイレでぐったりしていたおじいさんをみても異変と思わなかった。お姉ちゃんのおじいさんに対する関心はそんなものだったのか。

 長い時間動きがないとき、トイレの外に異変の可能性を知らせるセンサーのようなものを設置しておけば。息子を責めたかった。

 弟を責めたかった。

 誰かを責めたかった。誰かのせいにしたかった。誰のせいにもしてはいけない。誰のせいでもない。仕方のないことだった。おじいさんは、寿命だったのだ。

 誰よりも「自分」を責めていた。

 いかなければよかったのだ。電話をくれた外所さんのせいだ。

 出かけなければよかった。きゅうりなど放っておけばよかった。

「夕立がきそうだから、明日にするわ」

 そういえばよかった。それだけでよかった。

 それでも、おじいさんを救うことはできなかったかもしれない。

 それでも、おばあさんが出かけなければ、それで運命の歯車が少しでも変わって、おじいさんが死ぬことはなかったかもしれない。

 わたしが、出かけたりなんかしなければ……。

 気が付くと、おばあさんは自分の掌をみつめていた。鈴。鈴があった。鈴のようなおじいさんの顔が。おじいさんの笑い顔が、そこにあった。


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