九 ある日突然 軽部平太の上に
二〇三三年、十一月十二日、金曜、一〇〇〇時過ぎ。
突然、大きな何かが軽部平太の上に降ってきた。
十一月十四日、月曜、一〇〇〇時過ぎ。
気がつくと、軽部平太は首から腰までと右腕をギブスで固められて病室のベッドにいた。ギブスがされていない下半身は動かなかった。
「目が覚めましたね」
看護師が軽部のベッドに来て状況を説明した。看護師は、女が身投げしたとは言わずに、女がビルの屋上から転落して、下の歩道を歩いていた軽部に激突したと言った。一昨日の事だった。
十一月十二日、金曜、一〇〇〇時過ぎ。
十五階のビルの屋上から女が転落(身投げ)した。ビルの横の歩道を歩いていた軽部は首と腰骨と肩と鎖骨を折って脳震盪を起こし、入院する羽目になっていた。不幸にもいうか幸運というか、下半身が麻痺しても勃起はする。だが、医師の説明で、脚部付随で入院が長びくと分かり、付き添うと言っていた恋人は去っていったと説明した。
ビルから転落した女は軽部より軽傷だった。数日入院して検査し、退院する予定と看護師は言った。看護師は、女がビルから転落したと言うが明らかに身投げだ。身投げした女が軽傷で、軽部は重傷。しかも下半身不随だ。
女の両親が病室に来て、軽部の重傷と引き替えに、身投げした女が軽傷だった事を詫びた。両親は軽部の下半身不随に賠償金を払うと言った。賠償金を貰っても、軽部の下半身は元に戻らない。いや、莫大な費用を払えば、腰の神経を繋げるだろう。
十一月十九日、金曜、一〇〇〇時過ぎ。
女が親とともに病室に現れた。こいつは完全に傷害の加害者だ。そう思っていると、外で警察官が待機している、と両親が言った。やはり女の犯罪、身投げによる過失傷害を警察は見逃さなかった。
その後。
自殺未遂に終った女は傷害罪で七年服役することになった。だが、女が服役したところで、軽部の身体が快復しないのは分かっている。
女は控訴した。
自殺を決意した人間が、なぜ控訴する。自殺はいっときの気まぐれか。軽部は怒りが湧きあがるのを押えられなかった。
裁判の最中も、その後も、女は朝から軽部の病室に現れて沈黙のまま過し、夕刻、帰ってゆく。オレを見舞っている気なのだろう。こいつの気まぐれで、オレは下半身不随だ。そう思って女を睨みつけるが、女の顔の表情が掴めない。目も鼻も口もあるが、この女、何かが変だ。
三ヶ月後。
二〇三四年二月二十日、月曜。
裁判が終った。女は執行猶予つきの有罪になった。弁護士が請求した賠償額は全額認められたが、その賠償金を支払われても手術費用は足らない。軽部の手術費用と軽部が生涯で稼ぐ所得額を合算して請求しろと言ったのに、阿呆な弁護士が、生涯で稼げる国民の平均額を賠償金として請求したためだった。これで軽部の身体が快復する見込みは無くなった。
その後(二月二十五日、土曜)も、謝罪と言って毎日女が病室に来る。
これは拷問だ。自殺未遂した人間が五体満足で、何の関わりもないオレが下半身不随だ。しかも、自殺未遂した人間が、朝から晩まで俺の病室にいてオレの前で過している。
やはり拷問だ。軽部は女を見て、クソッタレと思った。クソッタレとは「糞 垂れる」だろう。この女は糞を垂れたのか・・・。そう思って女を見て、軽部は糞をたれている場面を想像した。美醜に関わらず糞をする。糞に美醜があるか?無いだろうな。軽部はそんな事を考えて気を紛らわせた。
女が、糞に美醜があるかと思う軽部の顔が笑い顔になったのに気づいて笑った。笑いの原因になるのはそれだけだった。軽部が入院して三ヶ月以上になる。女の表情の変化はおそらくビルから飛び降りて三ヶ月ぶりだろう。
しかし、なぜこの女はオレの病室に来るのか?ここに来ても何もしない。ただ居座っているだけだ。女は何のためにこにいる?いや、何のためにここに来る?やはりオレに対する拷問か?あるいは実験か?
そう思っていると女が何か呟いた。
何を言ってるか分からない。何語を話してるんだ?この女、オレと同じ日本人だ。なのに、話しているのは何語だ?動物の声でもない。人間の言葉ではない。この女、人間か?
女の両親が来た。女に何か言っている。この二人も言葉が変だ。人間の言葉ではない・・・。人間でないなら何だ?動物でもない?この女がオレの上に降ってきたせいでオレのの精神と意識が異常になっているのか?
軽部は病室の看護師に目配せした。
看護師も軽部の意を理解して、女と両親に、軽部の見舞いに来たなら、それなりに対応しろ、と態度で示している。
軽部は妙な事に気づいた。看護師も両親も女も、軽部に顔を見せないようにしている。そして、聞き取りにくい小さな声で話していた看護師の声が、動物の鳴声でも人間の言葉でもない、喉を鳴らすようなくぐもった音に変った。
軽部は、ギブスをしていない方のかろうじて動く左手で、ベッドの上掛けを顔に掛けて寝たふりをし、半眼に閉じた瞼のあいだから看護師と女と両親を見た。
軽部が眠ったと感じたのか、四人が軽部をふりむいた。四人ののっぺした顔には縦長の瞳の大きな目と、鼻梁の無い二つの穴と、唇が無い口角の上がった口が見えた・・・。
この顔は!
軽部の脳裏に記憶が湧きあがった。
この顔の表情をどこかで見た覚えがある・・・。
思いだせない・・・。
ここは中野の警察庁警察機構局の東京警察病院だ。警察関係者しか入れないのに、どうしてこんなヤツラが進入した?
いったい、こいつらは何者だ?こいつらの目的は何だ?
もしかして、俺が目的か?
俺はコイツらに関して、何も思いだせない・・・。
とにかく、早くここを連れだしてもらおう。
下半身が付随なら、吉永たちが機能回復したようにCDBで治してもらうしかない。
鮫島が見舞いに現れるのを待つしかない・・・。
軽部は、顔まで覆ったベッドの上掛けの隙間から、半眼に開いた目で看護師と女たちを見つめた。
軽部が見ているあいだに、看護師と女たちの顔が、今まで見ていたのが見間違いではないかと思えるように、人の顔に戻った。
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