第6話

 家に帰る。帰らない。帰る。


 花びらをちぎって占うほど乙女ではないけれど、劉備玄徳の真似事をしようとしている景山先輩が待っている家に真っ直ぐ帰るほど大人でもない。だからといって家に帰らないわけにもいかず、私はあっちをウロウロこっちをウロウロしているだけのあやしい人間になっている。


 授業が終わって、里穂とも別れて、家まであと少し。

 でも、家が魔王城かなにかのように思えて逃げ出したくなる。


「里穂の家に寄らせてもらえば良かったかな」


 歩道の端、標識に書かれている速度を守っているとは思えない勢いで通り過ぎていく車を見ながら、十分ほど前に別れた友だちの顔を思い浮かべる。


 平日に友だちの家へ遊びに行ってはいけないわけではないし、受験生だからといって友だちの家へ遊びに行ってはいけないわけでもない。私と里穂は幼馴染みで家も近いから、今から彼女の家へ行ってもおかしくないのだけれど、里穂の家へ行こうと思うと足が信じられないくらい重くなる。


 里穂のことは嫌いではない。

 大好きな幼馴染みで、大切な幼馴染みだ。

 それなのに、今日は遊びに行ってもいいか聞くことができなかった。


「亜利沙ちゃんが通りかかればいいのに」


 久しぶりに草野先輩を下の名前で呼んで、ありそうでなさそうなことを考える。彼女が中学生だった頃は下校途中に姿を見たけれど、高校生になってからほとんど会うことがない。でも、まったく会わないわけではないから、草野先輩がここを通ったら家でしばらく時間を潰させてほしいと頼んでもいいかと思う。


 草野先輩は優しい。

 事情を話して、いや、話さなくても夜まで家に帰りたくないと言えば一緒にいてくれるはずだ。


 私は小さく息を吐いて、空を見上げる。


 景山先輩は、いつまで私の家の前で劉備玄徳ごっこをしているつもりだろう。


「あー、もうっ」


 大きな声を出して、足を一歩前へ出す。

 草野先輩をここで待っていても来るかどうかわからない。

 そして、私は草野先輩に会いたいのかどうかわからない。


 会いたい。会いたくない。会いたい。


 結果がすぐにわかりそうな花びらなんかじゃなくて、夏らしく近くに咲いているひまわりの種を取って投げて占ったら時間が潰れるかもしれない。


「……帰ろうかな」


 草野先輩に好きだと告白してから、私は彼女と昔のように話すことができない。草野先輩は告白なんてなかったことのようにしてくれているけれど、告白したという事実が完全になくなることはないし、告白をなかったことのようにされるのは少し辛かったりする。


 好きだと伝えることで気持ちを整理するつもりだったのに、散らかった気持ちは元あった場所に綺麗に戻ることはなかった。なにもかもが微妙に違う場所に片付けられて、整理されているのに落ち着かない。


 私は車道を見ながらため息をつく。


 草野先輩が通りかかることはないだろうし、通りかかったとしても昔のように家へ遊びに行くなんてことはできない。だから、キスの続きをするという予告をして帰った景山先輩がいるであろう家に向かって歩くしかない。


 私はゆっくりと五歩進んで小石を蹴る。

 家が近くなって、夕方になっても暑苦しい太陽が作る影すら重く感じる。


 三歩歩いて、やっぱり家から離れたくなって回れ右をする。八歩家から離れて地面を蹴ると、聞き慣れた声が聞こえてきた。


「おーい、多香美」


 景山先輩の声が耳に響く。

 振り向きたくなくて石像のように固まっていると肩を叩かれて、私はもう一度回れ右をして進行方向を家のほうへと変えた。


「……家の前にいるんじゃなかったの?」


 にこにこと胡散臭い笑みを浮かべて私の前に立っている景山先輩に声をかける。


「多香美の帰りが遅いから迎えに来た」

「それ、劉備玄徳じゃないじゃん。家の前で待ってなよ。大体さ、なんでこんな時間に来れるの? 高校ってそんなに暇なの?」


 景山先輩の高校はバスと電車を乗り継いでいくような場所にあるから、彼女が高校へ行くようになってからは、平日の夕方に姿を見かけることが少なくなっている。


 この前も、その前も、景山先輩が驚くほど馬鹿なことを言ってきたせいで、その存在が珍しいものだということを忘れていた。


「暇じゃないよ。ただ今は、期末テストで学校終わるの早いから。多香美はもうテスト終わったんでしょ」


 同じ中学出身だけあって、しっかりと私のテストの期間を把握している景山先輩がにこりと笑う。


「終わったけど、私のことはどうでもいい。景山先輩、受験生だよね? 期末テスト期間中にふらふらしてていいの? 帰って勉強しなよ」

「ちゃんと勉強してるからここに来てるの。テスト勉強間に合ってなかったら、今、必死に勉強してる。受験勉強もそう。余裕なかったら、多香美のところに来たりしないよ」


 景山さんちの百香ちゃん、学年トップらしい。

 全国模試の結果が良かったらしい。


 なんていう噂話をよく耳にする。

 どこまで本当か知らないけれど、うちのお母さんも知っているくらい近所では有名な話だから、それなりに真実に近い話なんだと思う。私にとってありがたい話ではないけれど、ちゃんと勉強しているという話に嘘はないはずだ。


「で、多香美。どうするの? 家に帰るなら一緒に帰るけど」


 景山先輩がべたつく潮風に吹かれながら明るい声で言う。


「景山先輩とは帰りたくない」


 当然のように一緒に帰るという彼女と家に帰れば、キスの続きをすることになる。本気で言った言葉かどうかわからないが、自分を実験台にして彼女の言葉が本当か確かめたいとは思えない。


「ふうん。じゃあ、ここでお別れだ」

「お別れって。帰るの?」

「帰るよ。自分の家にね」


 景山先輩がすっぱりと言い切って微笑む。


「あんなにウザかったのに、今日は素直に帰るんだ」

「あのね、私、多香美に嫌われたくて会いに来てるわけじゃないの」

「じゃあ、なにしに来てたわけ?」


 帰ってくれるほうがありがたいけれど、昨日までのしつこさが嘘のようにあっさりと引き下がられると黙って彼女を見送ることができなくなる。


「ここで言ってもいいなら、大声で言うけど」


 そう言うと、景山先輩が口元に手を当ててわざとらしく息を吸い込んだ。


「こんなところで大声出したら、その口、かがり縫いするから」

「かがり縫いって、布の端がほつれたりしないようにする縫い方だっけ?」

「ぬいぐるみの綿入れ口を閉じるときにも使う」

「なるほど。私がぬいぐるみみたいにかわいいってことだ」

「そんなこと一言も言ってないから」


 私は大きなため息を一つついて、家へ向かって歩きだす。

 夕方とは言え、まだ外は暑い。ウザい景山先輩とくだらない話をし続けていたら目眩がしそうだ。


「多香美、どこ行くの?」

「家に帰る」

「ついていってもいい?」


 お別れだと言ったはずの景山先輩が、呆れるほど鮮やかに意見を変える。


「駄目って言ってもついてくるんでしょ」


 ここへ来るまでに草野先輩に会わなかった。

 たとえ、会えたとしても私はやっぱり家へ帰ろうと思ったはずだ。草野先輩を亜利沙ちゃんと呼べなくなった日から、私は彼女といると息苦しくて長い時間一緒にいられない。


「その通り」


 景山先輩が私の隣にやってきて、手を握ってくる。そして、子供の頃のように私の手を引いて半歩前を歩く。懐かしいけれど、その懐かしさは消し去ってしまいたい懐かしさでもある。


 草野先輩が里穂の手を引いて。

 景山先輩が私の手を引いて。

 そんなことが過去に何度もあって。

 私はそのたび里穂が羨ましかった。


 家がだんだん近くなって、過去を引きずり続けている私の気分はどんどん沈んでいく。景山先輩は楽しそうになにか話している。言葉は右から左へと流れて戻ってくることはない。


 気がつけばいつの間にか家に着いていて、私は玄関の鍵を開ける。私たちは階段を上って二階に上がり、景山先輩が私の部屋のドアを開けた。


「あっ。のしいか、まだある」


 部屋に入るなり、景山先輩が声を上げる。


「食べたかったら食べれば」


 私はエアコンのスイッチを入れて、のしいかを景山先輩に押しつける。けれど、彼女は受け取らず、私はのしいかをテーブルの上に戻した。


「のしいか味のキスをしたいなら、食べるけど」

「キスするとは言ってない」

「えっちなことは?」

「それもしない」


 冷たく言ってドアを背にして座ると、景山先輩がベッドに腰をかけて両手を広げた。


「多香美、カモン!」

「絶対行かない」

「なんで?」

「ウザいから」

「えー、ハグするだけだよ。おいでよ」

「暑いし、やだ」

「人肌って良くない?」

「良くない」

「亜利沙だったら良かった?」


 景山先輩が不自然なくらいににこりと笑う。

 家に帰り着く前に沈みきったと思った気分がさらに下へと落ちて、私はまだ下がる余地があったことに驚く。


「比べる意味ないし」

「そう? 私は比べたいけど」

「なんで?」

「多香美も里穂も、私より亜利沙が好きなんだもん」

「そりゃそうでしょ。草野先輩、みんなに優しいし」

「誰にでも優しい人って、実はそんなに優しくないと思うけど」

「草野先輩は優しいよ」


 告白した時、草野先輩は嬉しいと言ってくれて、私も幼馴染みとしてだけれど多香美のことを好きだよと言ってくれた。どんなことがあっても幼馴染みだと言ってくれて、いつかもっと素敵な人が現れるよと優しく笑ってくれた。


「多香美、そういう顔してないけど。ほんとに亜利沙のこと優しいって思ってる?」

「……思ってる」


 私を傷つけないように気遣ってくれた草野先輩は優しい。


 優しくないわけがない。


 初めて会ったときも友だちになろうって一緒に遊んでくれて、そういう草野先輩が優しくないなんてあり得ない。


「多香美、こっち来なよ」


 景山先輩がベッドをぽんぽんと叩いて、私を見る。

 でも、隣に座ろうとは思えない。


「嫌がる幼馴染みを無理矢理、なんてことはないから安心して」

「わざわざ迎えに来たんだし、そのつもりで来たんでしょ」


 胡散臭い笑みを浮かべている景山先輩を睨むと、彼女はいつもよりも低い声で「んー」と言ってからベッドに寝転がった。


「今日、多香美絶対に帰って来ないって思ってた。実際、なかなか帰って来なかったし、だから諦めて帰ろうかと思ってさ。それでも、帰る途中にもしも多香美と会うことがあったら劉備玄徳になろうと思って歩いてたの。会わなかったら、そのまま帰るつもりだった」

「三日目だけ諦めがいいのなんなの」

「百香様も人間だからね。迷うこともあるの」

「迷うくらいなら、さっき会ったときにあのまま帰れば良かったのに」

「そうだねえ。帰れば良かったかもね。結局、多香美が亜利沙のことを諦められないってわかっただけだし」


 景山先輩が本当のことはなにも知らないくせに、私の心の中を覗いたみたいに言う。


「諦めるってなに。草野先輩のことは、そういうのじゃないんだけど」


 ただの決めつけでしかない言葉を受け入れたくはないし、彼女の言葉を認めてしまえば私はまだ草野先輩のことを諦められないうじうじとした人間になってしまう。


 私は大人ではないけれど、誰か一人を想い続けていればいつかは気持ちが通じて両想いになれると信じられるほど子どもではない。諦めたくなくても諦めなければいけないことがあることくらいわかっている。


「無理でしょ、それ。亜利沙のこと好きだって見てたらわかるもん」

「好きじゃない。憧れてるだけ」

「無理するのやめなよ」

「里穂だって気づいてない」


 そうだ。

 ここに引っ越してきてからずっと一緒にいる里穂ですら、私の気持ちには気づいていない。だから、景山先輩が気がつくわけがない。


 こんなのはもう、認めているのと変わらないけれど、自分の口からはっきりと言いたくない。


「そりゃあ、気がつかないでしょ。里穂は亜利沙しか見てないし」


 景山先輩がため息交じりに言って起き上がると、ベッドから立ち上がる。そして、私の隣までやってきて静かに座った。人が一人座れるくらい私が離れると、景山先輩が言った。


「でも、私はみんなを見てるよ」

「見てないでしょ」

「見てるよ。多香美が亜利沙のこと好きだって気がつくくらいだもん。だから、亜利沙が多香美のことを好きにならないってこともわかる」


 柔らかな声で言うと、景山先輩がにこりと笑った。


「景山先輩って酷いよね。優しくない」

「優しくないけど、亜利沙を忘れる手助けくらいはできると思うよ」


 私が開けた隙間を埋めるように景山先輩が近づいてきて、頬を撫でてくる。柔らかな手が髪を梳いて、私の肩に着地する。


 ゆっくりと顔が近づいてくる。

 避けようと思えば避けられるし、景山先輩の額に頭突きしてもいい。できることはたくさんあって、その中から目を閉じることを選ぶと、景山先輩の唇がすぐに私の唇に触れて離れた。


「こういうの、手助けって言わないんじゃない?」


 もう一度キスをしようとしてくる景山先輩の額を押しながら、尋ねる。


「気が紛れるし、時間が潰れる。気を紛らわせて、時間を潰してたら、大体のことは忘れるんじゃないかな」


 私は、不誠実なことを誠実そうな声で言う景山先輩の額から手を離す。唇がまた重なって、今度は景山先輩の暑苦しさがわかるくらい長くキスをしてから離れた。


「どうする?」


 なにをするとは言わずに景山先輩が聞いてくる。


「……服って、脱ぐの?」


 私は景山先輩ではなく、ベッドを見ながら尋ねた。

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