32 僕のせいで敗戦してしまったのに
僕は昨日、多分、誰かにおぶさるように、または肩を抱かれるようにして帰ってきたのだと思う。ほとんど何も覚えていない。緊張の糸が切れてしまったようだ。
「おはよう。昨日は大変だったわね」
「ん……」
「新聞。買ってきたけど、読む?」
目の前に朝のコーヒーを置くと、少し心配そうに僕の顔を覗き込む母。胸に抱えるように持つ『たま新』を渡そうか、渡すまいか迷っている様子。黙って差し出した掌にそっと乗せてくれた。
(そっか。負けちゃったか。でも、あそこまでよく戦ったよな?)
母の態度から察する。恐くて新聞を開けない。手が震える。何て書かれているだろう。僕のPK失敗。その事実を突きつけられるだろうか。もっと酷い言葉が浴びせられるかも……?
「おっはよ! 凡平君! 早いね」
「栗岡!?」
便秘が解消されたのか、今日は異様なまでに元気だ。「何故ここに」と、言いかけて飲み込んだ。そう言えば連日、うちに泊まり込みでいたんだった。僕のせいで敗戦してしまったのに……最後の一泊だろうか?
「昨日は凄い試合だったね!」
(何で栗岡はこんなに元気なんだろうか。空元気というヤツか? もしかして僕を励まそうと?)
「りんねちゃん、朝ご飯もう食べる?」
「あっ、はい! いただきます! ……それにしても昨日の野心君の3連続セーブ! しびれちゃった~。あっ、手伝いますっ」
(えっ? 3連続セーブ……だと……ッ!?)
それだけ言い残して台所の方に駆けて行く栗岡の後姿。跳ねるスカートのお尻が視界に入り、慌てて目を逸らすと、紙面をめくった。
『キュービックジルコニアTAKEDA PK戦 (5-4)の末に7回戦進出!』
と、大見出し。……は? 勝った? 何度読んでも間違いない!
「あっ、昨日の新聞ですか?」寝ぼけ眼を擦りながら居間に出てきた野心が、僕の手の新聞を取り上げた。勝った……のか? 心の中でそう思っただけのつもりが、声に出ていたようだ。「はい? そうですよ。やっぱり覚えていなかったんですね。昨日は連れて帰るのも大変でしたから」野心が返事をくれた。連れて帰るのも大変とは? いや、それより、栗岡が上機嫌なのはこれか! 旅行から戻って以来、ずっと沈んでいたというか、らしくない栗岡だった。便秘にしては長いので生理かな? とも思い始めていたところ。今日は元気そうで何よりである。
「そうか。勝っていたのか……」ボソッと呟いた僕に、怪訝な表情を浮かべる野心。母にも弟妹にも、心配かけてしまったみたいだ。「ああ大丈夫。ちょっと記憶が……よく覚えていないっていうか、それだけだから」こんな言葉で安心して貰えるだろうか。分からない。野心は何も言わず、再び新聞に視線を落とした。
次の試合まで1か月以上空く。リーグ戦が再開されるのと、五輪で中断した分の日程が詰まっていて、天皇杯の方は暫くお休みである。栗岡を含む学生メンバーは、まだまだ夏休み。僕は今日から仕事なのだが、心配した母は「休めば?」と、言ってくれた。体調には問題が無いので、僕は朝食の後、手早く着替えて仕事に向かった。定時で家に帰ると、「凡平君お帰り!」笑顔で栗岡が出迎えてくれたのには驚いた。まだ家に泊まり込んでいるとは思わなかった。
それから3日出社した後、金曜日に僕は辞表を提出した。正直生活には全く困っていないし、母に相談したら「もう体調は問題ないのよね? じゃあサッカーに集中したいんでしょう? でも、もし迷うぐらいなら仕事に行きなさい」と、どちらとも取れる返答。僕の決心に任せるといったところか。その言葉を受けて数日間、仕事に行った結果である。どうしても仕事に集中できなかった。サッカーの事しか考えられなかった。僕はサッカーが好きなんだ!
僕が仕事を辞めてすぐに玲人と野心も大学と仕事を辞め、僕たちは晴れてプー太郎3人衆になった。恥ずかしい? いいんだよ! うちは金に困っていないんだ!
8月は学生のメンバーが毎日集まって練習に励んだ。仕事で来られないメンバーは夕方から合流するか、週末のみの参加。プー太郎3人衆? 言うまでもなく、毎日練習に明け暮れたよ。
ここから先の相手は全てがプロチーム。守る時間が多くなるだろう。そう思って多くの時間を守備練習に割いた。特に野心が言っていたのは「プレーエリアに気を付けて下さい」という事だった。ピッチを大きく3つに分けた自陣、ピッチ中央、敵陣。「自陣では絶対にミスをしてはいけません。ここでのミスは即失点に繋がります」野心は何度も繰り返した。「自陣ではセフティを心がけましょう」とも。
逆に敵陣ではミスを恐れずプレーしなければ点は取れない、そう言ったのは誰だっただろう。自陣ではミスのない確実に成功するプレーを。中央では時にチャレンジも必要なので80パーセントのプレーを。敵陣では5分5分でも勝負を。特にペナルティエリアに入って十に一つでも成功の目があるなら、逃げずに仕掛けなければいけない。という話だった。
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