妖奇譚

博雅の三位

餓えた子犬

 増田陽樹ますだはるきは困惑していた。

 彼は警視庁捜査一課の刑事である。

 とある事件の捜査中、上司から証拠品の一つと一通の手紙を渡され、メモに書かれた住所に行ってこいと指示を受けたのだ。

 そして彼は今、指示された住所に来ている。

 そこは雑居ビルの一室であった。

 なぜ自分が使い走りのようなことをしなければならないのか、ここにいる人間と事件に何の関係があるのか、困惑と苛立ち、そして不安が胸中に広がる。

 それらを振り払うように、『御子神みこがみ』とだけ書かれた看板の掛けられている扉をノックした。

 しばらくの静寂があった後、返事もなく、いきなりその扉は開いた。

「誰?お前」

 黒のスーツに身を包まれた、190cmはあろうかという長身の男が、訝しげな眼で増田を見下ろしていた。

 増田が突然出現した男に面食らってると、長身の男は無遠慮にこちらを睨めつけ、

「誰だって聞いてんだよ。さっさと答えろ」と返答を催促してくる。

 増田は慌てて警察手帳を取り出し、自らの身元を明かす。

「自分は警視庁捜査一課の増田と申します。御子神悠さんはいらっしゃいますか?」

 男の目に僅かながら攻撃的な色が宿り、声の調子はさらに棘を増した。

「警察が悠に何の用だよ」

 男の硬化した態度に多少の疑念を抱きつつ、増田はここに来た目的を告げる。

「課長の吉沢から、手紙を預かっております。それをお届けに上がりました。」

「は?手紙・・・?」

 男は怪訝な表情をして、しばらく押し黙った。

 そしていきなり無表情となり、

「御子神悠はここにはいない。手紙を持ってさっさと・・・」

「僕がどうかした?羽笠うりゅう?」

 扉の奥にある別室の扉から、顔に幼さの残る男が首だけを覗かせ、そう言った。

「誰か来たの?」

 男の身体がちょうど死角になり、増田の存在に気づいていないようで、羽笠と呼ばれた男に問いかける。

「いや誰も」「御子神悠みこがみゆうさんでしょうか!?」

 羽笠の声を遮るように、大声で後ろの男に声をかける。

「来てるじゃん!」

 驚いたような声とともに、扉の奥でバタバタと物音が聞こえる。

 羽笠が扉に手をかけた瞬間に、まるで機先を制するように、

「羽笠!お客様をちゃんとご案内してよ!」という声が飛んでくる。

 羽笠は忌々しげに舌打ちをして、増田への敵意を隠そうともせず、ぶっきらぼうに彼を中に入れた。

「それで・・今日はどういったご用件でしょうか、増田さん」

 学生服を着た、高校生くらいの少年が居ずまいを正して、丁寧に尋ねる。

「これを御子神さんに渡してほしいと、課長の吉沢から」

 増田の渡したものは、一通の手紙と、小袋に入った何者かの頭髪であった。

 頭髪を目にした瞬間、愛想笑いが消え、悠の表情は真剣なものとなった。

「拝見します」

 悠は恭しく手紙と小袋を受け取り、手紙の内容を改める。

 僅かな沈黙の後、「少し席を外します」と言い残して奥の部屋へと入っていってしまった。

 羽笠と増田が部屋に残され、気まずい沈黙が場を支配する。 その沈黙を破ったのは羽笠だった。

「お前、あれが誰の髪なのか知ってるのか?」

 増田は答えようとしたが、直前で口を噤む。

 あの髪の毛の持ち主は、現在捜査中の事件に関係する人間であり、何者かもわからないこの男にその情報を明かすのは躊躇われた。

 増田が回答に窮していると、奥の扉が開き、悠が戻ってくる。

「話していただいて構いません。増田さん」

 そう口にした悠の右手には折り鶴がつままれていた。

「それは一体どういう・・・」

 疑問を呈そうとした増田に、手紙が手渡される。

「読んでみて下さい」

 悠に促されるまま、手紙を目を移すと、信じがたいことが記されいた。

 自分の捜査中の事件は人ならざる存在が引き起こした可能性が浮上していること。

 捜査中の事件が化生の類の犯行なのかどうか確かめて欲しいということ。

 もし、事件が人間の手に負えるものでないと判断できる場合には、事件解決を悠たちに依頼したいということ。

 それらの記述の筆跡は確かに課長のものであり、その手紙には、課長の他に、警視長直筆のサインまでしてあった。

 増田の頭が疑問に埋め尽くされていると、悠から再び声がかかる。

「増田さん、こちらをご覧ください。」

 増田の座るソファの前のテーブルに、折り鶴が置かれていた。

 その折り鶴自体に何らかの異常はなかったが、その折り鶴には証拠品の髪の毛が巻きつけられていた。

 増田が証拠品の扱いについて抗議しようとした瞬間、羽笠が肩に手を置いて、それを制する。

「黙って見てろ」

 悠はその様子を尻目に、右手の人差し指を唇に当てて何かを小声で唱える。さらにその人差し指を折り鶴の頭に乗せて、再び何かを唱える。

 悠が何かを唱え終わり、折り鶴の頭から指を離した時、異常は発現した。

 鶴はぶるぶると小刻みに痙攣し始め、その震えは徐々に大きくなっていった。

 そのうち、鶴の首と両翼の部分が異様な方向にねじれ始めた。 

 鶴の震えが頂点に達し、振動に耐えかねた鶴が横倒しになった瞬間、ぷちっという軽い音ともに、鶴の首と両翼は捩じ切られていた。

 嫌な沈黙がその場を包む。

 増田は「非科学的だ」とか「馬鹿げている」という抗議を飲み込んだ。

 それほど鶴が捩じ切られる光景は異様であり、同時に不気味であった。

「間違いありませんね」

 悠は携帯電話を取り出し、誰かに電話をかける。

「もしもし。御子神です。ええ、はい。ご無沙汰しております。金田警視長。件の事件、警視長殿の睨んだ通り、化生の類が絡んでおります」

 増田は現警視長の名前を聞き、驚きの目で悠を見る。

「はい。この事件、御子神家に解決のお力添えさせていただきたく存じます」

「はい。ありがとうございます。いえ、今後ともご贔屓に」

 その語り口には年齢に似合わない慣れと慇懃さがあり、高校生の発する言葉にしては、ひどく不自然なものに思えた。

「刑事さん、ですか?はい。増田さんという方がいらっしゃっています」

 悠が増田に携帯電話を差し出し、耳に当てるようジェスチャーで促してくる。

「君もこの会話が聞こえていたね?増田君。そういうことだ。奇妙に感じること多々あるだろうが、とにかく、そこの少年に手を貸してやりなさい」 その声を、増田は壇上からの声としてしか聞いたことは無かったが、確かにそれは、金田警視長本人の声であった。


「この話は警察のこれまでの調査と、川島本人の証言を総合したものです」

 増田はそう前置きをして、捜査中の事件について語り始めた。

 事件の発端はある夫婦のネグレクトから始まった。

 川島萌々香かわしまももかは、17歳の時、当時22歳の米田晴斗よねだはるととの第一子を身ごもった。

 本人は出産する気でいたが、川島の両親はこれを許さず、堕胎を迫った。

 川島は実家を飛び出し、米田の家に転がり込む。

 出産を経て、米田も初めは協力的な姿勢を見せていたが、次第に育児を放棄し、川島に暴力を振るうようになっていった。二人の関係は悪化し、川島は我が子を連れて、米田の家を去った。

 母方の祖母の家に身を寄せるが、祖母は『しつけ』と称して子供を虐待し、川島本人も世話代の名目で、給料のほとんどを吸い上げられる生活が続いた。

 結局、祖母との生活は半年で破綻し、川島は米田の元へ逃げ帰った。

 米田は『夫を第一に考えること』を条件に、川島を受け入れる。

 共に暮らしていくうちに、米田の虐待の矛先は子供に向くようになったが、川島はそれを黙認していた。

 第一子が四歳になった頃、川島は二人目の子供を身ごもった。

 二人目が生まれてから、米田と川島はだんだんと家を開けるようになる。

 それから三年が経ち、遂に川島と米田は旅行に行ってしまう。子供を残したまま。

 一か月後、二人が帰ってくると、子供の姿はどこにもなく、頭髪だけが残っていた。

 川島と米田は消えた子供を探すこともなく、その家でそのまま暮らし続けた。

 そして、ある晩、川島は恐ろしい夢を見た。

 深夜に、突然、玄関先から声がした。

「ここか、罪人が住むのは」「そうじゃ」「間違いない」

 いくつもの声が、盛んに会話をしている気配がする。

 何人もの男が、玄関の前でたむろしているようであった。

 近くで事件でもあったのかと、意識を覚醒させるが、どうしてか身体が動かない。

 意識ははっきりしているのに、首から下の感覚が、全く感じられないのである。

「しかし、引き立てようにも、我らではこの扉は開けられぬ」「その通りじゃ」「こまったこまった」

 盛んに発されるその声の主達は、少なく見積もっても10人以上いると思われ、全員が口々に何かを言い合っていた。

「このままでは、罪人を連れていけぬ」「裁が行われぬ」「どうにかせねば」

 声達の調子には明確に不安の色があった。

「そうじゃ!あきら殿じゃ!」

 唐突に発された名前、それは川島の一人目の子供の名前であった。

「おお、そうか」「そうであったな」「玲殿であれば」

 口々に発される声には、安堵の響きがある。

 これが夢だとは思っているが、外から聞こえてくる声や、突如出された玲の名前、川島にとってはただただ不気味であった。

 そこに何者かの足音がする。ゆっくりと、一歩一歩を踏みしめるように、されど静かに、着実にこちらに向かってくる音であった。

「おお、玲殿!」「玲殿じゃ!」「ついに!」

 喝采に似た、喜びの声が一斉に上がる。

「遅れて申し訳ありません。直ちに扉をお開けします」

 申し訳なさそうなその声を聞いて、川島の背筋が凍る。

 それは紛れもなく、玲の声であった。

 言葉遣いこそ慇懃だが、声色は幼児そのものであり、舌遣いにもまだ拙いものがある。

 その言葉と口調の不釣り合いが、恐ろしさを倍増させていた。

 おお、という感嘆の声と共に、がちゃりというドアノブが捻られる音がした。

 どすどすと何人もの人間が自分達の部屋に踏み入ってくる音がする。

 入ってくる人間達を見て、川島は叫びだしそうになった。

 押し入ってきた人間達の顔は犬のそれであった。擦り切れた布の切れ端のようなものだけを身にまとい、やせ細った四肢やその肉体を露出させている。

 顔だけが犬のもので、肉体は人間と変わらないその姿が、異様さを際立たせている。

 人間の身体の肉感と犬の顔、交わるはずのない感覚を同時に肌で感じ、川島が気が狂いそうな思いだった。

 犬の顔を持つ男達に続いて入ってきた人間を見て、川島は総毛立った。

 そこにいたのは、玲だった。毛髪の無い頭から大量の血を滴らせ、目玉があるはずの部分が黒く陥没し、片方の耳が欠落しており、唇が削り取られて、歯が前面に露出している、川島の息子だった。

 川島は堪らなくなった。もし肉体が動けば、すぐに身を翻し、夕飯を吐き出すほどの気分であった。

 男達はぞろぞろと、未だに起きる気配のない米田の周りを取り囲む。

「引き立てよ」という声が男達の中から上がる。

 すると、男達の一人が米田の口をこじ開け、口の中に腕を突っ込んだ。

 米田は仰天したように目を開くが、川島同様、身体が動かせないようで、首を左右に左右に動かし、呻き声を上げることしかできない。

 その抵抗も、「父よ、動くな」という玲の一言で完全に沈黙した。

 しばらくすると、米田の口から手が引き抜かれ、引き抜いた男の手には『米田』が握られていた。

 それは言うなれば、米田の魂とも形容できる存在であり、裸であること、半透明であることを除けば、米田本人と全く変わらないものだった。

 米田の魂は、あっという間に縛られ、どこかへと引きずられていった。

 その魂は物質を透過しており、実体は無いように思われたが、引きずられていく米田は地面との摩擦に苦しみ、血も流しているように見えた。

 しかし、その映像が現実世界に反映されることはなく、ただ苦しむ米田が遠ざかっていくだけであった。

 その光景を、川島は恐怖に麻痺した頭で呆然と眺めていた。

 米田を連れ去った男達は、そこにいた男達の半分ほどであり、まだ半分は米田の寝具の周りを取り囲んで虚空を見つめていた。

 しばらくはその状態が続き、川島は恐怖に苛まれながらも、現状をちゃんと認識できるようになりつつあった。

 川島の覚醒を待っていたかのように、玲は告げた。

 「母よ、次はお前だ」

 犬の顔が一斉に川島の方に向く。

 川島は絶叫した。

 その叫びもむなしく、川島も魂だけにされ、縛り上げられた。

 自分はどこに連れていかれるのか、どうしてこれだけの声を上げても何の騒ぎにもならないのか、これは玲の祟りなのか。

 川島の脳内を蹂躙する恐怖と疑問は、川島と共に闇に飲み込まれていった。

 目が覚めた時、川島は不意に肉体に何がが食い込むような痛みを感じた。

 それは石であった。河原にあるような様々な形の石が雑然と置かれ、石の大地がそこには広がっていた。

 川島は腕を後ろ手に縛られ、正座した状態で気絶させられていたのだった。

 周囲に広がった景色には、奇妙が散りばめられていた。

 まず川島は自分が柵の中にいることに気づいた。

 四方を竹で作ったような柵に囲まれている。

 柵の向こう側は、暗闇に包まれており、先の様子は全くうかがえない。

 暗闇からは、犬の吠えるような声がいくつも聞こえ、よくよく聞くと、何者かを非難するような罵声のようににも聞き取れた。

 柵の中心には自分と同じく縛られた米田が正座をした状態で、額を石の地面につけている。

 その前方には大きな屋敷のような建物があり、袴を着た、犬の顔を持つ男達が数人。屋敷の軒先のような場所に立ち、大声で何かを言い合っている。

 その光景は時代劇などで見る、江戸時代の裁判の様子によく似ていた。

 川島の意識の輪郭が明瞭なものに近づくと、前方の男達の声が耳に入るようになってきた。

「よって、この男に斟酌の余地はなく、極刑を望む所存」

 屋敷の中心に鎮座する男に、犬の男の一人が力強く言い放つ。

「この者の言葉に異を唱えんとするものはいるか」

 中心の男は、脇に座る他の男達にも意見を求めた。

「異議なし」「異議なし」「異議なし」

 脇の男達は口を揃えてそう言った。

 中心の男は、納得したかのように何度か頷き、右手の扇子を米田に向けた。

「詮議のほどを言い渡す」

 暗闇から聞こえる声が止み、場は水を打ったように静まり返る。

「罪人を斬刑に処す」 

 その言葉を聞いた瞬間、暗闇からは歓声が上がり、米田は蒼白になった顔を上げる。

「斬刑は罪人の倅、玲によって執り行われる」

 その言葉とともに、中心の男が扇子で足元をぴしゃりと打った。

 すると、屋敷や男達は暗闇に吸い込まれていき、玲が闇から姿を現した。

 白い鉢巻を着けて、袖の短い袴を纏い、腰には刀が差してある。

 幼い体躯でありながら、その姿や身体の運びは、妙に様になっていた。

 玲は暗闇に飲まれた、屋敷の在った方向に一礼をして、ゆっくりと米田に近づいてくる。

 米田は玲が目の前に来るまで、罵詈雑言や命乞いの限りを尽くしたが、玲はそれらが一切届いていないかのように、粛々と米田の側に立った。

 米田は必死に逃げようとするが、相変わらず首から下が動かない。

 挙句の果てには涙を流し、怨嗟の言葉を吐きながら、いやいやと嫌がる幼児のように首を振っていたが、玲の「父よ、首を差し出せ」という一言でそれも静まった。

 玲の抜刀や首を刎ねる動作には、美しさすらあった。

 米田は呻き声一つ漏らすことなく、その首を地面に転がされた。

 玲が自らの刀を腰に差し直した時、その首は不意に目を覚ました。

 首だけとなった米田が意識を取り戻したのである。

 米田は困惑の表情で、首の無くなった自分の身体を見ていた。

 そのうち、笑いを漏らし始め、これが夢であることや、自分は殺されないということを半狂乱になって叫んでいたが、その勝ち誇りは、大量の足音に止められた。

 何かがこちらに大挙して迫ってきているのである。

 闇から躍り出てきたのは、犬の顔を持つ男達であった。

 手を地面につけ、犬のように地面を這って、米田に向かってくる。

 彼らの四足の走りは異様に速く、瞬く間に米田の眼前まで来た。

 そして、彼らの先頭にいる男が、米田の首ではなく、首の無い米田の死体に飛びついた。

 すると、米田がぎゃっと情けない声を上げ、痛みを訴えた。

 事態を理解した米田の顔がたちまち青ざめる。

 そこには地獄があった。 米田の腕といい、腹といい、足といい、尻といい、臓腑といい、骨といい、米田を構成する全ての部位は、破壊され、奪われる。米田の目の前で。

 米田を喰らう男達は、次々と暗闇から現れ、既に食事中の男達に折り重なるように飛び込んで来た。

 川島は耳を塞ぎたくなるような米田の絶叫を聞きながら、自らの夫が食い散らかされていく様を見せつけられた。

 その光景は川島が目をつぶっても、瞼はその光景を隠してくれず、腕を縛られているため耳も塞げない。

 それは悪夢そのものだった。

 じきに米田は徹底的に喰らいつくされ、男達は嵐のように去って行った。

 玲がいつの間にか川島の近くに移動しており、こう耳打ちしてきた。

「母よ、お前の詮議は次の満月だ」

 川島は爆発する恐怖と共に、目を覚ました。

 失禁による自らの排泄物の感触で、現実世界へ戻れたことを実感する。

 徐々に意識は輪郭を取り戻し、精神が現実に追いついたと同時に、床に吐しゃ物をぶちまけた。

 何度も吐いて、胃液すら吐き切った時、ふと隣を見る。

 そこには苦悶の表情を浮かべ、目から血の涙を流して絶命している、米田の首があった。

 川島は、自分の吐しゃ物の上に倒れ、再び意識を失った。

 

「その後、川島が付近の交番に自首してきたことで、我々がこの事件の捜査に乗り出した次第です。」

 増田はできるだけ詳細に、事件の概要について話した。

 説明を聞き終えてからの悠は、首をやや下に傾け、右手の親指と人差し指を挟んだ体勢で何かを思案するように沈黙していた。

 増田が悠の意見を聞こうと口を開きかけた瞬間、それを妨げるように羽笠が尋ねてきた。

「その家に犬の死体はあったか?」

「はい。二匹ほど。」

「遺体に嚙まれたような傷はあったか?」

「傷、ですか」

 質問の意図を読めず、困惑混じりに、持参した資料をパラパラと捲る。

「あっ」

 増田が驚いたような声を出すと、増田の回答を待たずに「あったようだな」と羽笠が断定する。

「だ、そうだ。悠。」

 羽笠が声をかけると、悠は顔を上げて、再び増田を見た。

「米田さんの遺体を発見したのは、いつ頃でしょうか?」

「十日ほど前ですね」

「次の満月までは、あと三日というところだ」

 羽笠はカーテンの開いていない窓を一瞥して、そう告げる。

「本当に来るんでしょうか?」

「来ます」

 悠は確信をもって答えた。

「ああいった類がする宣言や予言には特別な意味があります。川島さんがどこにいるとしても、次の満月には、必ず本人の前に現れるでしょう」

「増田さん、協力してほしいことがあります。」

 悠の言ってきたことは、無理難題であった。いくら警視長の後ろ盾があるとはいえ、たった三日で実現できることとは到底思えなかった。 

 しかし、増田に断る気は毛頭無かった。 増田は、自分よりも年下の少年から、安心感を得ていた。

 突如として降りかかった非現実と奇妙に、不和を起こした平凡な感性は、容赦なしに不安という名の軋みを与えてきた。けれど、自分に相対する少年はそれを和らげてくれた。

 少年の瞳には誠実さがあり、口調には強さがあり、所作には慈しみがあった。

 この少年に、きっと自らの命すら預けていいと思うだろう。

 それが、悠との僅かな時間で得られた、増田の率直な感想である。

 増田は答えを知っていながら、敢えて質問した。

「そうすれば、誰も殺されずに済みますか?」

 悠は一瞬だけ目をかすかに見開いたが、わずかな笑みを口元に浮かべた。

「はい」

 その笑みには自信がみなぎっていた。しかし不敵なものではない。覚悟を決めた少年のする、意気込みの笑みであった。 

 

 夜である。

 空に浮かぶ満月が、地上を見下ろしている。

 月の目を塞ごうとする漂流物は、まるで無かった。

 満ち満ちた月の光が、境内を照らしている。

 増田は緊張した面持ちで、鳥居の先にある闇を見つめている。

 悠、羽笠、増田の三人は境内の中心に立っており、三人の隣には、目と口を塞がれ、両手両足も手錠で拘束された川島が、地面に転がされていた。

 意識は無いようで、身じろぎ一つしない。

 悠達の周りには三角形になる形で、前に一つ、後ろに二つの釘が打ち込まれていた。

 その三角の外に、一枚の布団が敷かれており、そこに大きな藁人形が寝かされている。

 悠と羽笠が事件現場を検めた後、急ごしらえで制作したものである。

 粗い作りであったが、人の型は保っていた。

 境内にはその四人と、藁人形の他には誰もいなかった。

 張り詰めた空気の中、鈴虫と夜風だけが、自らの存在を音で主張している。

「本当に川島を連れてくるだけで良かったんですか?」

 ふと、増田が問う。

「無駄口を叩くな」

 即座に羽笠がそれを咎めるが、悠が「羽笠?」となじるような声色でたしなめ、増田の質問に答える。

「大丈夫です。むしろ、仮にも拘留中の人間を、警備もつけずに、こんな所に引っ張り出して欲しい、なんてお願いを聞いていただき、感謝しています」

「大変でした」

 三角の中で待機している間、増田は、時々に悠と何気ない会話を交わすことで、自分の中から噴き出そうな恐怖を何とか押さえつけていた。

 それから、唐突にその瞬間はやってきた。

「来ます」

 悠の一言で、長い待機の間に生まれた、ささやかな弛緩は消し飛んだ。

 鳥居の向こう側、闇へと続く階段の方向から、何か音が聞こえてきた。

 それは雑踏の足音であり、何者かの話し声であり、草を踏み分ける音でもあった。

 正確な距離も、人数も、まるで把握できない。

 多くの気配が談笑しながら、石段を登ってきている。

 それ以外の何一つも判然としない。そんな不自然な気配が迫ってきていた。

 大量の気配と音は徐々に接近してきており、鳥居の正面に到達したとき、月光にその正体を明かされた。

 それは、まさに増田の話した通りの光景であった。 服とも言えないような、ぼろ布だけを身体に巻いた男達が、人間の身体を持ちながら、犬の顔をしている男達が、獣の口から、人間の言葉を吐き出す男達が、ぞろぞろと群を成して、歩み寄ってきたのである。

「声を上げさえしなければ、僕達の存在を気取られることはありません。」

 その悠の忠言を反芻して、怯えを軽減させるためか、増田は自然と、口と顎の筋肉を強く引き絞っていた。

「迎えに来たぞ」「こんなところにおったか」「連れてゆく」

 男達は口々にそう言って、悠達のいる三角の結界には目もくれず、あっという間に藁人形の周りを取り囲む。

 男達が藁人形の周りを完全に固めると、その中から声が上がった。

「人間の臭いがするぞ」「うむ。臭うな」「旨そうな香りが漂っておるなぁ」

 男達の誰もが、しきりに鼻を動かし、臭いの元を見つけようと、周囲の臭いを嗅ぐ。

「後ろから臭うぞ!」

 再び声が上がると、全員が一斉に首を捻り、結界の方向を凝視する。

 男達は、鼻をひくつかせながら、そろそろと結界の方向へ近づいてくる。

 増田は顔面蒼白となり、羽笠と悠の方を見るが、二人とも冷や汗一つ書いていない。

 増田は、大量の犬の顔がこちらに迫ってくるのを、ただ見ていることしかできなかった。

 男達は結界を取り囲むが、不思議と結界内部には侵入してこなかった。

 あたかも実際に壁があるかのように、虚空に顔の肉を押し付けて、内部を凝視するが、その焦点が悠達を捉えることはない。

「男の罪人の時にも人間の臭いはした」

「今日裁かれる罪人はここにいる。他の人間の臭いになど構うな」

「早くこの女を引き立てねば」

 潮が引くように男達は結界から離れ、わらわらと再度藁人形の前に集まっていく。

 眼前に迫る恐怖が遠ざかったことで、増田は思わず息を吐いてしまった。

「誰だ!!」

 全員が突風のように結界に迫り、張り付く。

 執拗なまでに、虚空に鼻を押し付け、臭いの元を辿り、音のした方向を探し当てようとする。

 増田は両手で自分の口を塞いで、悠達を見る。羽笠からは凄まじい目線を向けられていたが、悠は右手人差し指の側面を口に当て、「静かに」というジェスチャーを無言で見せてきた。

 増田は何度も頷き、指示を遵守しようと必死に努めた。

 眼前を這いまわる犬の顔の先から、また声が上がる。

「あれは誰かの吐いた息であった」「我々の誰かではないか?」

「お前か?」「違う」「ただの風ではないのか?」「何も聞こえなかったぞ」

 次々に男達は口を開いたが、後には不毛な議論を一喝する声が上がった。

「貴様ら、いい加減にせぬか!罪人以外の人間に構うなと言うておろう!裁きに遅れたいのか!?」

 男達の間に動揺が広がる。

「そうじゃ」「遅れるのはまずい」「我らが噛みつかれては堪らぬ」

 そそくさと藁人形を取り囲み、中の一人が藁人形の頭に手を突っ込んだ。

 ぞりぞりと藁同士の擦れる音が響くだけで、一向に魂は引っ張り出せない。

 その光景を見ていた周りの男達は、さらに焦り始める。

「早く魂を引き立てぬか」「裁きに遅れるぞ」

 周囲の人間が罵声混じりに催促するが、手を差し込んだ一人は、藁人形の中の手を必死に動かすことしかできない。

「何故だ。引き立てられぬ」

「ふざけるな」

「裁きに遅れて、懲罰を受けるのは我々だぞ」 

 男達が困惑し、右往左往している時、どこからともなく幼児の声がした。

「いかがなされました」

 玲が、落ち着いた調子で石段を登ってきた。

「玲殿!」

 歓喜や安堵の声がいくつも上がる。

 事情を説明するため、男達は我先にと玲に群がった。

 すると玲は一瞬だけ思案したような様子を見せて、告げる。

「魂を抜けない、というのであれば仕方がありません。幸い、ここは野外です。この場にて裁きを執り行いましょう。遅れるわけには参りませんので」

「おお!」「それは妙案」「流石は玲殿」

 男達が賛意を示すと、玲は裁きの準備を指示した。

 裁きの準備は迅速に行われた。

 藁人形はかつての米田と同じように、正座させられ、こうべを垂れる姿勢を取らされた。 腕と足も縛られており、男達は、自分達が巻いていた布を噛み千切り、縄として用いた。

 その作業が進むにつれて、周りの闇は膨張していき、藁人形の周囲の石畳を除く全ては、漆黒と化した。

 藁人形の拘束が終わると、闇が晴れていき、米田が裁かれた時と同じ光景が広がってきた。

 周囲の闇からは、罵声とも、犬の吠声とも思える音が響いてくる。

「それではこれより、罪人、川島萌々香の裁きを始める」

 正面の開けた屋敷に座する男が高らかに宣言した。

 川島の裁きは滞りなく進む。

 検察の役割をしていると思われる男が、川島が二人の子供をどのように殺害したのかを、身振りを交え、聴衆の川島への憎悪が増すように煽り立てながら、説明をしていく。

 川島を弁護する者は全くおらず、悪辣な説明の声と、周囲の闇から間断なく聞こえてくる、川島への糾弾ばかりがその場を支配していた。

「罪人を斬刑に処す」

 米田の時と全く同じ運びで、判決が下された。

 申し渡しの声と共に玲が現れ、周囲が闇に飲まれていく。

「母よ、そのまま動くな」

 玲はそう声をかけ、藁人形に歩み寄っていく。

 流麗な動きで藁人形の首をで刎ね、地面に転がす。

 納刀の音を合図に、闇から犬の顔をした男達が駆けてきた。

 彼らは瞬く間に藁人形に飛びつき、ばりばりと音を立てながら、大量の男達が藁を食い散らかしていく。

 異変は、彼らの食事中に起きた。

 男達が藁を食う動きを止め、痙攣しだしたのである。

 それは藁人形に近い者から起こり始め、闇から飛び出したばかりの者にまで広がった。

 痙攣に続くように、苦しそうに呻きながら、全身をかきむしり、泡を吹くようになり、後にはその場に倒れ伏し、動かなくなった。

 周囲からも呻き声が漏れ始める。

 玲が慌てた様子で闇から飛び出し、藁人形に駆け寄る。

「どうした!」

 折り重なる男達の身体を乱暴に払いのけ、藁人形を引きずり出す。

 玲の小さな手には、全身をズタズタに噛み裂かれた、藁の塊が握られていた。

「これは・・藁ではないか!」

 玲の怒気を孕んだ声に呼応するように、周囲の呻き声に怨嗟の言が混じり始めた。

「馬鹿な」「我々は藁を喰わされたのか」「おのれ」

 震えた声を張り上げ、周囲は玲を非難する。「この糞餓鬼が」「どうして藁などを持ってきた」「どういう了見じゃ」

 玲は動揺した様子で、ぶつぶつと自分の思考を口から垂れ流す。

「おかしい・・・確かに母の臭いはする。姿も確かに母のものだった」

「ふざけるな」「貴様の目には藁が母親に映るのか」「なんとかせよ」

 どさり、どさり、あちこちで人間が地面に倒れる音がする中、玲への非難は激しさを増す一方であった。

 玲は藁人形のあった場所の近くにあった男達にふらふらとした足取りで近づき、その腹を刀で割き始めた。

 内臓を引きずりだし、血まみれになりながら、男達の胃を検める。

「狂うたか玲」「気狂いの子も気狂いか」「苦しい、苦しい」

 犬の顔をした男達の死山血河の中で、幼い少年が死体の腹を引き裂いてまわり、周囲からは呻き声、少年への恨み節、地面に肉体が放り出される音の混声合唱が響き渡る。

 悪夢のような光景に増田が吐き気を催していると、玲があることに気づいた。

「なんだこれは」

 それは、黒い髪の束であった。

 玲は鼻を近づけ、髪の臭いを嗅ぐ。

 何かに気づいたように目を見開き、凄まじい怒号を上げた。

「どこだ!!」

「母よ!どこにいる!」

 その声は空気を揺るがすような勢いで、とても幼い少年の肉体から発せられるようには聞こえないほど強く、迫力のある声であった。

「藁の人形に混ぜ物をするなど下らぬ小細工を弄しおって」

「貴様一人の企みではないな!誰の入れ知恵だ!」

 言葉を重ねる度に、その声色と口調はしわがれた老人のようなものに変わっていく。

「藁を食うたとて、かようなことにはならん!他に何を混ぜた!」

 そこまで言って、玲にも異常が見え始めた。

 肉体が崩れ始めたのである。

 刀を握っていた手は、握ったままの状態で腕から分離し、地に落ちた。

 かがむために折り曲げていた足は液状化し、流れていき、骨が露出し始める。

 悲惨な様子であった顔は、もはや顔の様相を呈していないほど崩れていた。

 玲の崩れ始めた内部から、何かが飛び出し、それを機に玲の肉体は完全に崩れ去った。

 飛び出してきたのは一匹の犬であった。

 牙が異常に発達し、爪も足元に突き刺さるほど伸びている。その眼には異様な険しさがあり、野生の獣よりも、恐ろしい人間のするような眼、という印象を与えるものだった。

 苦しそうに吐く息からは、時折、炎のようなものが見え隠れする。

「混ぜたのは玉ねぎです」

 悠が突然立ち上がり、羽笠もそれに続く。

「誰だ」

 絞り出すような声で、玲であった犬が問う。

「御子神の陰陽師だよ。お前を殺しに来た」

 羽笠がニヤリと不敵な笑みを浮かべて答える。

「御子神だと!?」「あの御子神か!」

 周囲に動揺と恐れの色が見え始める。

「あの女・・わが身可愛さで陰陽師なぞに尻尾を振ったか」

 犬が苦しげに、侮蔑を含んだ笑みを見せる。

「この間抜けが。どうして付け入る隙を与えた」

「お前のような馬鹿を信じた我らが愚かであったわ」

「かような場所で、我らは果てるのか」 

 周囲の声は次第にその数を減らしていき、ばたり、ばたりといくつかの音を後に、何も聞こえなくなった。

「しかし、あの女は近くにいるはずだ。替え玉を用意したところで、別の場所に同じ臭いがあれば、気づいていたはず」

「今から死ぬお前には、何の関係も無いことだ」

 羽笠は服の中に隠してあった刀を取り出し、鞘から刃を引き抜いて、悠と共に、犬に近づく。

「お母さん・・助けて」

 それは幼い子供の声だった。

 苦しさに喘ぎながら、助けを求める、子供の声であった。

「お腹が空いたよ・・お母さん」

「どこにいるの・・?助けて・・」

 二人の幼子の声が、次々と眼前の犬の口から放たれる。

「羽笠、早く終わらせよう」

 悠は悲しげな顔をして、羽笠を急かす。

 羽笠が「ああ」と返事をして、刀を振り上げた瞬間、後ろから声がした。

 その声は、口を塞がれているようで、言葉を成してはいなかった。

 しかし、その絞りだされるような声には、深い悲しみと罪悪感が感じられた。

「そこか!」

 喜悦の混じった恐ろしい声が上がった瞬間、犬の首が落とされる。

 しかしその首は地に着くことなく、拘束されている後方の川島の元へ一直線に飛んで行った。

 驚異的な速度で川島の喉笛に噛みつこうとしたその瞬間、悠の右手から伸びる閃光が、犬の首を後ろから突き刺した。

 銀の刃が犬の口から生え、先端が地面に刺さるように突き立っていた。

 悠が振り向きざまに、犬に向けて小刀を投げつけたのである。

「糞・・・」

 犬の発音は、刃が喉から貫通しているせいで、ひどく不自然なものになっていた。

「お前達は、子を餓死させた女を守って、腹を空かせた俺達を殺すのか・・」

 その言葉を後に、犬は完全に沈黙した。

 闇が晴れていき、泡を吹いて絶命している大量の野良犬が、月光に晒された。

「こいつが野良犬を先導してたのか」

 犬に突き立った刃を引き抜きながら羽笠が言う。

「恐らくね」

 悠が増田の方に歩を進めながら答える。

「もう大丈夫です。妖は祓われました」

 悠は増田に笑いかける。

 増田の胸中に、苦い感情が広がる。

 悠の笑顔は、あまりに悲しいものだった。

 まだ幼さの残る少年が、世の矛盾を受け止め、あまつさえ感情を抑えて笑いかけてくる。

 大人を安心させるために。

 自分達はこんな子供に汚れ仕事を押し付けてしまったのか。

 無力感や罪悪感に苛まれた増田はほぞを噛んだ。

「この犬達の死体はこちらで処理しても構いませんか?」

「死体ですか」

「はい。この死体はあの犬と結託していた野良犬達のものです。まだ死体自体にも力が残っており、誰かの手に渡れば、呪物として再利用される可能性があります」

 増田自身もあの光景を見た後に、この死体を自分達で処理する気にはなれない。

 信頼のおける他人が始末してくれるなら、渡りに船である。

 何より、一刻も早くこの死体について考えるのをやめたかった。

「わかりました。お願いします」

 増田が承諾した瞬間、パチンと羽笠が指を鳴らした。

 バサバサという羽音と共に頭上の月光が何かに遮られる。

 それは鴉の大群であった。

 鳥居や神社のあちこちに降り立ち、全ての鴉が羽笠に視線を注いだ。

「食え」

 羽笠のその一言で、鴉達は犬の死体に飛びかかった。

 盛んに鳴き声を発しながら、あっという間に犬達の死体を平らげ、夜の闇に消え去った。

 月光の降りしきる静かな夜が戻ってくる。

 そこに微かな音が響きわたった。

 それは、川島のすすり泣く声だった。

 一連の事件に決着がつき、その報告に遣わされた増田は、悠から説明を受けていた。

「現場を確認した時、犬同士が激しく争った痕跡と、そこに残った微かな呪力が見つけました」

「それが『蟲毒こどく』という呪いの儀式の痕跡である、と?」

「はい。蟲毒は飢えた生物同士の生き残ろうとする意思を後の一匹に集約させ、式神として使うものです。それは虫でなくとも、別々の生物同士の争いでも起こります」

「けれど、あの犬はひとりでに動いていましたよね?」

「ええ。ですから、あの犬は式神となることもなく、その力だけを身体に宿していました」

「だから自由に動けた」

「ということですね」

 羽笠が盆にコーヒーの入ったカップを乗せて近づいてくる。

「悠」

「うん、ありがとう」

 悠はにこやかにカップを受け取る。

「ありがとうございます」

 増田が羽笠に礼を言うと、羽笠は不思議そうな顔をして、もう一つのカップのコーヒーを飲み干す。

「なんでわざわざお前に注いでやらなくちゃいけない?」

「こら!羽笠!」

 悠が羽笠を𠮟りつけるが、羽笠はどこ吹く風という顔でそそくさと別の部屋に行ってしまった。

「すみません、増田さん。今淹れますね」

 そう言って悠が立ち上がろうとする。

「いえいえ、今日は解決の報告に上がっただけですので。お気遣いなく」

 それから増田は、手早く事件の報告を終わらせて、ソファから腰を上げる。

「それでは、自分はこれで」

「はい。この度はご協力感謝します」

 悠は慇懃に頭を下げる。

 増田が退室しようと玄関のドアノブに手をかけた瞬間、とある疑問が浮かぶ。

「あの犬は子供達の復讐をするために、わざわざ戻ってきたのか・・?」

 疑問を頭に浮かべたつもりが、思わず口に出ていた。

「わかりません」

 悠が困ったような笑顔で答える。

「蟲毒は生き残ろうとする意志の強さが無ければ成立しません。生き残った犬には、子供達に対する明確な殺意はあったと思います」

「じゃああの犬は自分のために・・」

 増田が結論を出そうとすると、悠が遮った。

「しかし」

「しかし・・・?」

「生き延びるためなら躊躇いなく殺せる相手であっても、同情はあったのかもしれません」

 

 悠は窓から外を見上げていた。

 空には半分に欠けた月が浮かんでいる。

「戻ったぞ。悠」

 玄関先から、羽笠の声がする。

 悠の返事はない。

「悠?いないのか?」

 羽笠が買い物袋を提げて、部屋に入ってくる。

「悠、いるなら返事をしろ」

 羽笠の声が聞こえていないかのように、悠は欠けた月を静かに見つめている。

「ねぇ、羽笠。僕達、正しいことができたかな」

 だしぬけに、悠はそんなことを聞いてきた。

 羽笠はため息をついて、悠の頭を優しく撫でながら言う。

「お前は立派に役目を果たしたよ」

 どこかから、テレビの音声が聞こえてくる。

 裁判を控えた、とある被疑者の死亡が報じられている。

 一晩中、壁に頭を打ち付け、脳から大量の出血をして、息絶えたという。

 被疑者は自らの血で、「ごめんなさい」と壁に書き残していたらしい。

 

 

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妖奇譚 博雅の三位 @hahutatu

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