カッコウの子供
博雅の三位
カッコウの子供
「
そこには、自分のお腹を慈しむように撫でる母親に、嬉しそうに微笑んで、側に寄り添う父親という、祝福と幸福が約束されたような光景があった。
幸せな笑みを湛えながら、父親と我が子の名前を相談する母親を見て、私はこの女を、何としてでも殺さなくてはならないと、どうしようもなく確信した。
母親は私に、全く興味を持っていなかった。
幼いながらに、母親への想いを綴った手紙や絵なんかを、遠く離れた彼女の勤務地まで、郵送の方法を勉強してまで送ったものだが、その返事が返ってきたことは一度も無かった。
授業参観や、友達の家に遊びに行った時、そんな母親の不在を自覚させられる時に、強い寂しさに襲われた私は、父に抗議したり、一方的に母を恨めしく思ったりもした。
けれど、ごく稀に家に帰ってきては、一瞥もくれずに私の元から去っていく彼女の後ろ姿を見て、「ああ、この人は、母親という称号が与えられているだけの他人なんだな」と、静かに納得した。
そうして私は、小さな失望と引き換えに、母への無関心を手に入れることができた。
母から見捨てられていた私は、それでも健やかに育った。
父親の存在があったからだ。
父は立派な人だった。仕事以外のほぼ全ての時間を費やしてまで、私を愛してくれた。
私が学校での出来事を話す時、嬉しそうに相槌を打ちながら、いつも最後まで聞いてくれた。
自分の存在を笑顔で認めてくれる人がいる、その事実が何よりも嬉しかった私は、少しでも多く父と会話を交わすために、既に解決方法を知っているような問題をいくつも相談したりした。
幸いなことに頭が良く、容姿も整っていた私は、学校生活で困るようなことはほとんど無かった。
それどころか、部活動や学業でそれなりの成績を修め、生徒会の役員を務めたりもした。
学園生活に大した執着はしていなかったが、その報告をするたびに、父が驚いたり、褒めてくれたり、無理はしてないかと心配してくれるのは嬉しかった。
母親の存在をすっかり忘れ、学生の本分を全うしていたある日、私は再び母と邂逅した。
その日の部活動を終え、父に晩御飯を作ってあげようと足早に帰宅した私は、玄関の土間に、見覚えのない靴を二組見つけた。
片方は母親のもので、もう片方は父が新しく買ったのだろうか?
適当な憶測を浮かべながら、手洗いとうがいを済ませ、結んでいた髪をほどいていると、上から甲高い声が聞こえた。
私はその時、自分の勘の良さにうんざりした。
さっき見かけた、もう片方の靴は、父親の趣味から些かズレたものだった。
その靴は、自分に自信のある、外交的で、他人からよく見られるツボを理解していそうな、軽妙洒脱な印象を与える人間が履いていそうだと、頭の隅で分析していた靴だった。
父のイメージとは対極的な靴に、微かな不快感を覚えたので、「こんな靴似合わないよ」と父を諌めようと思っていた矢先に、あの声が聞こえてきてしまった。
自分の不安が、的外れの杞憂に終わるように祈りながら、階段をゆっくりと登っていく。
一段一段、次の段に足をかける度に、甲高い声の正体がはっきりしてくる。
二階へ登りきる二段前、不意に確信した。
これは嬌声だと。
女が男に、浅ましく媚びる時に出す声だ。
それを理解すると、静かな怒りと激しい嫌悪が湧き出てきた。
何故そんなことを家でしているのか、一体何を考えているのか、どうして父を裏切るような真似ができるのか。
摩耗していた憎悪が再び目を覚まし、私の心を強く冷やしていった。
遠慮なしに耳に飛び込んでくる不愉快な声に、心を軋ませながら、声の発生源への扉を開ける。
そこには、男にまたがって、快感から逃げるように首を反らし、吐息の混じった声を吐き出す獣が、浅ましく腰を上下させ、淫蕩に耽る母親がいた。
「何をしているんですか?」
自分でも驚くほどに冷たい声が出た。
声に気が付いた母親は、やわらに腰を落とし、少しだけ身体を震えさせ、繋がったまま、こちらを振り返った。
「ああ、おかえり」
そう言って、状況に一切の負い目が無いかのように、にやりと唇を歪めた。
「
またがられている男は仰向けの姿勢で両腕を頭に載せたまま、こちらも余裕のある口調で女に訊ねた。
「私の娘。真琴って言うの」
「良い名前じゃないか」
男は軽薄そうに薄ら笑いを浮かべる。
「あなたに娘呼ばわりされる覚えはありません」
浮気現場に乗り込まれたというのに、一切の動揺を見せない目の前の男女を、真琴は心底理解ができなかった。
「で、何か用?」
熱の全くない声色で、母が問いかけてくる。
「質問しているのは私です」
「は?セックスに決まってるでしょ?見てわからない?」
「真琴ちゃんにはまだ早かったかな?」
クスクスと、暗がりの男女は嘲りの笑いを共有する。
「一体なぜ、父さん以外の男性と、私達の家で、不貞行為に及んでいるのか、と聞いているんですよ」
真琴は発言を区切るように話す。
自分の内から湧き出てくる不快感を抑えつけながら、努めて冷静になろうとした故の口調だった。
「したいからに決まってるでしょ」
平然と腰を上げ、下品な声を喉から漏らしながら、男の物を抜く。
「父さんに申し訳ないとは思わないのですか?」
ニヤニヤと下品な笑みを浮かべるだけで、清美は真琴の質問には答えなかった。
真琴は突如、母親の腹部をめがけて右足を打ち出した。
心よりも身体が先に動いていた。
それを清美は、左の膝で受け止める。
ひゅう、と男が口笛を鳴らした。
「流石、清美の娘ちゃんだ」
異常を体現する男女、自分や父への裏切り、本能的な防衛すらも簡単に受け止められたという事実。
真琴が生きてきた世界とは、余りにも無縁なこの状況は、真琴にとってはたまらなく不愉快で、理性という瓶にヒビを入れるには十分なほど苦痛だった。
「……いけ」
真琴の口から小さく声が漏れた。
「ん?どうしたんだい?」
男が嫌味ったらしく、紳士ぶって訊ねた瞬間、真琴は叫んだ。
「出ていけ!今!すぐに!」
涙を流しながら、ただ二人を睨みつける。
胸中に様々な感情が入り乱れる今、真琴にできる精一杯だった。
「行きましょ」
あっさりと、清美は言った。
「いいのか?」
「いいわよ。どうでも」
手際よく自分の服を着て、立ち上がる。
「気分も冷めちゃったしね」
ため息交じりに部屋を出ていく。
男もいそいそと身支度を済ませ、薄ら笑いを貼り付けた顔で、「真琴ちゃん、またね」と声をかけて部屋を出た。
真琴が立ち尽くしていると、下で鍵の開いた音と、二人が出ていく音が聞こえた。
訪れた静寂に、かき乱された自分の心を落ち着けてもらう。
それから真琴は、堰を切ったように、大声を上げて泣いた。
部屋には、使用済みのコンドームが散乱したままだった。
「離婚してください」
夕方、人気の少ないファミレス。
学校帰りに母親と落ち合った、真琴の第一声はそれだった。
「あなた、見た目こそ私に似てるけど、頭は父親譲りね」
「は?」
「相手の利益も考えずに、直情的に行動する」
「あの間抜けの教育の賜物ね」
清美は心底迷惑そうな表情を、自分の娘に遠慮なく向ける。
「どうして私が子供のお願いに耳を貸す必要があるのかしら?」
「それは……!」
言葉を切って、真琴は深呼吸をした。
そうやって全身から吹き出す嫌悪感を抑えないと、前回のように、感情だけが先行して、何も言えなくなると分かっていたからである。
「あなたが私の母親で、私が父さんの娘だからですよ」
くっくっく、と声を抑えて清美が嘲笑する。
「あなたは本当に馬鹿。笑えるほど」
「親の責任でも説くつもり?私がそんなものを気にする人間じゃないって、まだ解らない?」
真琴は鞄から、半ば放り投げるような形で数枚の写真を机に出した。
それは、清美と別の男が浮気をしている現場を捉えた写真だった。
そして、ボイスレコーダーを机に叩きつける。
「馬鹿はあなたでしょ」
「本当に私が何の用意もなくここに来たと思っているんですか?」
「あなたが自発的に父から離れるつもりが無いのなら、私が縁を切らせます」
感情を限界まで抑え、淡々と、厳然と言い放つ。
清美はそれに一切揺らぐこともなく、冷酷な視線を真琴へ真っ直ぐに向ける。
そして、にたぁと不気味に口を歪ませ、言った。
「それは困るわ。だって離婚したら、あなた、あいつとは他人になっちゃうじゃない」
「は……?」
真琴には全く意味が分からなかった。
「そうなったら、誰があなたを育てるの?」
「何を……言ってる……?」
その言葉をどれだけ反芻しても、清美の言っていることが全く理解できない。
「あなたはあの人との思い出なんだから、あいつに養ってもらってないと駄目でしょう?」
「あの人……?」
清美は愉快そうに真琴の表情を観察している。
「だからぁ、あなたとあいつの血は繋がってないんだから、離婚したら、あなたは孤児になっちゃうでしょって言ってるの」
「血が……繋がって……ない……?」
できるだけ苦しみが引き出せるように、残酷な事実で、丁寧に実の娘を嬲る。
親の言葉を懸命に理解しようとする子供の姿を、清美は嗜虐的に愉しんでいた。
「う……そだ……」
喉が萎縮して、上手く発声ができない。
事実を理解しようとする理性が、理解を拒否しようとする自我に引き留められる。
心を引き裂かれた真琴は、飛びそうになる自分の意識を保とうと必死だった。
「あなたは私と別の男との間に生まれた娘よ。血も繋がってない赤の他人を、あんたは父親って呼んでたのよ」
そう言い切った瞬間、清美から笑いが漏れる。
父親との断絶に直面している眼前の娘が、可笑しくて可笑しくてたまらない。
そんな風に、清美は声を殺して笑っていた。
真琴の指先が震える。身体のあらゆる末梢が、信じられないほど冷たく感じられた。
「じゃあ……どうして、父さんと結婚したの……?」
そんなことを何故問うのか、真琴自身にも不思議だった。
ひび割れた心は、真琴にも分からない部分に誘導されて、口を動かしていた。
「思い出を愛でるためよ」
ふと、清美の目が遠くなる。
「思い出……?」
「あなた自身には全く興味が無いけれど、あなたはあの人との子供。時々帰って来て、あなたに彼の面影を見るの」
「あの人と会うことはもう無いけれど、それでも私には素敵な思い出。だから、手元に残しておきたかった。」
「幸せに育つあなたを見て、ああ、あの人と子供を育てていたら、こんな人生があったのなぁって思いを馳せたりするのよ」
心の底から愛した人を思い出している、清美の語り口には、そんな情緒に溢れていた。
そしてそれは、真琴にも、真琴の父親にも、一度も向けられたことがない感情だった。
「でもね、飽きちゃった」
寂しそうに、清美は微笑んで。
「あの人はもういないし、いつまでも過去を美化してもいられないでしょう?」
「だから、新しく素敵な人を見つけて、その人との時間を大切にしようって思ったの」
爽やかに、自分の将来を語った。
「じゃあ、突然帰ってきたのは……」
「ええ。彼との時間を大事にしたくて。あっちだと何かと面倒だけど、こっちの家はあいつがいない時間は不自由なく使えるでしょ?」
楽しそうに、嬉しそうに、愛しい人との幸せな生活を話す清美を見て、真琴は思った。
目の前にいるのは、人間じゃない。理解不能の化物だと。
真琴は頭ではなく、心でそれを理解した。
「ふざ……けるな……」
それまでの真琴は、怯えていた。
父親との繋がりの喪失と、目の前の怪物に。
突如として自分を襲った耐え難い現実に、立っているのかすら分からなくなるほど、心は千々に乱れ、怯えた。
けれど、父親のことを考えた時、不意に心の嵐は止んだ。
自分が怯えていてどうするのか、自分がするべきことは、父親を守ってやることではないのか。
この女を打倒して、あの幸せな生活を取り戻す。
そのためなら、自分の怯えなど、怒りと憎悪の炎で全て焼き尽くしてやる。
真琴の中に青い炎が宿った。
これまでの激しく燃え盛る赤い炎とは違う。
青い炎は赤い炎より静かに、より熱い温度で燃えるのだ。
「これ以上、お前の身勝手な楽しみに私達を巻き込ませない」
「何があっても、お前を私達の家から追い出してやる」
覚悟を決めた瞳が、清美を射貫いた。
「やっぱり、あんたは私の血を継いでるね」
「あの腑抜けよりも、よっぽど歯ごたえがある」
清美は不敵に唇の先を吊り上げる。
真琴が荷物をまとめて、立ち上がろうとした瞬間、清美は言った。
「でも、やっぱり馬鹿ね」
「私が何の計算も無く、こんなことをあんたにベラベラ喋るとでも思ってんの?」
「あんたの父親は、私から離れられない」
そこまで言うと、真琴は身体は強張らせた。
「そんなことは、ない」
真琴はやや間を置いて、反駁する。
「いや、ある」
間髪入れずに清美は断言した。
「私はあいつが私に依存するように、綿密に手を回してきた」
「あいつの金と馬鹿さ加減は、私の人生を豊かにしてくれるからね」
「あんたが浮気を告発したところで、父親を傷つけることになるだけ」
清美は畳みかけながら、机を回り込むようにして、向かい合う形で座っていた真琴との距離を詰めてきた。
「あんたもそれに気づいてたから、わざわざ私を呼び出して『お願い』、しに来たんでしょ?」
「違う!」
真琴は店内に響き渡るほどの大声で否定する。
しかし、それが憎しみを支えにした虚勢であることが、清美には手に取るようにわかった。
「じゃあなんであの時、部屋を掃除して、私がいたことを隠したの?」
「昔のように、何も考えずに親に頼れば良かったじゃない」
「お利口に、父親を気遣ったんでしょ?」
清美は真琴にギリギリまで近づいて、その瞳を覗き込む。
それは、自身の圧倒的優位をいいことに、相手の傷口に無力感という傷を入念に塗りこむ行為だった。
発する言葉の一つ一つで、行われる仕草一つ一つで、娘の心を凌辱し、苛む。
清美はこの時、この世に存在するどんな母親よりも邪悪だった。
「私と同じように、あいつの弱さを知っていたから、ここに来た」
真琴の両眼から雫が伝う。奥歯を嚙み砕きそうになるほど、握りこんだ拳から血が出そうなほどに全身に力が入る。
臓腑を引き裂かれる方が、まだマシと思えるくらいに、悔しかった。
清美の言葉をどこかで認めてしまっている自分や、何もできない自分が、恨めしくてたまらなかった。
馬鹿正直に、父にこいつの本性を吐露できたなら、どれだけ楽だっただろうか。
あの日、あのまま何もせずに父の帰りを待っていたなら、私はどれだけの悲しみを負わずに済んだのだろうか。
「本当に父親の幸せを願うのなら、あんたはこれからも、何も知らない純粋な娘を演じ続けていればいいのよ」
「私も、これからもずっと、あなた達から搾り続けるって約束してあげるわ」
清美は真琴の頭に手を置き、撫でた。
その手つきは、撫でる側を満たすためだけの、撫でられる人間のことを全く考えていない粗雑なものだった。
清美の顔が、凄みを帯びたものから、ふと柔和な顔つきになる。
「もし私に娘がいたら、こんな親子喧嘩をして、娘の成長を実感したのかしらね」
耳元でそう囁き、伝票を持って、娘の視界から消えていった。
真琴は膝をつき、言葉にならない絶叫をあげた。
ふらふらと頼りない足取りで、帰路に着いた。
そして、泣いた。泣いて、泣いて、体中の水分が出尽くししてしまうかと思えるほど、泣いた。
力尽きて廊下で寝てしまっていた私は、父親の揺さぶりで目を覚ました。
「おい!真琴!真琴!大丈夫か!」
「お父さん……」
弱々しい力で、抱きつく。
「どこか悪いのか!?救急車を」
「いい……大丈夫」
「そんな訳ないだろ!倒れてたんだぞ!」
「いいの!」
声を張り上げ、父を止める。
「お願い。今はこのままにさせて……?」
父に対して、こんな傍若無人になったのは何時ぶりだろう?
若干の罪悪感もあったが、今、父から離されると、自分の存在もどこかへ連れていかれていくような気がして、それに構えるほどの余裕すら無かった。
どれくらいの時間が経っただろうか?
あれからずっと、父は何も言わずに私を撫でてくれた。
やっぱりあの女とは全然違う、それを実感して安心する。
ふと、父に尋ねた。
「どうしてお母さんと結婚したの?」
父は虚を突かれたような表情になったが、「そうだなぁ……」と私の頭を撫でながら、答えを探し始めた。
「あの人はずっと、お父さんをほったらかしにしたままなんだよ?」
父はやや眉を下げ、困ったように笑った。
「お母さんは、困っている人を放っておけない人でなぁ。いつも自分を後回しにして、誰かを助けようとするんだ。」
「お父さんも昔、お母さんに助けられた一人だ」
父の誤解に、擦り切れた心がさらに締め上げられる。
「お母さんはお前を産んだ後も、苦しんでいる人々を、どうしても見過ごせなかった」
「そんなの、私達を放っておく理由にはならないよ」
意図せず、吐き捨てるような口調になる。
「そうだな」
「でも、お母さんは今でもお前のことを想ってくれているよ」
「それだけは覚えていてくれないか」
「うん」
分かり切っていたはずの父の言葉に、落胆しながら、頷いた。
何もできないまま、半年が経過した。
現状を打開する妙案が思い浮かぶこともなく、漠然とした不安と焦燥感に、心がささくれ立つような毎日が続いた。
あれから、清美は数回だけ家を訪れた。
清美の来る日には、適当な理由をつけて外泊をしていた。
父だけを家に残す不安もあったが、自分の無力を突きつけられているようで、家にいたくなかった。
私は、この時、自分を省みず、父の傍にいてやるべきだったろうか?
あの光景を思い出すたびに、そう思わずにはいられない。
その日は珍しく父が先に帰ってきていた。
その隣には清美の靴があり、(ああ、またか)と苦虫を嚙み潰す思いで靴を脱いでいると、どたどたとリビングから足音が近づいてきた。
父が浮足立つような調子で、私の元へ来た。
「真琴、すぐにリビングに来てくれ」
何か良いことがあったのかなと、リビングへの扉に手をかけた瞬間、心に暗雲が立ち込めるような気分になった。
嫌な予感に限って当たる。
そこには、腹を膨らませた清美がいた。
父が何事かを真琴に言っている。
子供を作るきっかけだとか、姉になる私への期待だとか、母親が家族を想っていることだとか。
父の言葉は一つも頭に入ってこず、体の震えを抑えて、笑顔を取り繕うことしかできなかった。
「真琴、あなた、お姉ちゃんになるのよ」
満面の笑みで、清美は告げた。
酸素を奪われ、消えかけていた炎に、大量の空気が再び送り込まれたことを実感していた。
妙案が無いというのは嘘だ。
本当は『それ』以外の打開策を見つけられず、それを実行することへの恐怖が決断を妨げていただけだ。
でも、もう身体の震えは止まった。止まってしまった。
涙もきっと流れない。
だから、心にもない笑顔で言える。
「おめでとう。お父さん、お母さん」
深夜、私は目を覚ました。
久しぶりに熟睡できた気がする。
クローゼットを開け、予めリュックサックに詰めた『道具』を見下ろす。
拾い上げ、自室を出た。
足音を立てないように、階段を登る。
上の段に足をかける感覚が、その時が着実に近づいていることを否応なく報せに来る。
父から高校受験の時に貰ったお守りを、ポケットの中で握りしめる。
人生で初めて神様に祈った。
私がこれをやり遂げられるように。
父が幸せな未来を見られるように。
部屋に着いた。
あの日、この扉を開けなければ、私達の幸せな生活は壊れなかったのだろうか?
かぶりを振って前を見る。
これまで私は、何度もわが身可愛さに逃げてきた。
一度でも勇気を出していれば、こんなことにはきっとなっていなかった。
これは、私への『罰』でもあるんだ。
扉を開け、寝ている女の側に立つ。
リュックから、道具を取り出し、準備をする。
今晩、この家は、強盗に襲われる。
犯人の物色中、不幸にも目を覚ました母親は、犯人に襲われてしまう。
そういう筋書き。
私は女の顔を正面にして膝を着き、祈るように白刃を胸の前で握った。
女は相変わらず静かに寝息を立てている。
あなたの言う通りだった。
確かに私は、あなたの血を引いている。
あなたも私も、人から奪うことしかできない。
あなたは私とお父さんから奪った。
だから、私も……
真琴は白刃を掲げ、母親の顔を目がけて、それを振り下ろした。
カッコウの子供 博雅の三位 @hahutatu
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