Ⅲ.雪丸 ⑪
「えぇ? 雪丸さん、足を怪我したんですか?」
世間はお盆休み真っ只中の、八月十五日の昼過ぎ。俺と夏目さんはホワイトノーツの事務所内で、松葉杖を突いている深雪さんを出迎えていた。驚いているようだな。そりゃあそうだろう。夏目さんからすれば僅か四日前に水泳対決をした相手が、いきなり松葉杖生活に突入しているわけなんだから。
要するにまあ、俺たちは事務所で『お弁当対決』の撮影をしようとしているのだ。当初はお盆が明けてから撮る予定だったのだが、夏休み中に出すなら早ければ早いほど良いということで、夏目さんと深雪さんでメールのやり取りをした結果今日の撮影になったらしい。
ちなみに現在事務所に居るのは俺たちだけだ。香月社長と由香利さんは十六日までのお盆休みに入っているし、モノクロシスターズの二人も来ていない。本来夏目さんは自分の家か深雪さんの家で撮るつもりだったようなのだが、どうせ事務所も俺のスケジュールも空いているからと提案してみたところ……まあ、こういう状況に繋がったわけだな。
夏目さんは『あれだけ休んで欲しいって言ったそばからすみません』と謝っていたけど、暇を持て余しそうだったからむしろ助かったぞ。開いたドアから響いてくるセミの大合唱を耳にしつつ思考していると、室内に入ってきた深雪さんが応答する。左手で松葉杖を突いている今日の彼女は、シャツとスラックスに加えてややカジュアルめなベストという装いだ。変な帽子も被っていないし、普通にカッコいい雰囲気だな。もちろん松葉杖を除けばだが。
「ごきげんよう、さくどんさん、駒場さん。この足は水泳対決の日の夜、階段を踏み外して痛めてしまったんです。大した怪我ではないので心配しないでください。」
「……まさか、撮影が原因ですか?」
「いえ、一切関係ありません。プライベートで生じた怪我です。」
しれっと言っている深雪さんだが……まあうん、大嘘だな。全体的に嘘だ。ダイレクトに水泳対決が原因だし、彼女が負ったのは『大した怪我』だったのだから。予想通り重度の肉離れで、段階的なリハビリが必要らしい。
あの日はもう、本当に大変だったぞ。人が居ない隙を狙って男性用更衣室経由で深雪さんを連れ出して、まともに動けない状態で何とか夏目さんとの別れを済ませたのだ。傍目には余裕綽々の態度で壁に背を預けていたわけだが、後の当人曰く痛すぎて崩れ落ちそうだったんだとか。気の抜けてくる話じゃないか。
そして帰り道の途中で忘れ物をしたと偽って夏目さんをファミリーレストランに一度降ろし、スポーツジムに戻って深雪さんを回収して大急ぎで病院に連れて行った後、再び夏目さんを拾って東京まで送り届けてから、電車で茨城にとんぼ返りしたわけだ。我ながらミステリー小説のアリバイ作りみたいな行動だったな。
その後ジムの駐車場に置かせてもらっていた深雪さんの車に乗って、彼女を迎えにつくば市内の病院に行き、そのまま再度東京まで移動したのだが……久々にマニュアル車の運転が出来たことだけは、唯一ラッキーと思える点だったぞ。『車欲』を刺激されてしまったし、本格的に新車購入を考えるべきかもしれない。
俺が四日前の大騒動を思い返している間にも、夏目さんがホッとしたように言葉を放った。撮影が原因ではないと聞いて安心したのだろう。少なくともそういう意味においては、深雪さんの痩せ我慢は無駄にならなかったらしい。
「それなら良かったです。……いやあの、良くはないですね。怪我しちゃったんですから。すみません。」
「怪我自体は不運ですが、水泳対決を撮り終えた後だったのは紛れもない幸運ですよ。おまけに今回の対決は動かなくて済む内容ですし、総合的に見れば『良かった』と言えるんじゃないでしょうか。」
「……そうですかね?」
「そうなんですよ、さくどんさん。この私が言うんだから間違いありません。……では、早速撮影を始めましょうか。」
強引に纏めた深雪さんは、カツカツと松葉杖を突きながら撮影部屋の方へと歩いていく。今日の撮影はそこまで長くかからないはずだ。何せ対決のテーマである『お弁当』は既に完成しているのだから。
事前に各々が弁当を作るシーンを撮影した上で、完成したそれをこの場で披露し合うという構成らしいのだが……深雪さん、大丈夫なんだろうか? 午前中に夏目家で夏目さんが調理するところを撮った俺としては、一方的な展開になりそうな予感がしてならないぞ。
そこはかとない不安を感じている俺を尻目に、彼女が来る前に準備を整えておいた撮影部屋に入室した深雪さんは、部屋の中央の応接用テーブルにリュックを下ろして物を出し始めた。先に載っていた風呂敷に包まれた『大きな何か』を目にして、フッと笑いながらだ。誤魔化しの笑みだな。一見してもう『ヤバい』と思ったのかもしれない。
「……それがさくどんさんの弁当ですか?」
「あっ、はい。そうです。……あとあの、調理シーンの撮影データを忘れないうちに渡しておきますね。一応料理動画の時の雰囲気で撮ってみました。」
「ありがたく使わせていただきます。丁寧に編集することをお約束しますよ。……ちなみに私の弁当はこれです。」
SDカードの受け渡しの直後、深雪さんがリュックから己の弁当を取り出すが……うーむ、絶望的な戦力差だな。夏目さんの弁当が重箱サイズなのに対して、深雪さんの黄色いランチクロスに包まれている弁当は何とも可愛らしい大きさだ。肝心要の中身はまだ見えていないものの、量では早くも決着が付いてしまったらしい。
どこか怯んでいるように自分の手札を晒した深雪さんへと、テーブルの手前のソファに腰掛けた夏目さんがおずおずと質問を送る。前髪を軽く整えながらだ。
「えと、座った状態からスタートした方がいいですよね? ソファが二台並ぶと画面が広がりすぎるかなって思ったんですけど、もし狭いならもう一台も持ってきます。どうしましょう?」
「一台で問題ありませんよ。この配置で文句無しです。……駒場さん、カメラをお願いできますか?」
「了解です、荷物も預かりますね。」
「杖も横に置いておいてください。座っている分には必要ありませんから。」
相変わらずサクサク進むな。雑談タイムは無しで、本当にすぐ撮影に入るらしい。ビデオカメラとリュックと松葉杖を受け取って、荷物をモノクロシスターズの机に置かせてもらった後、杖を近くの壁に立て掛けてカメラを起動させていると……夏目さんの隣に腰を下ろした深雪さんが呼びかけてきた。
「雪丸スタジオの始め方でいきたいんですが、駒場さんは知っていますか?」
「勿論です。カウントですよね?」
「さすがですね、ご存知でしたか。それで始めて『雪丸です』と言った後にさくどんさんを紹介するので、ちょうど良いタイミングで後ろに引いてください。そこからは……まあ、お任せしますよ。貴方なら大丈夫でしょう。信頼させていただきます。」
「なら、応えてみせます。……オーケーです、いつでもどうぞ。」
俺たちの会話を眺めている夏目さんが少し怪訝そうな顔になっている中、それに気付いていない深雪さんがカメラのレンズを伸ばした手で覆う。ちょっと怪しまれてしまったようだ。距離感が近すぎたかな? ……というかもうこれ、白状すべきだと思うんだが。何だか後ろめたくなってくるぞ。
真っ暗なカメラのモニターを見つめながら眉根を寄せていると、深雪さんが独特な合図で動画をスタートさせた。まあ、その辺は撮影が終わったら相談してみよう。今はカメラ役に集中すべきだな。
「ワン、ツー、スリー、フォー……ごきげんよう、諸君。雪丸です。」
楽曲の入りのような一定のテンポでカウントをした後、レンズから手を外して挨拶した深雪さんは、夏目さんの方を示しながら続けてくる。これが雪丸スタジオの『いつもの始まり方』なのだ。シンプルかつ個性があって面白いと思うぞ。
「そしてこちらは──」
「どうも、さくどんです! よろしくお願いします。」
「要するに、対決企画の最終決戦ですね。この段階で私が何を言っているのかさっぱり理解できない方、こいつは急にどこで撮影しているのかと戸惑っている方、さくどんさんが誰なのかが分からない方たちは、概要欄にあるこれまでの対決を先に見ることをお勧めします。でなければ私とさくどんさんが『弁当バトル』をしている光景は意味不明でしょうし、恐らくあまり盛り上がれませんから。」
尤もなことを冷静な口調で説明すると、深雪さんはニヤリと笑いながら夏目さんに話を振った。
「というわけで、煩雑な説明は省かせていただきますが……さくどんさん、自信のほどは如何ですか?」
「……正直、ちょっとありますね。サイズ感でもう勝ってますから。雪丸スタジオのリスナーさんたちには悪いですけど、今回の勝負は勝たせてもらいます!」
目の前にある巨大な弁当をぽんぽんと叩いて勝利宣言した夏目さんに、深雪さんは強気な笑みのままで応じる。彼女も自信はあるようだ。あるいは単に強がっているだけかもしれないが。
「弁当とは量ではなく、質ですよ。巨大な海苔弁よりも小さな栗おこわの方が嬉しいものです。今日はさくどんさんにそれを教えてあげましょう。」
「そういうことなら……雪丸さん、少しだけ待っててください。私の本気を見せますから。」
「……『本気』?」
疑問げな声色で問い返した深雪さんに答えることなく、立ち上がった夏目さんは画角の外……つまり事務所スペースの方へと歩き去っていく。そう、夏目さんの弁当はまだ最終形態ではないのだ。追加の合体パーツを残しているぞ。
「嫌な予感がしてきましたね。どうやらさくどんさんは、ちょっとしたサプライズを用意してくれたようです。これは私も聞かされていない……なるほど、そう来ましたか。」
場繋ぎのトークの途中で戻ってきたコラボ相手が持っている物を見て、深雪さんは顔を引きつらせているが……そんな彼女へと、テーブルにコップ付きの水筒と新たな包みを置いた夏目さんが声をかけた。強者の雰囲気でだ。
「じゃじゃんっ、これが私のお弁当の完成形です! ……降参は受け付けますよ、雪丸さん。」
「この時点で一つ推察できるのは、水筒に入っているのが味噌汁であることですね。間違いなくスポーツドリンクではありませんし、マシュマロ入りのココアでもないでしょうから。……それでも降参などしませんよ、さくどんさん! 貴女が最強の布陣で挑んでこようとも、どれだけ不利なお題であろうとも、私は戦わずして白旗を掲げるような臆病者ではないんです!」
「それなら、尋常に勝負です! ……んっと、どっちが先攻ですか?」
「先手は私がいただきましょう。別に『ビビっている』わけではありませんが、しかしどちらが後攻に相応しいかは理解できています。動画の構成上私の弁当を先に出すべきです。」
もうそれ、白旗宣言じゃないか。堂々と弱気なことを言い放った深雪さんは、カメラの方に視線を向けてくるが……もしかして、ここで調理シーンを挟むのかな? 意を汲んだ俺がそっと近付いてやれば、彼女は短く話してから再びレンズを手のひらで覆う。
「それでは、披露する前に私の弁当の『製造過程』をお見せします。さくどんさんの弁当を目にする以前の、希望と自信に満ち溢れた私の調理シーンを楽しんでください。……駒場さん、一度録画を切っていただけますか? そうすると別データになって、編集の時に管理し易くなりますから。」
「分かりました、切りますね。」
「言わずとも近付いてきてくれて助かりましたよ。以心伝心ですね。」
一旦カメラを下ろした俺のことを、深雪さんがご機嫌な笑顔で褒めてくれるが……その様子をジーッと見ていた夏目さんが、ゆっくり首を傾げながら疑問を飛ばしてきた。無表情でだ。いつもは表情豊かだから気付き難いけど、姉妹だけあって無表情だと叶さんに似ているな。
「……何か、駒場さんと雪丸さんは仲良くなってますね。距離が近い感じがします。」
「いやまあ、何度か一緒に撮影をしていますから──」
「そんなことはありませんよ、さくどんさん! 私は駒場さんに距離を感じていますからね。この人は余所のマネージャーさんですし、ほぼほぼ他人ですよ。名前を思い出すのにも一苦労といった具合です。」
いやいや、それは言い過ぎじゃないか? わざとらし過ぎるぞ。俺の発言を遮って捲し立てた深雪さんは、続けて夏目さんへと別の話題を投げる。俺との友人関係はあくまで隠し通すつもりらしい。
「駒場さんのことなどどうでも良いじゃありませんか。それより撮影です。私の調理シーンは編集で五分前後に纏める予定ですが、さくどんさんの方はどの程度の長さになりそうですか?」
「えっと、私のは……前日の下拵え抜きで、無編集だと三時間ちょいです。」
「そうですか、三時間。……三時間? 私のは無編集でも四十分ほどなんですが。」
「でもあの、ばっさり切っちゃって大丈夫ですから。思いっきり切りまくれば五分くらいに出来る……かも、しれません。」
自信なさげな尻窄みで言う夏目さんのことを、深雪さんが戦慄の目付きで見つめているが……五分に収めるのは厳しいだろうな。何たって夏目さんは手際が悪くて長く調理していたわけではなく、手の込んだ料理が多かったが故の三時間なのだから。前日にきちんと下拵えをした上で、手早く同時進行してその時間だぞ。品数が豊富で工程も複雑となれば、カットするのは相応に難しくなるだろう。
「一応ですね、私もさすがに長くなりすぎちゃったかなと思ったので、前日の部分はトークでざっくり纏めました。今日の分にも魚の下処理とか、地味な出汁取りとかが入ってますから、そういうのを抜けば多少は短くなるはずです。……あの、すみません。いつもはもっと手抜きしてるんですけど、今回は最終対決ってことで無駄に張り切っちゃいまして。」
沈黙を受けて気まずげに補足した夏目さんへと、深雪さんは気を取り直すように一瞬だけ瞑目してから、何とも言えない感じの苦笑いで返答した。弁当それ自体の戦力差とか、編集の難易度とか、勝負が一瞬で決まってしまった場合の展開の運び方とか。今の彼女の脳内では様々な悩みが回っているのだろう。
「まあ、それだけ頑張ってくれたということです。嬉しく感じていますよ。どうにか十分程度に縮めてみましょう。……私は動画が長くなるのを好んでいませんから、最長でも二十五分に収めたいと考えています。調理シーンで半分強を使う以上、実食を簡潔にする他ありませんね。」
「……すみません。」
「何を謝る必要があるんですか。素材が潤沢なのは望むところです。本当に美味しい部分のみをリスナーに見せるというだけの話ですよ。……とはいえ、三時間を十分にするのはあまりにも勿体無さすぎます。内容が薄くてそうなるならともかくとして、さくどんさんの料理となると濃い三時間でしょうから、さくどんチャンネルの方で長めのバージョンを上げるのはどうですか?」
「……いいんですか?」
それは助かるな。夏目さんの問いかけに対して、深雪さんは大きく首肯しながら返事を返す。
「細かい工程が気になる方も居るでしょうしね。どんなに頑張ったところで十分に全てを詰め込むのは土台不可能ですし、良ければさくどんチャンネルでロングバージョンを出してください。」
「じゃあ、少し経った頃に改めて上げさせてもらいますね。ありがとうございます。」
「構いませんよ。ライフストリーマーたる者、臨機応変に動けなければいけませんしね。この動画でも後々『補完編』が上がることに軽く触れておきます。……では、続きを撮りましょうか。駒場さん、お願いします。」
「了解です。」
確かに対決企画の撮影は全体を通して臨機応変に動いているな。発端がそもそもいきなりだったし、肝心のお題は運任せだし、モノクロシスターズの参加も柔軟に受け入れていたし、どちらのチャンネルで上げるかや撮影場所や撮影日もパパッと決めてきた。普通なら有り得ないようなスピードで決定して、進行していたぞ。
『友達との約束』並みの手軽さで撮影まで持っていけるのは、少人数だからこそのメリットなのかもしれないな。企業として動いていたらこうは行かないだろう。企画、撮影、編集。それら全ての決定権が夏目さんと深雪さんにあるから、二人で話し合うだけで何もかもを決めてしまえるわけか。
まあ、そうなるとどうしても大人数で手順を踏むよりはトラブルが多くなってしまいそうだが……そういった『失敗』も動画の一要素に出来るのがライフストリーマーだ。発生した問題を上手く視聴者と共有して面白さに繋げるか、捌き切れなかったり無理に隠そうとして悪目立ちさせてしまうか。基本的には自分でどうにかする他ない以上、そこで臨機応変に動けるかどうかもライフストリーマーの力量なのかもしれない。
ただし、それは個人でやっている場合の話だ。事務所所属となればまた話が変わってくるぞ。何たって『絶対失敗できない動画』で失敗させないために、代わりに石橋を叩きまくって安全を確保するのが俺たちの仕事なのだから。
つまり、分担だな。少人数の柔軟さと、大人数の慎重さ。その相反した二つのメリットを両取りできる状態が、俺たちが目指すべき理想なわけか。……一歩間違えれば少人数のリスクと大人数の鈍重さが前に出かねないし、そこは気を付けていくべきだろう。メリットとデメリットが背中合わせであることを忘れないようにしなければ。
───
そのまま撮影を続けていき、深雪さんの弁当の実食や夏目さんの調理シーンを挟んだ後、現在のカメラの前の二人は『さくどん作』の弁当を食べ進めているわけだが……改めて見ると物凄いな。ここまで来るともう『弁当』と呼ぶべきなのかを迷ってしまうぞ。御節料理に近いかもしれない。
「こっちが出汁巻きで、こっちは普通の甘めの卵焼きです。普通のやつもお弁当っぽさがあって美味しいですし、折角なので両方入れてみました。それでこれがアスパラの肉巻きですね。隣にはポテトをベーコンで巻いたやつと、餃子の皮にハムとチーズを入れて揚げた物があります。それとこっちは煮物ゾーンで──」
六角形の立派な三段の重箱に入っているのは、色取り取りの料理の数々だ。定番のおかず、変わり種、手の込んだ特別感がある一品。何でもあるじゃないか。運動会に持っていったらクラスの伝説になれそうな弁当だな。
更に別に用意された小さな弁当箱にはフルーツとサラダが詰め込まれており、銀色の保温水筒には豚汁が入っているので……うん、パーフェクトだ。こんなの文句の付けようがないぞ。
ちなみにだが、深雪さんの弁当も中々美味しそうだった。竹のゴザ目の『ザ・和風のお弁当箱』といった容器の中に、おにぎりとおかずが入っている見事な作品だったのだが……比較対象が夏目さんの弁当だとどうしたって見劣りしてしまうぞ。悲しい話じゃないか。
全然終わらない夏目さんの弁当解説を耳にしつつ哀れんでいると、一つ一つ実食している深雪さんがポツリと言葉を漏らす。虚しそうな面持ちでだ。
「……こんなことなら『ネタ弁当』に走るべきでしたね。惨めな気分です。真剣勝負だからと真面目に作ってきて失敗しました。棒切れで戦車と戦うようなものじゃありませんか。」
「うぁ、あの……でも、雪丸さんのお弁当も美味しかったです。」
「慰めは結構。たとえ宇宙の彼方に住む生命体にジャッジさせても、これではさくどんさんが勝つでしょう。『サクドンノ、カチ』と必ず言います。……負けですよ、負け。私の完敗です。ごねる余地すらありません。見た目でも量でも種類でも味でも気遣いでも敗北しました。」
重箱は独特な形での七つ切が一段、九つ切が一段、そして『ご飯ゾーン』になっている四つ切が一段という構成になっており、一つの区切りに同じタイプの料理が二種類か三種類入っているので……約四十種類のおかずと四種類のご飯が存在していることになるな。それプラス小さい弁当箱に入っている綺麗にカットされた五種類の果物と三種類のサラダと、水筒に入っている具沢山な豚汁があるといった内訳だ。こんなの誰も勝てないぞ。『お弁当対決』になってしまった時点で勝敗は決していたわけか。
高級料亭クラスの弁当を前に、虚無の笑みを浮かべつつ敗北を認めた深雪さんは……徐に立ち上がったかと思えば、びしりと夏目さんを指して声を放った。松葉杖無しでも立てはするらしい。ひょっとするとまた無理をしているのかもしれないが。
「さくどんさん、三本対決は二対一で貴女の勝ちです! 今回は潔く負けを認めましょう! ……しかしながら、まだ一つだけやることが残っています。」
「な、何でしょうか?」
「全ての対決が終了した今、改めて貴女にお聞きしたい。さくどんさんはライフストリーマーとして一体何を目指しているんですか? ……私の理念は最初に伝えました。ホワイトノーツの理念は香月社長が語ってくれました。では、貴女の理念は? それを聞かずしてこの動画は終われないんですよ。」
まあ、終われないだろうな。対決企画も、コラボ動画も、結局のところ深雪さんにとってはおまけに過ぎないのだから。やや強引に負けを流した感もあるが、お弁当対決が『前座』なのは厳然たる事実だ。今日の撮影のメインはむしろこっちだろう。
ソファに座っている夏目さんへと、『雪丸』が挑戦的な笑みで質問を提示したのに……『さくどん』もまたスッと立ち上がって応答する。真っ直ぐ深雪さんのことを見返しながらだ。俺には何も言ってこなかったが、彼女はしっかりと答えを用意してきたらしい。
「はい、今度こそきちんと答えますね。お待たせしちゃってすみませんでした。……私は大した人間じゃありませんし、ライフストリーマーとしてもまだまだです。謙遜とかじゃなくて、本気でそう思ってます。今回のコラボで雪丸さんから沢山学ばせてもらったみたいに、毎日他のチャンネルの動画を見て色々なことを教わってますから。」
そこで区切った夏目さんは、決意の顔付きで続きを語った。
「だけどもし、そんな私でもライフストリームにほんの少しだけ影響を与えられるんだとしたら……私は日本のライフストリーム界を、みんなで手を取り合って進めるような業界にしていきたいです。」
「手を取り合って? 何とまあ、ぬるい台詞ですね。」
「私、冷たいよりも熱いよりもぬるい方が好きですから。競争とか、上を目指すとか、そういうのを否定する気はありません。私だって負けたくないですし、どんどん上を目指していきます。……けど、それだけじゃ嫌なんです。ライフストリームに『独り占め』は似合いません。私は分け合えるのがライフストリームの一番の良さだと思ってます。」
「……分け合える、ですか。」
僅かにだけ目を細めて相槌を打った深雪さんへと、夏目さんは大きく頷いて肯定する。もどかしそうな表情だ。自分の心の中にある想いを、必死に伝えようとしているのだろう。
「そうです、取り合いじゃないんです。ゴールもスタートも一つじゃないし、道筋もスタイルもそれぞれだから、助け合いながら先に進んでいけるんですよ。……私は他のチャンネルが伸びてるのを見た時、心から嬉しいって思えます。もっともっと伸びて、ライフストリームを盛り上げていって欲しいって。」
「……実にさくどんさんらしいですね。追い抜かれるかもと脅威に感じたり、伸びを妬んだりはしないんですか?」
「私も頑張らなきゃとは思いますけど、妬んだりはしません。だって、他のチャンネルが伸び悩んでも私の得にはなりませんから。むしろ損ですよ。面白いチャンネルがいっぱい増えれば、ライフストリームを利用する人もぐんぐん増えていって、私のチャンネルを見てくれる人もちょびっとだけ増えるはずです。……それがライフストリームの良さなんじゃないでしょうか? 競争ではあるのかもしれませんけど、奪い合いではないんですよ。他人が伸びたからって、自分が伸びなくなるわけじゃありませんから。だから躊躇せずに助け合ったり、認め合ったり、喜び合ったり出来るんです。私はライフストリームのそういうところが大好きですし、これからも守っていきたいと考えてます。」
これはまた、面白い意見だな。シェアを奪い合うのは商売の基本だ。同業者の失敗は自分の利益に繋がるし、逆もまた然り。この世の中の大抵の部分はそういう風に出来ているはず。ケーキは食べれば減ってしまうのだから、より多くを自分のものにしたいと考えるのは人間として当然のことだろう。
しかし、夏目さんはライフストリームがそうではない特異な世界だと認識しているわけか。……見方次第で意見が分かれそうだけど、少なくとも現段階においては大きく間違っていないように思えるぞ。今まさに撮っている『コラボ動画』がその象徴だろう。さくどんチャンネルや雪丸スタジオのリスナーたちは、片方を見るからといってもう片方が見られなくなるわけではないのだ。つまりどちらの視聴者数も減らさずに、両方の視聴者数を増やしていることになる。
無論、限界はあるだろう。各々の視聴者が持っている時間は有限なんだから、『この動画は見るけどこっちは見ない』という選択をする場面は必ず出てくるはずだ。……それでも数多ある類似した業種の中だと、際立って奪い合いが発生し難いシステムなのは確かだぞ。基本的には無料で、いつでも、どれでも、何時間でも視聴できるのだから。
加えて、ライフストリームは現時点で既に巨大なプラットフォームだ。これからも成長していくことを考えると、『少人数で食べ切れるケーキ』にはそうそうならないはず。おまけに多様性があるからそも食べようとしない部分が腐るほど出てくるだろうし、分け合いながら進んでいくというのはそこまで非現実的な目標ではないのかもしれない。
ビデオカメラを構えながら夏目さんの主張に感心していると、深雪さんが……物凄く嬉しそうな顔になっている深雪さんが口を開く。ライバルどのの回答が気に入ったようだ。
「躊躇なく助け合える世界。それが貴女の描く理想のライフストリームというわけですか。」
「大それたことを言ってる自覚はありますし、甘い考えなのかもしれませんし、大体私なんかに何が出来るんだって話ですけど……でも、さくどんチャンネルは断固としてそれを目指します。沢山のチャンネルから学んで、沢山の人とコラボして、誰かを引き上げたり、誰かに引き上げてもらったりしていきたいんです。分け合っても減らないなら、自分が掴んだものをどんどん渡していくべきですよ。そうすればライフストリームはもっとずっと大きくて、面白くて、キラキラした世界になってくれるはずですから。」
グッと拳を握って自らの理念を語った夏目さんに、深雪さんは満足げな面持ちで暫く瞑目した後……いきなり目を見開いたかと思えば、快心の笑みで大声を上げた。急に声のボリュームが変化した所為で夏目さんがびっくりしているぞ。
「素晴らしい! 予想通り貴女と私は全く以て違っているようです! それなのに私は自分が掲げる理念と同じくらい、貴女が語る正道の理念に価値を感じています!」
「あっ……はい、どうも。」
「いやぁ、ダメですね。嬉しすぎてテンションを制御できません。そうなんですよ、私を倒すのは貴女のような人でなければならない! そうでなければ面白くありません! ……だがしかし、負けたくないという気持ちも強まりました。私は貴女にだけは負けてもいいと思っていますが、同時に貴女にだけは負けたくないんです。今この瞬間、はっきりとそれが理解できましたよ。さくどんさん、やはり貴女こそが私の唯一無二のライバルです!」
絶好調だな。大仰な身振りと共に高らかに言い放った深雪さんは、そのままのテンションでカメラに発言を寄越してくる。……結構豪快に動いているけど、脚は大丈夫なんだろうか? どう見ても興奮しているし、アドレナリンの力で忘れているのかもしれないな。
「リスナーの皆さんにお約束しますよ。私はこの動画を『始まり』にしてみせます。……今から十年後、ライフストリームは誰しもにとって身近な娯楽となり、国際社会にとって不可欠なメディアとなり、ライフストリーマーは魅力ある職業の一つになっているでしょう。より大きく、より多様で、より面白いライフストリームがそこにはあるはずです。」
喋りながら両手を広げると、深雪さんは右手を自分の胸元に当てて続きを口にした。
「ですが、その時も尚先頭に立っているのは今ここに居る二人です。故にこの動画を覚えておいてください。我々が理念を掲げ合い、始めてコラボしたこの対決シリーズを。……十年後に振り返った時、このコラボこそが日本のライフストリームの始まりだったと言わせてみせますから。」
自信と、覚悟。それを感じる表情で宣言した深雪さんは、くるりと夏目さんの方を向いて促しを投げる。
「さくどんさんからは何かありますか? 折角の機会ですし、言いたいことを言って構いませんよ。」
「わ、私ですか? えと、あの……私は十年後どころか毎日の撮影で一杯一杯なので、雪丸さんみたいにカッコいい宣言は出来ません。けど、一つだけ。もしライフストリーマーになろうかを迷ってる人が居るなら、勇気を出してチャレンジしてみて欲しいんです。」
切実な顔付きでそこまで話すと、夏目さんは元気付けるような柔らかい笑顔で言葉を繋げた。
「私、一人でやってた時は凄く不安でした。本当にライフストリーマーとして生活していけるのかとか、そんな生き方で社会に認めてもらえるのかとか、下らないって誰かに思われるんじゃないかとか。そういうのが怖くて仕方がなかったんです。……でも、今は怖くありません。ホワイトノーツの人たちも、クリエイターのみんなも、雪丸さんも、キネマリードの運営さんたちも、フォーラムでお話を聞かせてくれたライフストリーマーさんたちも。みんな真剣で、本気だってことを知れましたから。私はどうも、私が思ってたほど一人じゃなかったみたいです。想像してたよりもずっとずっと沢山の人が、私と同じ夢を持ってました。」
そこで一度小さく俯いた後、パッと顔を上げた夏目さんは……微笑みながらカメラを見つめて続けてきた。励ますような、慈しむような、彼女らしい優しい声でだ。
「だから、本気でやっていいんです。私がそれを保証します。ライフストリーマーはまだ未熟な職業ですし、これから色々と問題が出てくるのかもしれませんけど……だけど、私たちも居ますから。一人じゃないってことだけは忘れないで欲しいんです。」
「まあ、さくどんさんの言う通りですよ。スタートは早ければ早いほど得ですし、迷っているなら飛び込んでみてください。現実的な話をすると、決して『楽に稼げる』という職業ではありませんが……私の場合は既に暮らしていくことが可能になっています。実際今の私はこれ一本で生活していますしね。」
「あれ? そういう方向に繋がるんですか。」
「これは大事な話ですよ、さくどんさん。多くを稼ぎ、多くを納税する職業には社会的な価値があるんです。各々の思想がどうであれ、現状この国はそういったシステムを採用していますからね。税金が社会を運営している以上、多くを納めた方が貢献度が高いのは当然のことでしょう? その金で道路の整備だの、教科書の配布だの、社会保障だのをやっているわけなんですから。」
「あー……えーっと、どうなんでしょうね?」
おっと、論点がズレてきているな。夏目さんが困っている雰囲気で曖昧に受け流すのを他所に、深雪さんはふんすと鼻を鳴らして持論を展開させる。スイッチが入ってしまったようだ。
「つまりライフストリーマーが金持ちになれば、『遊びみたいな仕事』だ何だと喚いている能無しどもに反論できるようになります。……私は早く金持ちになって、そういう連中に対して『ふーん? じゃあ君、年収いくら?』と資本主義マウントを取りたいんですよ。大量に納税した上で金持ち特有のチャリティー活動なんかもやっていくことで、『遊びみたいな仕事に社会貢献度で負けて残念ですね』と煽りまくりたいんです。こっちは誇りを持って毎日必死に動画を作っているのに、わざわざ首を突っ込んで批判してくるバカどもの気が知れません。顔と名前はきっちり覚えてありますから、ライフストリーマーを代表していつか絶対に復讐してやります。」
「うあ、えと……ライフストリームが大好きだから、雪丸さんはそんなに怒ってるんですね。だけどあの、やり返すのはあんまり良くないんじゃ──」
「さくどんさんは優しいから許すでしょうが、心の狭い私はイライラを忘れられないんですよ。文句を付けるだけで何も生み出そうとしない連中を、意地でも後悔させてやります。……さくどんさんが『許容』を受け持つなら、私が『反撃』を担いましょう。大人しくしているだけでは付け上がりますからね。そういう役割も必要なはずです。」
うーん、対極。だけどやっぱり、二人揃えば良いバランスになりそうだな。コインの裏表のようなライフストリーマーたちじゃないか。ビデオカメラを片手に苦笑していると、夏目さんがぺちりと手を叩いて強引に進行させた。このままではマズい展開になると判断したらしい。正解だぞ。
「じゃあ、はい! 動画が長くなっちゃいますし、そろそろ締めましょう!」
「……まあ、そうですね。締めましょうか。というわけで、第一回目の対決企画はさくどんさんの勝利です。次は負けませんよ。」
「『第一回目』? ……この企画、またやるんですか?」
「楽しかったですし、忘れた頃に再戦しましょう。次はもっと豪華にやれるはずです。……時折思い出したようにコラボする。私とさくどんさんはそういう関係でいるべきなんですよ。」
分かるような、分からないような台詞だな。目を瞬かせる夏目さんに『次』があることを知らせた深雪さんは、俺が持つカメラへと締めを語ってくる。
「十年後へのタイムカプセルは埋め終わりましたし、この動画はこれにて終了です。さくどんチャンネルの動画もよろしくお願いします。」
「あっ、よろしくお願いします。」
「そうそう、特に一つ前の水泳対決の動画は見逃さないようにしてくださいね。さくどんさんが健気にお腹を引っ込めている姿が見られますから。」
「ちょっ、雪丸さん?」
まあ、うん。引っ込めていたな。別に引っ込める必要はなかったと思うが、撮っていて俺も気付いていたぞ。夏目さんがビクッとしつつ呼びかけたところで、深雪さんは撮影の終了を告げてきた。愉快そうに笑いながらだ。
「はい、終了です。録画を止めてください。」
「ゆ、雪丸さん! ……まさか最後のあれ、『オチ』なんですか?」
「ええ、さくどんさんの反応でばっさり終わらせますよ。最近の私は『あれ、終わった?』という中途半端な終わり方が好きなんです。まだ試行錯誤中ですけどね。」
「……恥ずかしいんですけど。」
不満げな上目遣いで抗議する夏目さんへと、深雪さんは肩を竦めて返事を返す。今回の締め方も独特だったな。さすがは雪丸スタジオだ。
「負けた腹いせです。勝者の寛容さで許してください。……駒場さん、荷物と杖を渡してくれますか? 帰りますから。」
「分かりました、どうぞ。……今日もすぐ帰ってしまうんですね。」
「私とさくどんさんは動画の中でこそ話すべきなんですよ。カメラの外側で『お喋り』するのは勿体無さすぎます。普通ならお茶でも飲みつつ、少し喋って次もよろしくと別れるんでしょうが……そんなのは退屈ですからね。さくどんさんとの関係を面白いものにするためにも、ここは逃げるように去らせてください。」
俺から松葉杖やリュック、ビデオカメラなどを受け取りつつ言った深雪さんは、手早く自分の弁当箱の中身と夏目さんの弁当の料理を入るだけ交換してから、それを包み直してリュックに仕舞った。熟練のおかず泥棒みたいな手際の良さじゃないか。ぎゅうぎゅう詰めにしていたぞ。
「これは調理工程を編集しながらゆっくり楽しませてもらいます。……それではまたお会いしましょう、さくどんさん! その日まで壮健でいてください!」
「あ、はい。雪丸さんもお元気で。」
「駒場さんもさようなら!」
本当に逃げるように去るな。俺にも一声かけてから颯爽と撮影部屋を出ていく深雪さんのことを、夏目さんと一緒にぽかんと見送って……いやいや、見送っちゃダメか。雰囲気に流されるところだったぞ。慌てて夏目さんに断りを入れてその背を追う。外は暑いし、松葉杖で歩くのは大変なはず。せめて帰りは送らなければ。
「っと、雪丸さんを車で送ってきますね。すみませんが、ここで待っていてください。」
「あっ、それもそうですね。怪我してるんだから大変でしょうし、よろしくお願いします。」
ハッとしながら応じてきた夏目さんの声を受けた後、事務所スペースに通じるドアに手をかけてから……振り返って言うべきことを付け足した。これだけは今言っておこう。言葉には鮮度があるのだから。
「それと夏目さん、さっきの『さくどん』はカッコ良かったです。担当マネージャーとして誇らしくなりました。」
「そ、そうですか? 上手く伝えられたか不安だったんですけど……えへへ、駒場さんがそう言ってくれるなら安心です。ありがとうございます。」
「少なくとも俺にはきちんと伝わってきましたよ。夏目さんらしい良さがある発言だったと思います。……では、行ってきますね。戻ったら二人で残りを食べましょう。実は作っている場面を撮影していて、食べられるのを楽しみにしていたんです。」
「ぁ、はい! 私も駒場さんに食べてもらいたいなって思いながら作ってたので、二人で食べられるなら嬉しいです。ちゃんと待ってますから、急がないで行ってきてくださいね。」
ふにゃんと笑いかけてきた夏目さんに首肯してから、今度こそ撮影部屋のドアを抜ける。フォーラムの日にやれなかったことを果たせたな。ちょっと遅くなってしまったが、見事に挽回できたと思うぞ。これなら視聴者たちも満足してくれるだろう。
口元を綻ばせながら無人の事務所スペースを通り過ぎて、蒸し暑い屋外に出てみれば……エレベーターの到着を待っている深雪さんの姿が目に入ってきた。
「深雪さん、家まで送ります。……それとも今回も送らせてもらえませんか?」
「おや、追いかけてきてくれたんですか。……他の人物であれば断るところですが、貴方は友人ですからね。貸し借りにはなりませんし、素直にお願いしておきましょう。家まで送ってください。」
「了解です。……そういえば、前回も貸し借りの話をしていましたね。借りを作るのが嫌いなんですか?」
二階で止まって一階に降りていってしまったエレベーターを前に尋ねてみると、深雪さんは苦笑いで回答してくる。タイミングが悪かったな。二階に居る誰かにボタンを押すスピードで敗北してしまったようだ。俺の他にもお盆休みに出社している人間が居るというのは、何だか仲間意識を感じて励みになるぞ。
「そこも嘘ではないんですが……まあ、瑞稀さんには正直に話しておきましょうか。本当は気まずい時間を過ごしたくないから、一人で帰ることを積極的に選択しているだけなんですよ。『帰り道が一緒』の誰かと歩く羽目になった時、私は常に気まずい思いをしてきましたからね。空虚な会話と、居心地の悪い沈黙。それが私にとっての『誰かとの帰り道』なんです。」
「あー、なるほど。何となく分かります。」
俺も同じような経験はあるぞ。友達の家に行った帰りに、『友達の友達』くらいの関係の人と駅まで歩くことになったりとか。……あれはまあ、確かに居心地が悪かったな。互いに何とか会話を繋ごうとして、それでも訪れてしまうあの沈黙。深雪さんはそういう空気を嫌っているようだ。
ようやく到着したエレベーターに乗り込みつつ共感した俺に、深雪さんは壁に寄り掛かって話を続けてきた。小首を傾げながらだ。
「しかし、先日の貴方との帰り道は気まずくありませんでした。思い返せば長い沈黙もあったはずなんですが、全く気にならなかったんです。……何故なんでしょうね?」
「何故かは分かりませんが、私も気まずいとは感じませんでしたよ。」
「情けないところを存分に見られた後だったので、気負う余地すら無かったのかもしれません。貴方に対しては今更格好の付けようがありませんからね。……というわけで、今回も甘えておくことにします。途中でコンビニかスーパーに寄ってもらえますか? 松葉杖だと買い物が億劫なんですよ。さくどんさんを待たせないように手早く済ませますから。」
「もちろん寄るのは構いませんが……あのですね、さくどんさんには言っても大丈夫なんじゃないですか? つまり、私たちの関係のことを。」
『関係』と言うと何だか深いもののように聞こえるけど、実際は単に友達になっただけだぞ。一階に到着したエレベーターから降りながら提案してみれば、深雪さんは半眼で注意を飛ばしてくる。やっぱりダメらしい。
「瑞稀さん、またその話ですか? 秘密だと言ったでしょう? 私は折角『公認ライバル』になれたさくどんさんから、泥棒猫だと思われたくないんです。こっそり付き合っていくべきですよ。」
「『泥棒猫』は言い過ぎですし、さくどんさんはマネージャーのプライベートな友人にまでいちいち構ったりしないと思いますよ?」
「自分が頼りにしている人が、自分以外の誰かを気にしているのは嫌なものです。それがライバルたる私だったら尚更ですよ。……いいから私を信じて内緒にしておいてください。さくどんさんとは暫く会わないでしょうし、瑞稀さんさえ黙っていればバレることなど有り得ません。沈黙こそが最も平和な解決策なんです。」
俺は黙っていれば黙っているほど、バレた時に良くない展開になる予感がするんだけどな。目線で確認してくる深雪さんに渋々頷きつつ、自動ドアを抜けてオフィスビルの外に出た。太陽とセミたちは今日も変わらず元気なようだ。秋が待ち遠しいぞ。
「まあはい、分かりました。そこまで言うなら黙っておきます。」
「私はさくどんさんには詳しい自信がありますからね。バレたら嫌に思われるという点は確実ですよ。全員の幸せのために内緒にしておきましょう。」
どういう立場からの意見なんだ。『さくどん博士』みたいな言い草じゃないか。謎の自信を持っている深雪さんへと、駐車場の方に歩を進めながら返答する。この人、本当に夏目さんが……というか、さくどんが好きなんだな。
「そんなに危惧しているのに、あの時手を取ってくれたんですね。」
「あそこまでストレートに『友達になりませんか?』と言われたのは初めてだったので、さくどんさんのことを考える間も無く了承してしまったんです。……そしてもはや友人関係を解消する気にはなれません。私はさくどんさんに嫌われたくありませんが、貴方とも引き続き友人でありたいと思っていますから。ならば隠す他ないでしょう?」
「それはまた、嬉しい発言ですね。ありがとうございます。私としても深雪さんとはこれからも友人でいたいです。」
「呆れるほどに真っ直ぐ言ってくるじゃありませんか。さぞモテるんでしょうね、貴方は。捻くれ者の私からすると羨ましい性格ですよ。……杖は後ろに載せても構いませんか?」
軽自動車の後部座席を指しながら聞いてきた深雪さんに、ロックを解除してオーケーを送った。モテないぞ、俺は。見当外れにも程がある指摘だな。
「大丈夫ですよ、どうぞ。……それと、私は人生で一度も『モテた』経験がありません。私なんかよりも深雪さんの方が余程にモテたはずですよ。その容姿なんですから。」
「私は中学で一度、高校で二度ほど告白されましたよ。そして全てを断りました。『罰ゲーム』での告白を警戒していましたし、全員が全員まともに話したことのない男子でしたから。……いつも教室では独りぼっちで本を読んでいたのに、急に付き合ってくれと言われたら恐怖が先行します。訳が分かりませんよ。前提を抜かしすぎです。」
「いやでも、モテてはいるじゃありませんか。俺は告白なんてされたことないですよ。冗談で『付き合ってみない?』と言われたのが関の山です。……エアコンが効いてくるまで窓を開けますね。」
今でこそ派手なストロベリーブロンドに染めているが、初期の頃の深雪さんはロングの黒髪だったし、いつも一人で本を読んでいたとなると……学校では『孤高の文学少女』的な立ち位置だったんだろうか? だとすれば急に告白するのはそこまでおかしくもないぞ。切っ掛けが掴めなかったから、強引に攻めてみたのかもしれない。
結果として『恐怖』と言われているのはちょっと可哀想だなと同情しつつ、サウナ状態の車内でキーを回してエンジンをかけている俺へと、助手席に乗り込んだ深雪さんが応答してくる。どことなく訝しげな面持ちでだ。
「……それは、本当に冗談でしたか?」
「冗談ですよ。真剣な顔で本気なのかと聞き返したら、慌てて『うそうそ、冗談だって』と言われてしまいましたから。恥ずかしかったです。俺としてはちょっとしたトラウマですね。」
「……そうですか。」
しかもその後に、『だってほら、私と駒場が付き合うわけないじゃん』とわざわざ念を押されたのだ。見たこともないほどに真っ赤な顔だったから、勘違いで本気にされて相手も恥ずかしかったのだろう。思い出すと落ち込んでくるぞ。当時の俺はその子に淡い好意を持っていたものの、それが切っ掛けで距離を取るようになったんだっけ。
中学時代の苦い思い出を心の奥底に仕舞い込んだところで、何故か腑に落ちないような表情になっている深雪さんが話題を変えてきた。
「まあ、お互いに恋愛は苦手分野のようですね。触れないことにしていきましょう。……そんなことより、瑞稀さん。唐突なお願いになるんですが、今度映画に付き合ってくれませんか? 一人だと行き辛いんですよ。」
「どんな映画ですか?」
深雪さん、『一人映画』はダメなタイプなのか。意外だなと感じつつ問い返した俺に、彼女は足元に置いたリュックを示して説明してくる。女児向けのアニメのプリントが入っている、例のリュックをだ。
「端的に言えば、これの劇場版です。『一人だと行き辛い』の意味が理解できたでしょう?」
「……そうなると、二人でも行き辛いと思うんですが。」
「しかし一人よりはマシですし、私は来場者特典のクリアファイルが欲しいんです。おまけに瑞稀さんが一緒なら一度に二枚貰えます。選択式の四種類なので、まだ大量に余っている公開初日に二回行けば高確率でコンプできるんですよ。」
「……公開日に二回も観るんですか。」
悪夢のような頼み事をしてくるじゃないか。夏休み中の公開初日なんて尋常じゃないレベルで混むはずだぞ。そんな中、俺と深雪さんが女児向けの映画を二連続で観る? そこまで行くと精神的な修行になりそうだな。
駐車場から車を出しつつ怯んでいる俺へと、深雪さんは割と必死な顔付きで言葉を重ねてきた。来場者特典とやらが相当欲しいらしい。
「気が進まないのは分かりますが、他に頼める人が居ないんですよ。一人で四回観るのはさすがの私も辛いですし、ネットオークションで特典だけ買うのは邪道です。今シリーズの興行収入が悪いと後に響くので、ファンとして来場者特典の四回分は観ないといけません。お願いします、瑞稀さん。貴方の趣味にも付き合いますから。」
「……分かりました、一緒に行きましょう。」
「素晴らしい、持つべきものは友人ですね。二十日の土曜日に行くので、スケジュールを空けておいてください。午前中に一度観て、昼食を挟んで午後にもう一度観ましょう。チケットは事前予約しておきます。……いやぁ、楽しみですね。友達と映画に行くのなんて初めてかもしれません。今日は良い撮影になりましたし、さくどんさんの手料理も食べられましたし、瑞稀さんと遊ぶ約束まで出来ました。良いこと尽くめです。」
「……はい、私も楽しみです。」
ここはまあ、観念して付き合っておくか。そういうことをお願いできるのは確かに友達だけだし、他に頼める人が居ないと言われれば行くしかあるまい。……だけど、俺は一体どういうテンションで観ればいいんだろう? 今週の土曜は中々厳しめの一日になりそうだな。
少しでも楽しめるように軽く調べておこうと思案しながら、ご機嫌な雰囲気になっている友人どのを横目にアクセルを踏むのだった。
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