後悔
ボブ
後悔
微かな鳥の囀りが聞こえる朝。暗い部屋へ溢れ出そうとする日光を抑えきれないカーテンは一直線の光をさしていた。その光は部屋中に漂う埃の粒子を照らしていて、息をすることに少しの不快感を覚えさせる。
いつもの気の重い朝の始まりだ。
従業員を人として扱う気がないような客ばかりが訪れるコンビニのアルバイト。最近ではこれが翔也にとって一番の苦痛だった。時給九百円でレジ打ち、商品棚の整理、掃除、色々なことをしなければならない。何でこんなことをしているんだろう、動画配信サイトで無駄なことに大金を使っている金持ち達を見るとそう思う。
午前中のアルバイトを終えた翔也は、午後から始まる自動車学校のレッスンへと向かった。最近ではこれが翔也にとって一番の安楽だった。一緒に車に乗って教えてれる担任の教師がとても美人なのだ。それだけが、自動車学校へ通う励みであり、モーターだった。
「こんにちは。今日も安全運転でよろしくお願いします」
スーツを着た例の教師が車に乗り込んできた。
「はい。よろしくお願いします」
翔也は緊張を和らげるために両手で掴んでいたハンドルを撫でると、右足でゆっくりアクセルを踏んだ。
舗装された新品の道路。白い線からはみ出すことがないようにハンドルを調整する。時々、横にいる先生の顔色を伺う。
先生はいつもしかめっ面で教師用の緊急時ブレーキに足を添えている。常に翔也よりも張り詰めた空気感を出しているのだ。翔也は信号機に引っかかった時に前から気になっていたことを聞いてみた。
「先生って何でいつも車乗ってる時険しい顔してるんですか?」
「初心者の運転がどれだけ危ないものか、ちらちらこっち見ないでいいからちゃんと前を見て進みなさい」
「は、はい」
翔也は先生の右側のおでこだけがいつも髪で隠されている理由を他の生徒から聞いたのだ。先生は一緒に乗っていた生徒が事故を起こし、その生徒を死なせてしまったことがあるらしい。何とか先生は一命をとりとめたみたいだが、無論、教師である先生の責任であり、亡くなった親御さんが教習所まで怒りをぶつけて来たこともあったそうだ。先生はその事故を機に、おでこの右側についた傷跡を隠すようになり、毎回気を抜かないように一生懸命指導に取り組んでいるらしい。
「お疲れ様。先週よりは安全運転できるようになっていたけど、まだウインカーを出すタイミングが遅い。それにブレーキ連続で踏みすぎ。もう少しリラックスして運転することね。今後も気は抜かないように」
「はい」
「解散」
そういうと先生はさっさと奥の方に消えて行ってしまった。
翔也は先生と同じ空間にいれたという余韻に浸り、弾みっぱなしの心のまま帰宅した。
翌日。翔也はアルバイトに出ていた。相変わらず態度の悪い客ばかりで、収入を得るために我慢し続けていた。
「ありがとうございましたー」
一切口を開かない不愛想な客の背中に向かって頭を下げていると、新しい客が自動ドアから入ってきた。入店時の陽気なリズムが流れる。
翔也は即座に気づいた。先生だ。横にあった電子レンジの側面に映る自分の顔をさりげなくチェックすると、背筋を伸ばし、未だ先生の存在に気づいていないかのような振る舞いをすることにした。
「お願いします」
先生は手元の財布にだけ目を向けてガムと煙草をレジの台に乗せた。
「八百五十円になりまーす」
慣れた様子でレジの機械を操作する翔也。そしてレシートを手渡すとき、先生と翔也の目は合った。
「佐藤君?」
「あ、はい。こんにちは先生」
翔也は大きすぎない自然なリアクション取ろうと、驚いた表情を見せた。
「まさかここでアルバイトしてるとは。佐藤君って十九歳くらいだったっけ?」
「はい。今年で二十歳になります」
「平日の昼間だけど、大学は行ってないの?」
「はい。実は浪人生で」
「浪人生かー。それは大変だ。とりあえず車の免許とらないとね」
「はい」
「じゃあまた教習所で」
「はい。ありがとうございまーす」
翔也は他の客よりも深く頭を下げた。
それから一週間後、翔也は再び教習所に行った。
「こんにちは。今日も安全運転でお願いします」
「はい」
翔也はアクセルを踏んだ。横の白い線を踏まないようにハンドルをきる。しかしその時、ゆっくりと進んでいた車は止まった。先生が足元でブレーキをかけたのだ。
「佐藤君。今日は何かいつもと違うのだけれど。悪い意味で」
「そうですか?」
「そうだから言ってるのよ。今は教習所の中の小さなパークを走ってるだけだけど、本番はもっと危険が増すの。一つ一つの動作に集中しなさい」
「はい」
翔也は初めて先生に怒られた。助手席で腕を組んでいる先生は顎を前方に向かってクイッと指した。
翔也はそっとアクセルを踏む。
何となく気づいていた。今日の先生が不機嫌だということに。車に入ってくるときのドアの閉め方からいつもと違っていたのだ。
練習後。翔也は聞いてみた。
「何かあったんですか?」
「別に何もないわよ。早く帰りなさい」
「あ、はい」
やはりいつもと比べて態度が明らかに違う。怒りの募っている先生の威圧に圧倒された翔也は、静かに帰っていった。
午後の自動車学校が終わり、毎日の勉強時間が始まる。しかし、頭の中は先生のことでいっぱいだった。理由の推測で溢れていた。結局、六時間の中で真剣に取り組めたのは四時間だけだった。
それから来週の自動車学校。
今日もまた、先生は不機嫌だった。先週と全く変わらないドアの閉め方をして、いつもより指導が辛口だった。
「先生?」
練習終わりに翔也は、怒られないよう恐る恐る聞いてみた。
「最近、怒ってないですか? 何かありました?」
「何もないわよ。ただ仕事多くて疲れてるだけ。はい、帰りなさい」
「はい」
今日も翔也は聞けなかった。
それからまた来週。出来事は起こった。
自動車学校に行くと先生が黒いスーツを着た男二人に向かってひたすらに頭を下げている。
「すみません。あと二日だけください。もう少しで集まるので」
このような先生の様子を初めてみた翔也は何事かと思い、近くにあったベンチに座った。
「奨学金返せない教師がどこにいるんですか。奨学金くらい、出せるでしょう。この前煙草吸ってたでしょ? あなた分かってます? 借金は人に借りてるお金なんですよ?」
「はい。分かっております」
「じゃあ、何するかわかっとるなぁ?」
背後からがたいの良い男が加わってきた。
「はい。あと二日だけ。二日だけ。お願いします。二日さえ待ってくれれば必ず返済致しますので!」
先生はひたすらに頭を下げる。
「二日後、またここに来る。最後だぞ」
「はい! ありがとうございます!」
そして、黒いスーツの男たちは教習所から出て行った。
仕事場まで乗り込んでくる借金取り。翔也はドラマで存在は知っていたが、初めて見たものだった。
「先生、大丈夫ですか?」
「大丈夫」
そういうと先生は受付の奥の方へと潜っていってしまった。
今日も練習は始まる。ハンドルを握り、慎重にアクセルを踏む。隣に座っている先生は先程とは違い、いつもの表情へと変わっていた。
翔也は練習後、先生に声をかけた。
「先生。何か僕に出来ることがあれば、声かけてください」
そうすると先生は、受付で作業をしていた手を止めて即座に答えた。
「じゃあ、お金貸して」
先生の表情は冗談ではなかった。
翔也はあれから一度も教習所へは行かなかった。お金を貸すことが出来なかったという罪悪感などではない。ただ単に、教習所へ行く励みが消滅したのだ。先生がどのような経緯をたどってあのような状態にまで陥ってしまったかは分からないが、先生に対して覚えた失望感に気づいた頃にはもう、翔也の足は教習所へは向いていなかった。
翔也は今まで浪人がどれだけ情けないものか知ったつもりで過ごしてきた。しかし、自分が思っている以上に周りの評価は大袈裟なのだと、先生を見て気づいた。翔也にはまるで、この前の先生の姿が今の自分のように見えたのだ。未だに実家に居座ってダラダラと浪人をしている自分を両親はどう思っているのだろうか。
翔也は狭い部屋で一人、思いを巡らした後に、英単語長を手に取った。
後悔 ボブ @tanigutiakira
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