第10話 守るべきもの Part2

「いやぁ、今日は本当に楽しかった。」光時の部屋のリビングのソファーで寛ぎながら、風呂上がりのカルピスを手にしみじみと沙耶子が言った。「中間テストの打ち上げに行けなかった分まで取り返した気分。それに夏野菜カレーも最高においしかったよ。野菜ちゃんと使えるじゃない。市販ルーを使わないでスパイスを調合って凄いよね。」「夏野菜カレーはネットレシピだけどな。初カラオケ、そんなに楽しかったんだ。」食器を洗い終わった手を拭きながら光時が応えた。「うん。特訓の甲斐があったよ。千さんからプロみたいって言われたし、100点でたよ。」「まぁ、式典寮では宝塚音楽学院並みに歌と踊りを教えこまれて、その上絶対音感と絶対音程再現能力、選択性完全記憶能力ってチート持ちなんだから、プロ並みって言うのも大袈裟じゃないんだろうけどな。しかし、特訓って言ったって、流行りの歌を20曲ほど一回ずつ聞いただけじゃないか。」沙耶子との「特訓」を思い出し少し苦笑いを浮かべた。一度もカラオケに行ったことが無い沙耶子にせがまれPCアプリでのカラオケ練習に付き合った光時は、国、時代に関係なくどんな音楽でも一度聞いただけで音階を把握し、それだけではなく、雅楽器はもとより主要な鍵盤楽器、弦楽器、管楽器、さらには歌でもそれを再現できる沙耶子の能力を目の当たりにしてルックスを含め、庸が終われば音楽関係に転職した方が彼女のためではないかと本気で考えたりもした。光時はアイスコーヒーのグラスを片手に沙耶子の横に座った。沙耶子は甘えたように額を光時の左腕に擦り付ける。風呂上がりの少女の甘い香りが鼻腔をくすぐる。「今日はありがとう。」「楽しめたのならよかった。カレー位ならいつでもつくるよ。」倭媛(やまとひめ)の血を継ぎ、袴着(古くは男女に関わらず公家の幼児に初めて袴をはかせる儀式。ここでは3歳の儀式。)を終えるや親と離れ式典寮に入り神を慰め、国と民の平穏を願う儀典はもとより一般教養、さらには穢れ払いのための戦闘訓練まで叩き込まれ、裳着(10代前半に行われる女性の成人式。ここでは12歳の儀式。)が済むと神結(かみゆい)を経て祝部の巫女として神域に籠りそこから一歩も出ることもなく、日々の日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)をはじめ四季折々の神事を執り行い祈りをささげる生活を4年過ごした少女は庸を課せられ穢れ払いに徴用されるに際して一つ叶えられる希望に「学校に行きたい。」とだけ望んだ。共に同じ目的の上に鍛錬し合い、いずれは生死を掛けた戦いに臨まなければならない同僚ではなく、何の屈託も係留もなく語り合える友人を初めて得、彼女たちとの何気ない日々を語る笑顔は何物にも代えがたい尊い宝物に思えた。それを守るためならば全ての鬼を、妖を、人を敵に回しても良いと思えた。自らがこの愛おしい人に会えなくなることさえも厭わなかった。一方で光時が「人を辞め、妻になって欲しい。」と願えば彼女は応えてくれるだろうか。沙耶子の髪を右手で鋤きながら最近幾度も思うことを声に出さず心の中で自らに問いかけてみる。沙耶子は目を閉じ光時が触れるままに任せていた。3度目の穢れ払いを終えてから共(むた)の連携強化とSDGsへの取り組みの一環と称して朝食から入浴まで沙耶子は光時の部屋で過ごすようになった。男子高校生には信じられないであろうがそのような生活をしていながら光時と沙耶子は所謂深い関係にはなかった。光時が奥手、あるいは朴念仁というわけでもない。むしろ一晩限りの関係を持った女性の数はこの歳で2桁に達していた。沙耶子が純真無垢すぎて自身の行動の意味を理解できていない訳でもない。神域に隔離されていたとはいえ男女の間柄に関する歳相応の常識は有していた。ただ、鬼と人の特殊な関係が二人の心にブレーキをかけていた。妊娠、出産のリスクを他種族の女性に担わせるという進化戦略を採った鬼神族は精液に3種類の共生ウイルスを持ち、継続的に交わった女性の免疫機構を改編し、異種族である鬼神族との受精、着床、妊娠の継続を可能とさせる。他にも人に対しては神経組織、筋組織を電子伝導型に変え、肝臓と肺の一部を発電器官に変化させる。2年程度の性的関係の継続で人を鬼に変えてしまう。鬼と婚姻を結ぶことは人を辞めることに他ならない。祝部の巫女として妖に関する知識を学んでいた沙耶子ももちろんそのような事情は承知していたが、光時の人柄から彼が沙耶子の望まないことは決して行わないとの確信を得た上で好意を持った異性に触れられることが思いのほか心地よいことを知り、つい自ら望んで光時の愛撫を受け入れていた。しかし、すべてを委ねる決断はまだ下しかねていた。「明日は東京の桃花流水会(とうかりゅうすいかい)本部に行くのでしょ。何時に出るの。」気持ちを切り替えて光時の明日のスケジュールを確認する。「新神戸始発の新幹線を使うから5時半に月見山駅。ここを5時20分ごろに出るつもりだ。里見先生には適当に頼む。水泳大会の承諾書も出しておいてくれるかな。」「了解。明日のロングホームルームで文化祭の出し物めるそうだけど希望はある?」「沙耶子さんのバニー「却下。」チェッ。」「舌打ちしない。みんなの意見に従うということね。ところで、穢れ払い途中での報告要請ってよくあるの?」「珍しいけどないこともないな。」「ふーん、そうなんだ。朝ごはんは4時半でいい?」「うん。それで頼む。じゃぁ、今日はもう休むよ。」「そうね。お休みなさい。」軽く抱きしめて額にキスを落とす。いつものように沙耶子が自室に帰っていくのを見て光時は少し切ない気持ちになっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る