第2話
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「はーい、じゃあ、この問題わかるひとー」
わたしたちの頭の上を駆け抜けていく、無駄に明るい声。その声が通り抜けたところから、にょきにょきとまるでつくしみたいに手が伸びてくる。
「はーい!」
「はーい、はーい!」
うるさい。いやんなっちゃう。あのウザい、わざとらしい先生の喋り方も、そんなことには気づかずに、呑気にその口車に乗っかってる周りのみんなも。こんなの、別に正解をみんなの前で披露しなくたって、自分一人が分かってればそれでいいじゃない。なんでそれを大声で発表する必要があるの?
机に広げた国語の教科書には、同じような見た目の文字がこれでもかってくらいにびっしりと並んでる。それでも、そのなかの何文字かだけ、分かりやすく縁取りがされてた。
『血も涙もない』
その言葉だけが、黒の鉛筆でぐるぐると囲まれてる。
いつだったか、授業が退屈すぎて一人で教科書の先の方を読んでいたときに見つけた言葉。最初は意味が分からなかったけど、すぐに机にしまってあった国語辞典で調べた。あのときだけは、重たい辞書を毎日持ってくるようにって五月蠅い先生に感謝した。
冷たいこと。人間らしさがまったくない様子。
辞書には、そう書いてあった。これをみたとき、わたしはしばらくそのページを閉じることができなかった。その言葉は、わたしがずっと抱えていた気持ちを、ずばり言い当ててくれているように思えたから。
血も涙もない。人間っぽくない。人間じゃない。
そう、そうなんだ。そうに違いないんだ。ずっとおかしいって思ってたんだ。
なんでこのひとはこんなことをするんだろう、って。
わたしならこんなこと絶対にしないのに、って。
でも、そんなの当たり前のことだったんだ。
だって、そもそもひとじゃなかったんだもの。わたしとは違う、まったくの別物だったんだもの。わたしには考えられないようなことを平気でするのだって、そう考えれば普通でしょ?
「じゃあ、次はこの問題を──」
やっぱり、今日も授業は退屈だ。筆箱からボールペンを出して、赤色を出す。前は黒を使ったから、今度は赤でいこう。その方がきっと似合うし。
赤ペンをいつもよりちょっとだけ慎重に構えて、その文字を、黒の線の上から、もっと力を込めて囲う。黒と赤が混ざったヘンな色は、昨日出た血の色にちょっとだけ似てる。
一周。
二周。
三周。
お母さんも。
先生も。
ここにいるみんなも。
みんな、血も涙もない。
ひとじゃないんだ。
カッターで切ればちゃんと血の出る、わたしとは違って。
それからも特に意味もなくペンを動かし続けてると、さっきからずっと聞こえてきてた先生の声がピタリと止んだ。……なんか、嫌な予感がする。
「……橘さん?」
……ああ、もう。ホント、鬱陶しいな。
どうせ、一人だけ俯いて先生を見ないわたしが気に入らないんでしょ。それなのに、わざわざ優しそうな声を作って、中途半端な作り笑顔でわたしを見てるんだ。顔を上げなくったって分かる。
もちろん、分かってる。今からだって遅くない。ちゃんと顔を上げて、「ごめんなさい」って言っとけばそれでいいんだって。わたしだって、これがこの先生じゃなくって他の先生だったら、きっとそうしてたと思う。
けど、なんでこんなめんどくさい先生なんかのために、そんなことしなくちゃならないの?
そのまま顔を上げずにいると、とうとう先生はわたしの席までやってきた。誰も喋らない、けど視線だけは忙しなく行き来する教室で、足音が段々大きくなってくる。そして、わたしの視界に映る机に影が差した。
「橘さん? どうしたの? どこか具合でも悪いの?」
具合が悪い、だって。ヘンなの。そんなわけないって、一番よく分かってるくせに。そんな、口でだけはわたしを心配するようなことを言って。顔だけは優しそうに繕って。言葉だけは頼もしくって。
どうせ、都合が悪くなったらすぐにわたしのことなんて見捨てるくせに。
けど、それよりも分かんないのは、なんでこの先生は、わたしにあんなことをしたあともこんなふうに、まるでなにも悪いことなんてしてないみたいに、優しいふりで私に声をかけ続けるんだろうってこと。絶対、あのことを忘れてないはずなのに、なのにどうして?
どの面下げて、このひとはわたしの先生みたいなことをしてるの?
わけが分からない。気持ち悪い。
だから、きっとこのひとは、わたしと同じ人間じゃない。血も涙もない、人間みたいな別のなにかなんだ。そうに決まってる。
「……先生。『血も涙もない』って、どういう意味ですか?」
だから、仕返しのつもりで、ちょっとした嫌がらせのつもりで、そんなことを訊いてみた。
「ああ、その言葉が気になってたからずっと下を向いてたのね? でもね橘さん、そういうときはまず、手を挙げて先生に訊いてみてね?」
……まあ、分かってはいたけどさ。わたしの仕返しは、先生には通じてなかった。
やっぱり、人間じゃなくて違う生き物だから、こういうのも仕方ないのかなあ。
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