憧れの矛先

加賀山かがり

万華鏡の中に眠りウサギを飼ってみたい1

 外ではセミが鳴いている、家の中ではテレビの音とゲームの音が鳴っている。


「なあケン。お前しょっちゅうその手のモン見てるけど、少しは飽きたりとかしねーの?」


 カチャカチャとゲーム機を弄る音とゲームの音そのものを鳴らしている伊角ジョウがゲームそっちのけでテレビ番組に首ったけの大和ケンを呆れた顔で見ていた。


「むしろ飽きる方がよく分からないよ」


 番組には数年前の報道番組で使われていた映像が流れていて、コメンテーターの皆さんはそれを神妙な顔で見ている。そして手斧と懐中時計を振り回すウサギの柄が入ったオレンジ色のシャツに半ズボンという服装の大和ケンもまた神妙な顔で画面を見ている。ちなみに馬と羽根が交互に並ぶ赤い派手なアロハシャツの下に無地のインナーシャツ、通気性のよさそうな丈長のリネンパンツというよそおいの伊角ジョウはこれ見よがしに溜息をついていた。


「いやさ、俺だって別にその番組が嘘だとか、英雄ヒーローなんて本当はいないんだとか言うつもりはないけどさ。だからといって、お前そんな、今でも熱心に見るほどか?」

「戦っている様子とか逃げまどう人とか確かにそんなに沢山回さなくてもって思うときもあるけどさ。でもやっぱりインタビューがかっこいいもん。何度だって見たいよ!」


 画面の映像が青年のバストアップに切り替わる。

 画面の中のその彼は自分がアップにされていると気が付いて、真剣な表情から少しやわらかい微笑みを見せた。


『けっこう色々あって僕も大変ですし、多分皆さん方も大変だと思います。でもこの世の終わりみたいに落ち込んでほしくはないなって僕は思っています。あまり大きな声では言い辛いことを経験した方も少なからずいるとは思うので、あまり無責任なことを言うのも良くないかなとは思うのですけれど、それでもやっぱりふさぎこんでほしくはないです。まあこれは僕の勝手にそう想っているだけなので、その強制力とかは全然ないんですけれど』


 たははと笑っている青年へとケンは熱いまなざしを送っている。

 誰も彼もが映像に映る青年の顔を知っている。だけれど、誰も彼も名前は知らない。きっと後世にも彼の名前は残らない。

 でも誰も彼もが、その青年が英雄ヒーローであることを知っている。

 身近とは言えないかもしれない。それでもみんながみんな知っている。誰も誰だって疑っていない。この世界には漫画やアニメやゲームみたいな英雄ヒーローがいるっていうことを証明して見せてくれた。


「何というか、この言葉の節々から感じられるふつうさみたいななのがグッとくるわけなんだけど、分かる?」

「このお兄さんが英雄ヒーローなのは俺だって分かってるよ? というか俺でなくとも、多分日本中の人がみんなわかってると思うよ。でも、そんなにかじりついて見るほどかって言われるとそこまでは分からんのよ」

「でも何回も何回もこうやって特番やってるし、やっぱりそれなり以上に人気があるってことじゃない?」


 ジョウはしばし、押し黙る。


 頭の中であれやこれやと反論を考えて、

「確かにそれはそうかもしれないけど……、でもだからって毎回毎回見入る必要はないだろ?」

 ようやく出てきたのは苦しまぎれな一言だった。


「何度も見たいし何度でも見たい。何なら特番は全部ストレージに焼いてもらってるよ?」

「気合入りすぎだろこのクソ英雄ヒーローオタクがよぉ……」


 そんなことを言っている間もケンの視線はずっと画面に吸い付いている。

 余すことなく全部楽しみたいのが熱心なファンというものなのだ。特にこの青年は最後に答えたインタビューから三年間、全くメディアに映ることはなかった。テレビメディアだけに留まらず、あらゆるメディアにだ。これだけの有名人になってしまったら色々なネットメディアに少しくらいは何かが引っかかりそうなモノだというのに、不思議と一切そのようなものは見受けられていない。それどころか彼がどこの誰なのかという情報さえ一つも出てくることはない。


「だって、あの後結局何の音沙汰もなくみんながちょっとずつ忘れていくみたいな雰囲気になっていってるじゃないさ。ボクはちょっとそういうのヤだなって思うんだよね」

「ニュースとかで話題にならなくなったとして、それでみんながすぐに忘れていくなんてそんなことはねーと思うけどなぁ」

「分からないよ。人は意外と色んな事をさっさと忘れていく生き物だって、この間お父さん言っていたし」

「大人の感覚とおれたち子供の感覚はちげーし。きっと大人になると物忘れがはげしくなるんだよ。だからガッコの先生たちもおれたちに忘れ物しないように口すっぱくしていうんだぜ」

「それはぁ……、関係あるの?」

「しらねー」

「自分で言い出したんじゃないか……。そういえば、物忘れで思い出したんだけど、ジョウはなんでこんな早くの時間にボクの家にいるんだっけ?」


 今の時間は午前十時三十分を少し回ったところ。今は夏休みなのでそう変なことでもないけれど、しかし大体お昼過ぎくらいから遊びに行くことが多いので、ちょびっと、ほんのちょびっと、飲み終わった給食のパック牛乳を傾けたときに角に溜まる牛乳くらいほんのちょびっとだけしっくりこない。


「なんでって……、そりゃ今日がウサギ小屋の世話当番の日だからだな……」


 ジョウのそんな言葉に二人はちょっぴり目を見合わせた。

 さて今の時間を確認しよう。今は十時三十分を少し回ったところ、ちなみに今日の日付は八月三日。昨晩あったはげしい夕立ちのおかげで体感気温は連日の炎天下よりはずいぶんマシだ。しかしだからといって正午をすぎてくればそんなことも言ってられなくなってしまう。なんて言ったって連日最高気温は三十六度を超えているのだから。

 あぁ、神様仏様、邪気ある人間どもを蒸し焼きにするのは楽しいでしょうか? 人間はそのうち溶けて地面のしみになる機能を身に着けるかもしれませんよ。


「やべー!! 気温高くなる前にさっさと掃除とえさやり終わらせないと!! 俺ヤだぜ、クソ暑い中でウサギ小屋の掃除なんかするの!!」

「同感!!」


 二人は大慌てで手荷物を掴んでケンの家から飛び出していく。今はケンの両親も不在なのであわてながらもしっかりと家のカギを閉めることを忘れなかった。

 それから夏の日差しを浴びながら小学校までの十分の道のりを走って、何とか五分ほどで学校へとたどり着く。学校についたころには汗だくだった。暑い中で汗だくになりながらウサギ小屋の掃除なんかしたくないと言っていたはずなのに気が付いてみれば掃除を始める前から汗だくになってしまっている。諸行無常。


「あちー。やってらんねーよぉ」

「やらなくて困るのはボクたちじゃないんだけどね」

「そーなんだよなぁ。だからこそグチグチいってねーでちゃんとやらんとダメなんだよな……」

「自分が困るってだけならやーめたってしても自分の責任だけど、それでウサギを困らせるのはちょっと良心が痛むよね」


 ウサギたちを小部屋に収納して水道から繋いできたホースから水を撒いて、デッキブラシで床を擦る。

 ちなみにウサギには食ふんという自分のうんちを食べる習性があるのだが、それは大抵の場合ウサギ自身のお尻の穴に直接口をつけて行われるので、コロコロとした固形のうんちは清掃してしまったとしても特に問題はなかったりする。

 シャコシャコシャコシャコ――――、とデッキブラシで荒めにこすって全体をざっと水で流して、水切り用のワイパーを使って余計な水分をウサギ小屋の外の汚水路へと捨てる。そんな作業を二回ほどやって床掃除を終わらせた。


「……、今気が付いたんだけど、コレって小物とかの掃除先にやった方が良かったんじゃ……?」

「…………、細かいことは気にすんなよ」


 掃除は上から下にほこりを落としていくのが一番効率がいいという気付きを得たようだった。


「まあ床は全部終わってからまたホウキではけばいいしね」


 それからざっくりとエサ箱の回りの砂やほこりを落としたり、ウサギがかじれるように切り込みが入った小さめの原木からほこりを落としてタオルで軽くふいたり、給水機のほこりをはらったり、何故かある滑車をタオルでふいたり、といった作業をさっと済ませる。

 最後にもう一回地面に落ちたほこりをホウキではいて、大体全部の作業が終わった。


「まあ大体こんなもんか?」

「だと思う。エサもまだ十分ストックあるみたいだし、今は夏休みだからくず野菜とかもらって来れないだろうし……」

「ダメもとでもらいに行ってみるか!」

「えぇ?」

「行ってみようぜ、給食室……、には流石に誰もいなさそうだから、職員室にでもさ!」


 能天気なジョウの言葉に従って二人で職員室にとつげきしてみた結果、見事しおれたレタスを手に入れた!

 ちょっとの困わくと謎の満足感を得てウサギ小屋へと戻り、小部屋からウサギたちを戻してしなびたレタスを配給してみる。

 一番人に慣れているトビジロウが真っ先にしなびたレタスに食いついてもそもそと口を動かし始める。その間トビジロウは何故かケンの顔を見上げたままつぶらな瞳を輝かせている。


「おいしいかー?」


 ケンがぼんやりとトビジロウの食事風景を眺めていると、他のウサギたちもわらわらと群がってきた。


「ウサギ使いのケン」

「えぇ?」


 ケンを中心に小屋の中で飼育されているウサギたちが円状に広がっている様を見てジョウがぽつりとつぶやいた。


「そんなわけないじゃん。だってボクにはウサギたちの気持ちなんかなんも分からんもん」

「俺には分かる。今こいつらはレタスうまいって思ってる」

「本当にそうかな?」

「こんなにモシャモシャモシャモシャ草くってるのにまずいと思ってるわけはねーだろ?」

「あの人も言ってたでしょ。『本当に分かり合うことは難しい。お互いの言いたいことが分かったとして、お互いが相手の言い分に妥協できなければ結局争いは起こってしまう。それでもやっぱり分かり合うことは必要だと思っている』って」


 ケンの言うあの人とは往々にしてあの英雄ヒーローだ。


「それと、このウサギのってあんまり関係なくね?」

「同じ言葉をしゃべってたとしても人と人とで理解し合えないことだってたくさんあるのに、言葉が通じないウサギたちと本当の意味で理解し合えるのかなってさ」

「それは理解し合うってのがきもなんじゃねーか?」

「でもほら、ボクたちが勝手にウサギがレタスうまいって思ってるって決め付けてるだけかもしれないし、もしかしたらボクたちがこうやって話してる内容を理解してるかもしれないじゃん?」

「まあ確かにウサギがレタスうめーって思ってるは決め付けかもしれないな。けど話してる内容を実は理解しているはないだろ」


「まあそれはボクもそう思うけど。そういう話でもなくって……」

「全然分からん。どういう話なんだ?」

「えぇと、うーん。だから……、そうだなぁ……。ウサギというか他の動物とも人間同士と同じくらい分かり合えるようにならないかな、かなぁ?」

「うーん。それならそのうちそうなるんじゃね? なんか売ってるじゃん、イヌとかネコとかの気持ちが分かる機械みたいなやつ」

「何というかもっとこう、感覚的に出来ないのかなって」

「それは、難しいんじゃね?」

「やっぱり難しいかな」


 人は簡単に分かり合おう、分かり合えるというけれど、実は分かり合うためには色々な条件が必要だったりもする。言葉で言うほど簡単じゃない。でもだからこそ、分かり合うことを目指すのかもしれない。

 もそもそとレタスをほおばるウサギたちからふと目をはなして、学校の渡りろうかの方をなんとなく見てみると、そこを見慣れない人たちが歩いていた。


「ねえ、あの子知ってる?」

「うわ、このクソ暑い時期に長そで来てるなんてすげーな、あの人たち」


 渡りろうかを歩いているのは丈長の赤っぽい白衣が特徴的な大人っぽい女の人と、お姫様にラフな格好でとでもお願いするとあんな感じになるのだろうか、というような控えめなゴシック調の同い年くらいの女の子。

 住む世界は本当にこんな普通の小学校でいいのだろうか? と疑問になるくらいにはケンたちとは空気感が全然違った。


「別の学年にどんな人がいるかなんて正直全然知らんし、おれたちが知らなかっただけで意外とずっと同じ学校に通ってたのかもしれないぜ」

「確かにそれは一理あるけど……」


 ケンは尻切れトンボになりつつもジョウの意見に首をたてにふる。ただ、やっぱり少ししゃく然としていなかった。


(あんなに、何というか……、異質な子がいたら何とはなしにうわさぐらいは聞こえてきてもおかしくないような……?)


 遠目から見ただけでも分かるほどに異質な雰囲気をまとう女の子なんて、こんな普通の小学校にいたら目だって仕方がないはずだと思うのに不思議はない。


「そんなに気になるか?」

「いや、えぇと。うーん、……、気にならないと言えばウソになるけど……、」


 校舎の中へと去っていた人たちのことをずっと目で追う様に見ていたからか、ジョウが軽く首をひねった。


「まあ、新学期になったら分かるだろ。それでこれからどうするよ?」


 ウサギ小屋の中から空高く光輝く太陽様を渋い顔でにらみつけながらジョウが肩を落とす。


「この日差しの中で道を歩きたくないのはよく分かる」

「だろ? けど他に行けるところも特にねーしなぁ……」

「うーん……。あっ! そういえばジョウは読書感想文もう書いた?」

「まだだけど、ってか読む本も決めてねーよ。面倒くさいんだよなあ、あれ」

「図書室なら多分エアコンついてるだろうし、課題図書の一覧みたいなのもあったはずだから、とりあえず行ってみない?」

「おー、いいね!!」


 そんなこんなで二人は学校の図書室へと向かう。

 別に何の変哲もない図書室だ。

 今は夏休みなので特に真新しさもなんにもない。それでもシャッターカーテンで直射日光は防がれるし、急激な気温の変化と湿度の安定化のためにエアコンも効いている。全部本の保存状態を保つためだ。本にとって快適な空間は人にとっても快適な空間だった、神さま仏さまの並びに本もさまづけして並べてもいいかもしれない。


「あー、涼しい!!」

「だれもいねー!」


 夏休み真っ盛りのときにわざわざ小学校の図書室を使おうなんてもの好きはそうそういない。みんな普通に町の図書館の方に行く。というか多分夏休み期間中でもこの学校の図書室は解放されているということに気が付いている生徒自体がほとんどいない。折角の夏休みにわざわざ自分から小学校に来たがる生徒はまあまあな変わり者だろう。


「なんか簡単に書けそうなヤツねーかな。別にこの辺のでもいいっちゃいいんだけどなー」


 うーん、と入口すぐ近くにずらっとキレイに並べられている小学生向けの課題図書を見ながらジョウは首をひねっている。


「毎年毎年なんか今一ピンと来ないラインナップのような気がするのはなんとなく分かるけどさ……」

「あの現象なんなんだろーな? なんつーか、大人がおれたちに読ませたがる本って感じがして今一興味持てないんだよな。それなら流行った映画のノベライズ作品とかそういうの一冊くらいつっこんでくれよって」

「あはは。確かにもうちょっとボクたち向けの本がオススメされてれば少しくらいはやる気でるかも」

「マンガで感想文書いてもいいならこんなに困らずにすむのになあ」

「マンガそのものので書くのはダメって言われるけど、マンガみたいだけどマンガじゃない本で書く分にはなんにも言われないんじゃない?」

「低学年向けのやつなら心当たりあるけど、おれたちくらいの世代向けのヤツだとそういうのあんまりなくね?」

「探してみれば意外とあるんじゃない?」

「うーん……、確かに。つーか、おまえはどうなんだ? なんか他人事みたいな空気感じるんだが」

「えっ、ボク? コレって決めてる本はないけど、いつも通りあの事件関連の本の読書感想文書くよ?」

「……、筋金入りがよぉ……」


 ジョウが呆れ気味なから笑いを挟んでから、

「じゃおれはあっちでなんか良さそうなやつ探して来るわー」

 と続けて児童書のコーナーへと進んでいく。


 ケンはケンで資料系のコーナーへと移動する。

 実は今回の読書感想文に使いたい本が何冊かあった。

 ただ、それには少し問題もある。その理由は去年、読書感想文を書こうと思った時までさかのぼる。別に複雑な理由があるわけでも学校側からダメだと言われたわけでもない。ただ、本の内容が難しかった。


 そう、シンプルに理解しきれなかったから感想を書くに書けなかったのだ。難しい、よく分からないことは分かったけれど、読書感想文に難しくてよく分からなかったとは書けなかった。何となか自分なりにかみ砕いて、言葉にしようとしてみても、今一上手くまとまらないし、そもそも最初に示されている結果と仮定や経過の部分が全然自分の中でかみ合わなかった。


 本の内容が間違っているように感じられたならば、この本にはこう書かれているけれどボクはそうは思わない。と反対意見を書くことも出来る。そういう風にしてもいいとケンは彼のお父さんに聞いて知っていた。だから万が一の時のためにそういう感想文を書く心がまえもしていたのだ。だというのに、ふたを開けてみたら本の内容が難しくて全然分からなかった。しかもそういう本が何冊もあった。


 だから去年はくやしい思いに身をよじりながらあの事件をモチーフとした子供向けの本で泣く泣くだきょうし読書感想文を書いたのだ。

 そして一年たって、学校の勉強も難しくなって、漢字も覚えて、社会の勉強で歴史とか社会の仕組みとかそういうのを少し習って、自分なりにそれをなんとか飲み込んで理解出来た。今のケンにはそういう自負がある。

 一年前の本が読めなかった自分とは違うのだ!

 そう思って『英雄ヒーローはどこに消えた――?! メイベル騒動から見る自他境界概念の危うさ』という本を手に取った。


「ねえ、あなたってもしかして大和ケン君じゃない?」


 伸びの良い、だけれどどこかか細い声が急にした。

 慌てて振り返るとそこには薄い笑みが張り付いた女の子が立っていた。全体的としては黒を基調としたゴシックな雰囲気でまとめてある。ただ手足どころか首元まで丈長な服を着ているので真夏日続きのこの時期では熱中症が少し心配になる。


「キミはさっきろうかを歩いていた……?」

「あら、見られていたの……、ちょっとはずかしい」


 言葉とは裏腹に表情にほとんど変化はなかった。

 それにしても近くで見るとその異質さはより際立って見える。

 いくら同じ年ごろだと女子の方が男子よりも大人びて見えがちだとは言ってもこんなに子供らしさがかけらも残っていなさそうな表情をする女の子は見たことがない。


 何より、重力が違う。

 引力とか斥力とかそういう理科的、科学的なことではなく、近くにいるだけで自分自身の何かを強力に引きずりこまれそうになるような、何か。

 出会いの重力。あるいは、もっと根本的な人としての重力の強さ。そういうモノがその少女からは感じられた。


「ん? んん?? ちょっと、待って?? あれ、キミはなんでボクの名前知っているの?」


 そして、これだけ印象の強い女の子なのであればきっと忘れるなんてこと普通ならば出来るはずはない。


「……そっか、まあ仕方ないか」


 その女の子はわずかに目を伏せた。長くてはっきりとしたまつげが印象的だった。


「サラ? サラー? 私の用事も終わったから帰るよー」


 ケンが何かを返す前にそんな風な女の人の声が聞こえてきて、女の子はすっと視線を図書室の入口の方へと向ける。それにつられてケンの視線もすぅっとそちらへすいよせられた。

 そこには先ほどこの女の子といっしょに歩いていた赤い白衣が特徴的な女性がいた。遠目に見たときには気が付かなかったが、シックなシルバーレッドでフレームの細い眼鏡をかけている。

 どう見ても母親という年齢には見えない。だから年の離れたお姉さんなのかもしれない。ただそれにしてはあまり似た雰囲気はしない。


「それじゃあ……」


 何にも言わないケンに対して、女の子はそこで一度言葉を区切って、

「またね」

 少しだけなやむ素振りを見せてからそう言った。


「えっ、あっ、うん。また……」


 張り付いたようなうすい笑みにほんのわずかに雲が入ったような、そんな気がした。

 急に声を掛けられて、急に名前を呼ばれて、大した返事も出来ないままですっと去っていく女の子の背中をただぼんやりと見ていた。

 女性と女の子が合流して二人で何かを話しながらろうかの角を曲がってすがたが見えなくなるまでただじっと見入ってしまった。

 恐怖以外で身がすくむのは初めての感覚だった。

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