第四章 心 Ⅱ

 レクター博士が『魔笛』のツマミを回す。耳障りな不協和音が、今まで以上に鳴り響く。


「くっ!」

「キャッ⁉」


 善弥がレクター博士の言葉の意を察するのと、リゼが小さな悲鳴を上げるのはほぼ同時。

 『魔笛』が不協和音を奏でた途端、クリが動き出した。


「■■■ッ! ■■■■■■■■■■――■■■■■■■■ッ!」


 あの可愛らしい幼女の声帯から出たとは思えないほど、獣じみた声を上げ、クリがリゼを突き飛ばした。

 天高く跳躍。

 幼女の身体が宙を舞い、クルクルと回転して善弥の前に低い姿勢で着地した。

 牙を剥いて唸る。

 跳躍中に被っていた帽子は飛んでいき、頭部の獣耳があらわになっている。

 眼の瞳孔が開き、爛々らんらんと輝いている。

 それは先程までの人狼たちと変わらない、殺意に満ちた獣の形相。可愛らしい幼女の面影などどこにもない。


「クリ……」

「クリちゃん……」


 善弥もリゼも、言葉がなかった。

 ただ一人、レクター博士だけは愉快そうに笑い声を上げた。


「いいぃぃぃ! 実に良い! 思わぬ実験結果ほど面白いものはないぃぃぃ‼」


 レクター博士の狂った哄笑だけが響く。


「お前たちがその子供の人狼のなりぞこないを拾っていった時、私はまた興味が生まれた! はたして完全な人狼でなくても、笛の効果が出るのかとね! フハハハハ! どうやら私の『魔笛』は強度さえ上げれば、不完全な人狼でも完璧に掌握できるらしい、これはいいぞう‼」  


 善弥に難しいことは分からない。ただクリがレクター博士に操られているということだけは分かっている。


「なら――!」


 善弥はレクター博士に斬りかかった。 

 振るう双刃は、狂信の技術者を八つ裂きにせんとひらめく。だがその白刃は虚空こくうで急に止まった。 

 善弥と博士の間に、クリが割って入ったのだ。


「くっ!」


 振り下ろす剣を全力で止める善弥。

 クリは博士を庇うように立ちふさがる。


「フハハハハハッ! その娘は私が操っているんだぞ? 私を最優先に守るのは当たり前ではないか!」


 レクター博士の哄笑は止まらない。

 リゼが叫ぶ。


「クリちゃん! しっかりして! 目を覚まして!」

「――無駄だよ」


 レクター博士はなおも善弥たちを嘲笑う。


「私がやっているのは、いわば高度な催眠状態だ。理性や人としての意識など働きはしない、いくら呼びかけたところで意味などないさ」

「……意識のないまま、操られる」


 リゼはうつむいた。

 自身も技術者であるリゼには分かってしまうのだ。レクター博士が言っていることは本当だと。

 催眠にかかりやすい状態とは、即ち忘我恍惚トランス状態のこと。

 この状態の人間は、文字通り我を忘れている。

 適切な手段で通常の状態まで戻さなければ、外からの声は届かない。


「いやぁ我ながら実に良い作品だと思っているんだよ、この人狼化はね。人と狼を融合させることで、獣の本能を取り込み、催眠に不可欠なトランス状態を引き起こしやすくなるんだ。ここに至るまで幾つもの試行錯誤しこうさくごを――と、いかん。私としたことが、つい夢中になってしまった」


 狂おしいほどの熱気でまくし立てるレクター博士が、思い出したように冷静になる。


「今は今で面白い実験の最中だった。やはり終わった事よりも今起きている事に集中するべきだな――


 レクター博士の冷酷な笑みはここに極まり、端的に命令を下す。

 その瞬間、クリがまた動いた。

 幼女とは思えない獣じみた動きで、善弥に牙を剥いて襲い掛かる。


「■■■■■■■■■ッ!」

「く……!」


 クリが爪を立てるように右手を振り下ろす。善弥はそれを刀で受け止めた。

 瞬間的に二刀を交差させ、手首を捻り、刃ではなくむね――刀の腹で受け止める。クリの手足を切り落としたくない。

 善弥は押された。

 理性を失ってから、クリの膂力りょりょく自体が大きく向上している。

 これも人狼化の影響なのか。


「■■■ッ!」


 クリは振り下ろしの一撃を受けられた反動を利用して再度跳躍。

 空中で反転しながら善弥の背後へ回る。

 善弥は背後へ振り向きざまに、横薙ぎを峰打ちで一閃。刃を返した大刀を左から右へ振りぬく。

 着地の隙をついた見事な一撃。

 通常であれば確実に決まる。


 しかしクリはその小さな身体を活かし、着地と同時に腹這いになるほど深く地に伏せた。横薙ぎの一刀の下をくぐり抜けて、クリは善弥に肉薄。

 今度は左の鉤爪。爪を立てた状態で、腕を振りぬくクリ。

 クリの爪が善弥の右肩を掠めた。

 これが幼女の一撃なのか――着物の肩が破れ、肉が裂けた。

 クリの手は爪が鋭くなった訳ではない。人の手のままだ。だが、通常の人の手であっても、埒外の膂力と速度で振りぬけば十二分に人を殺傷しうる。


 クリは止まらずに、攻撃を続けた。 

 至近距離での鉤爪による連続攻撃。

 それは武術や格闘術とは呼べない、児戯にも等しい攻撃だ。だがリーチが短い分、回転が速い。攻撃が継ぎ目なく繰り出される。

 善弥は下がる一方だった。


 下がって攻撃を避けるのが精一杯で、切り返す余裕がない――否、切り返すこと自体はできる。だがそのためには、クリを斬らねばならない。

 刀とは斬る為の道具だ。その構造や重心のバランスにいたるまで、その全てが斬ることに最適化されている。

 故に、峰打ちではそのポテンシャルを十全に発揮できない。

 クリの攻撃は速い――しかし斬り捨てるつもりであれば、斬り返すことはできる。


 だが。

 ――だが。


(く…………ッ!)


 迷っているうちに、善弥はついに追い込まれた。

 善弥の背後を、崩れた小屋が塞ぐ。

 逃げ場がない。

 背中に瓦礫がれきがぶつかるまで、自分が退路を断たれていることに気付かないほど、善弥は追い詰められていた。

 眼前に迫るクリ。獣の形相で迫ってくる。

 事ここに至っては仕方がない――善弥は覚悟を決めた。刃を返すことなく大刀を振りかぶり、クリめがけて振り下ろ――


「ダメェェェ――ッ!」


 善弥が剣を止めるのと、リゼが叫ぶのと、一体どちらが早かっただろうか。

 善弥の必殺の一刀は空中で止まり、クリを両断することはなかった。

 寸前で静止する白刃を気にも止めず、クリは善弥を間合いに捉えた。振るわれる鉤爪。善弥は初めてクリの攻撃をまともに喰らった。


「がはぁ……!」


 胸板を十字に裂かれた。

 浅いが広範囲に広がる裂傷。血が飛び散る。

 クリはそのまま突進。善弥を押し倒し、善弥の腕を押さえと、首筋に牙を突き立てようと大きく口を開けた。

 首筋にクリの熱い吐息を感じた。


 善弥は押し倒された衝撃で息が詰まるのを耐え、すぐに仰向けの体勢から後方へ転がるようにして腰を上げ、クリの身体を少しだけ浮かせる。

 クリの身体が少しだけ浮いたところで、クリの腰を下から足裏で蹴り上げた。

 いくら膂力が強くなっても、重量まで変わるわけではない。

 クリを大きく蹴り飛ばし、なんとか身体から引き剥がす善弥。即座に立ち上がり、体勢を整える。

 呼吸を深くし、身体の状態把握に努める。


 胸の傷は大きいが深くはない、今すぐ死ぬような致命傷ではない。だがこのまま血が出続ければ、いずれ出血多量で動けなくなるだろう。

 となれば時間がない。

 短時間でこの窮地を乗り切りらなくてはならない。

 だがそんな事よりも――


「……ッ……?」


 善弥は右腕を一瞬見てから首を傾げた。

 大刀を握る右腕に痛みはない、外から見た怪我もない。刀を握る感覚もはっきりしている。

 なのに何故、さっきは振り下ろせなかった?

 それが何故なのか、善弥には分からなかったのだ。

 リゼがまた叫ぶ。


「善弥ダメ! クリちゃんを斬っちゃダメ!」

「困ったことを言いますね」


 いつも通りの口調で善弥は答える。


「このままじゃ、僕もリゼさんもクリちゃんに殺されちゃいますよ。分かってます?」

「分かってるわよ! でも!」


 それでも――とリゼは言い募る。


「善弥だって、クリちゃんを殺したくはないでしょう!」

「……それは」


 初めて善弥の顔に陰りが出た。

 善弥は迷っていた。

 自分はクリを殺したくないと思っている? そんな訳がないと、善弥は否定しきれるだろうか。

 またクリが善弥に迫る。

 繰り出される鉤爪を、刀の棟で払う――何故だ? 何故斬り払わない?

 なんで善弥はこんなにも苦心して、不利であるにも関わらず、クリを傷つけないように戦っているのか?


 鷹山善弥は剣。

 剣は斬る相手を選ばない。ただ刃圏に捉えた敵を斬り捨てるのみ。たとえそれが慣れ親しんだ相手であっても、敵となれば斬る。

 鷹山善弥とは、そういう男のはずだ。


「善弥! あなたがどんなに心に蓋をしても、あなたにクリちゃんを斬ることは出来ないわ。だってあなたは優しい人だから!」


(僕が……優しい……?)


「僕は人を斬るだけが能の人でなしですよ」

「じゃあなんでクリちゃんを斬らないの! 善弥が本当に人でなしで、人を殺すことしか頭にない異常者なら、とっくにクリちゃんを斬り殺してるはずでしょう!」 

「…………!」


 核心を突かれた。

 そうだ――最初にクリが攻撃を仕掛けてきた時から、善弥はクリの手足を切り落としたくないと刃を返して受けていた。

 リゼはさらに言う。


! 自分の大切な人が死んでしまうかもしれない――それに耐えきれなくて、正気じゃいられなくて、あなたは異常者のフリをしている! 大切な人を大切だと思わないようにしているの‼」


 クリの攻撃を必死に避けつつ、善弥はリゼの言葉に耳を傾けていた。


「育ての親の死に涙を流せなかった? 涙を流さないと、悲しんだことにならないの? 違うでしょ。あなたは自分が異常な人間だから悲しくない――そう思い込もうとして、心にふたをしているだけ!」

「…………」


 クリの攻撃を捌きながら、脳裏に去来するのは師の最後。

 そうだ。

 あの時涙は出なかった。それでも、張り裂けるような胸の苦しみを、善弥は味わっていたのではなかったか。

 そしてその胸の苦しみを――大切な人を亡くす悲しみを、もう二度と味わいたくないと無意識に思ったのではなかったか。


「今クリちゃんを殺してしまったら、あなたは本当に人でなしになっちゃう。お願い、誰かを大切だと思う気持ちをなくさないで。心に蓋をして、自分の大切なものから目を逸らさないで」

「……僕は」

「自分の大切なものを傷つきたくないからって、自分で斬り捨てるような事をしないで!」

「…………僕は」

「いつだって誰かの為に戦おうとする善弥が、人でなしのわけがない! あなたは優しい人なの‼」


 善弥は心臓を貫かれたような気がした。

 自分の中の欺瞞ぎまんを真っ向から突かれた――そんな気がしたのだ。

 不意に師の教えを思い出した。

 曰く、剣は心を写す鏡だという。

 心に迷いや邪念があれば、剣は鈍り冴えを失う。今まさに善弥がそうであるように。

 クリが頭から善弥の首筋めがけて突っ込んでくる。

 それを寸前で避けつつ、斬り込む隙を見つける――だが、剣は出ない。腕が善弥の命令を拒否したかのように、動こうとしない。


 認めろ。

 善弥はクリを斬りたくないのだ。

 それがリゼの言うように、善弥が優しいからなのかは分からない。善弥は未だに自分が心優しい人物であるとは到底思えない。

 それでもクリを。

 この小さく愛らしい栗毛の幼女を。

 殺したくないと思っている事だけは、間違いなく本当だと言える。

 善弥は覚悟を決めた――クリを斬るという覚悟ではなく、クリを殺さずに制するのだという覚悟を。


 それはひどく難しい。全力で殺しにくる相手を、殺すことなく取り押さえるのは至難の業だ。一歩間違えれば、善弥はクリに引き裂かれて死ぬだろう。

 だというのに、善弥の身体は軽かった。

 動こうしなかった腕が、脚が、今は軽い。伸び伸びと動くのを善弥は感じ取る。

 出来る――自分を信じろ。

 善弥はクリを殺さない。

 クリを人殺しにもさせない。

 必ず取り押さえる。


「■■■■■■――ッ!」


 何度目かのクリの咆哮と跳躍。

 右手を振りかぶった体勢で、クリが善弥に肉薄する。

 対する善弥は――剣を捨てた。


「ッ⁉」


 一瞬面食らい、クリの動作が遅れる。

 それを見透かしたかのように、善弥は一歩前に踏み込む。無刀取りを完成させたいにしえ剣豪けんごうの残した道歌どうかに曰く、

『切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ、ただ踏み込めよ後は極楽』

 とある。

 善弥はそれを実践した。

 下がるのでも、横へかわすのでもない。


 前だ。

 生死の狭間で、ただ前へと踏み込む。

 振り下ろされる鉤爪の下、クリの脇の下をくぐるように抜ける。一瞬でクリの背後を取った善弥は、クリを後ろから羽交い絞めにした。

 体重を預けて同体で倒れ込む。

 善弥は背後を取った状態で、クリの首に手を回して締めあげた。柔術の絞め技である。


「■■■■ッ! ■■■――ッ‼」


 クリはもがき暴れるが、善弥の抑え込みは緩まない。必死になって振り回す鉤爪も、背後に張り付く善弥にまでは届かないのだ。

 どれだけ膂力りょりょくが上がっても、ここまで完全に技が決まっては、力で返すことはできない。

 暴れていたクリはやがて動かなくなった。


「クリちゃん!」

「――大丈夫ですよ」


 動かなくなったクリを見て、駆け寄ってくるリゼに善弥は言った。


「気を失っているだけです。命に別条はありません」


 リゼはクリを見た。

 わずかに胸が上下している。息はある。

 首を締め上げる技は、傍目には相手を殺してしまいそうな危険な技に見える。だがキチンと手当さえすれば、外傷も後遺症もなく相手を行動不能にできる非常に便利な技なのだ。


「何とか殺さないですみましたよ」


 善弥が明るく笑い、リゼもつられて笑った。


「やったわね!」


 そんな善弥たちを見て、狼狽えていたのはレクター博士だ。


「そ、そんな、馬鹿な――!」


 目に見えて狼狽ろうばいしていた。

 立ち上がって二刀を拾い、レクター博士の方へと向かう善弥。

 レクター博士はビクリと肩を震わせた。

 善弥は笑っている。リゼに笑いかけた時の表情のままだ。だが――いやだからこそ、その笑みがレクター博士には恐ろしく見えた。

 殺意を秘めた笑顔というものが、如何に恐ろしいものなのかを、レクター博士は初めて経験した。

 善弥がまた一歩、レクター博士に近づいた。

 一陣の風が吹いたと思うと、博士の握る『魔笛』が綺麗に両断される。


「ひいぃぃぃ⁉」


 レクター博士は尻餅をついて後退りをする。

 善弥は切っ先を突き付け、言った。


「どんな風に死にたいですか?」

「――ッ!」


 レクター博士には、善弥のセリフが人の声に思えなかった。地獄に風が吹くならば、きっとこんな音がするだろう。

 善弥の笑みは変わらない。ただ全身から殺気を放っている。

 レクター博士は自身の死を確信した。

 卒倒しそうになる博士。善弥は刀を振りかぶり――


「――遊び過ぎたな、博士」

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