第二章 新時代の魔導書 Ⅳ

 ガゼルを撒いてから。

 善弥ぜんやはリゼの手を引いて、工場内を出鱈目でたらめに逃げ回った。工場内は警備員が凄まじい勢いで二人を探し回っている。

 事ここに至ってしまえば、逃走経路も何もあったものではない。

 二人はただ発見されないよう、人目を避けて逃げ回り続けていた。

 物陰に隠れ、二人は息をひそめる。


「ここ何処だか分かります?」

「分からない。動き回り過ぎて、頭の中の地図も吹き飛んじゃった」


 リゼは被り振る。


「大体、この工場無駄に広すぎるのよ」


 まあ、その広さのお陰で未だ発見されずにいる訳だが。


「この工場で生産される製品について調べた事があるの。正直こんなに大きな工場じゃなくても、作れるような数しか製造されてなかった」

「ということは……」

「『手記』もそうだけど、それ以外にも何か隠れてやってるんだと思う」

「……静かに!」


 足音が遠くから聞こえる。

 追手が迫っているようだ。そろそろ逃げ隠れする限界が近づいている。


(強行突破しかないですかね……)


 このままではジリ貧だ。

 完全に逃げ場を失う前に、打って出るべきか。だが無策で飛び出して、果たして工場の外まで行けるかどうか。


「ねぇ善弥、アレ」

「……?」


 リゼが廊下の先にある扉を指さした。

 『手記』が保管されていた研究室と同じ、機械式の鍵が付いた扉だ。どうやら『手記』と同じくらい重要な研究をしている部屋らしい。

 リゼは手早く工具を取り出し、また扉の開錠を試みる。

 足音がさっきより近づいている。

 リゼの手が焦りで空回る。もう少しで追手に見つかる。


 間一髪で扉のロックが解けた。 

 素早く部屋へ駆け込む二人。すぐに扉を閉めた。

 ふぅぅう――どちらからともなく互いの顔を見合わせて、善弥とリゼは大きく息を吐いた。 


「これで少しは時間を稼げたかしら」

「そうみたいです」


 扉に耳を張り付け、善弥が頷く。

 扉の向こうで警備員たちがこの部屋を素通りして去っていく足音が聞こえた。


「余程ここでやっている事を隠したいんでしょうね。機密度の高い研究室には、警備員でも許可なしじゃ入れないようになってるみたい」


 お陰で助かった。

 が、


「つまりここに立ち入った僕らは、捕まったら絶対に殺されるという事ですね」


 飄々と善弥が言った。


「一体何をやらかしているのやら……」


 部屋へ視線を向ける。

 照明がついていないので暗い。音の反響で、そこそこ広い部屋だということだけは分かる。

 照明をつけるとここにいるとバレてしまうので、部屋の照明は使えない。

 部屋の奥に何があるのか、よく分からない。

 奥でぼんやりと光る大きな円柱型の物が見える。まるで巨大な試験管のようだ。中には液体が詰まっていて、液体の中に何かが浮いている。


(……何だ?)


 唐突に違和感を覚える善弥。

 鼻腔に感じるかすかな異臭――動物小屋に入れられたような臭い。

 これは獣の臭いだ。


(奥に何かいるのか?)


 だが生き物がいる気配を、善弥は感じ取れなかった。

 奥に見える物が何なのか確かめるべく、善弥は慎重に部屋の奥へ進んでいく。


「あっそうだ、今ゴーグルで――」


 リゼが暗視ゴーグルを掛ける。その瞬間、


「…………ッ…………!」


 声にならない叫びをあげ、その場にへたり込んだ。


「大丈夫ですか?」


 善弥の呼びかけに、リゼはガクガクと身体を震わせ、何も言わない。

 善弥は少し驚いた。

 下町でヤクザ者に絡まれても、W&S社の黒服に追い回されても、リゼが言葉を失うほど取り乱すことはなかった。そのリゼが今、見たことがないほどに怯えている。

 一体闇の向こうに何を見たのか。


「すいません。ちょっとお借りします」


 仕方なく善弥はリゼの頭から暗視ゴーグルを外し、自分で掛けてみた。

 部屋の奥に視線を向ける。

 光源を増幅するというゴーグルの機能で、モノクロだが部屋の中の光景が鮮明に見えた。


「これは――」


 思いもしない光景に、善弥も息を呑んだ。

 巨大な試験管に見えた円柱は培養槽ばいようそう

 そこに浮かんでいる物体を善弥は何と表現すれば良いのか分からなかった。

 善弥と同じかそれ以上に大きな全長。

 頭部には鋭い牙。長く突き出た鼻。ぎょろりとした大きな眼。一見して狼に見える。


 だが、それは人だった。

 首から下の胴体は明らかに人間のもの。しかし、四肢の形が人ではなくなっている。指の先には鋭い爪。下肢は膝や足首の曲がりが明らかにおかしい。イヌ科の獣と同じ形状――人の脚ではなくなっている。


 何だ? 何だこれは?

 この異形を何と形容したらいい?


「……ウェア=ウルフ」


 ぼそりとリゼが言った。


「うぇあうるふ――?」

「西洋に伝わる伝承に出てくる化け物のことよ。こちらの言葉でいうなら、そうね……人狼じんろうになるのかしら」

「人狼」


 半人半狼の化け物。

 文明開化のこの時代に、まさかそんなモノが存在しようとは。

 血の気の引いた青白い顔で、リゼが首を振った。


「化け物なんているはずがない――この人狼は人工的に創り出されたのよ」

「え?」


 どういう事だそれは?

 理解の追いつかない善弥に、リゼは努めて淡々と言う。


「狼の身体と人間の身体を繋ぎ合わせたんだわ」

「狼と人を?」


 ということは――。

 善弥は培養槽の中に浮かぶ人狼を見る。

 どう見ても化け物だ。

 これが――元はただの人間だったというのか。


「人体実験……」


 善弥の呟きをリゼが首肯する。


「かなり高度な技術を持った技術者テクノロジスト、その中でも生命工学せいめいこうがくに秀でた優生学者ユージニストの仕業――恐らくレクター博士やったんだわ」

「優生学者?」

「乱暴に言えば、生き物の設計図をいじって、目的に叶う生き物を一から作り上げる技術者よ」


 なんて事を――そう言ってリゼが顔を歪める。


「人を実験材料に使って、こんな生き物を作っているだなんて……」


 そう言うリゼの言葉には、他人事ではない怒りや悲しみが含まれていた。


「……これが絶対に露見ろけんしてはいけない秘密ですか」


 善弥が冷静に言う。


「なるほど、こんなモノが世間にバレたら、大騒ぎどころではすまないでしょうね。海外の企業が国内で非道な人体実験――まず間違いなく国際問題になる」


 ましてその非道な実験をしていたのが、大英帝国の大企業だ。

 日本と大英帝国の関係だけには留まらず、様々な問題にも波及するだろう。戦争や紛争に発展してもおかしくはない。


「……しかし、狼と人間をつなぎ合わせるなんて事が本当に出来るんでしょうか?」


 いつも通りの飄々ひょうひょうとした口調で善弥が言う。

 目前に狂気の沙汰を見ても、彼は動じることがなかった。

 それこそ非人間的なまでに、彼は動揺するという事がない。


「不可能ではない……程度の可能性ならあるわ」


 善弥の態度に少し苛立ちを感じつつも、リゼは答えた。


「つまり成功する可能性は非常に低い」

「そうね」

「なら、アレは失敗作ということですかね」

「――え?」


 善弥は培養槽のから少し離れた地点を指差した。

 そこには大きな封筒状の布。その端から、狼の脚がのぞいている。


「これは⁉」

「どれも死体みたいですね。動く気配がありません」


 あっちにもまだありますよ――そう言って善弥は更に奥を指し示す。

 転がる幾つもの死体袋。

 十や二十ではきかない。一体どれ程の人間が運び込まれ、人体実験の犠牲になったのだろうか。リゼには想像もつかなかった。


「ん――リゼさん動かないで」


 唐突に善弥がリゼに声をかけ、右手を刀の柄に添える。


「何?」

「今、微かだけど動く気配が」

「⁉」


 リゼが身体を震わせた。

 人狼の強さが如何なものかは分からないが……少なくとも、ただの狼より弱いということはあるまい。

 ならば狭い室内で、人狼と戦って勝てるか――全く予想がつかない。

 気配がしたのは無造作に置かれた死体袋の一つ。部屋のすみに置かれた、通常よりも小さな袋からだった。


「ここで待っていてください。確認してきます」


 善弥は一人、死体袋を改めに向かう。

 不意の対応に備え、刀の鯉口は切っておく。

 神経を尖らせ、死体袋を開ける。


 中にいたのは小さな女の子だった。ひどくやせ細った幼女で、衰弱しているのが目に見えて分かる。培養槽に入っている人狼とは少し様子が違い、頭部は完全な狼になっていない。

 栗毛のおかっぱ頭。その側頭部から、人間の耳とは別にイヌ科動物の耳が伸びている。

 手足は人間のままで、狼を思わせる特徴は頭部の獣耳しかない。

 幼女は衰弱してこそいるが、まだ息があった。しかし動く様子はない。


「ふむ……危険はなさそうですね」


 善弥が緊張を解く。


「何だったの善弥?」

「人狼にされた女の子みたいです。取り敢えず危険はなさそうです」

「――見せて」


 善弥を押しのけて、リゼが幼女の様子を確かめる。

 リゼは幼女を見るなり痛ましげに表情を歪めたが、すぐに幼女の容体を確認し始めた。


「まだ息がある……けど酷く弱ってるわね。栄養失調と過剰なストレスによる衰弱みたいだけど」


 早くどこかで診せて休ませなきゃ――リゼはそう言った。もう既にこの名も知らぬ獣耳の幼女を助けることが、決定しているかのように。

 善弥は少し考えてから口を開いた。言いづらい事でも、用心棒として言わねばならない事もある。


「リゼさん、確認ですがその子を助けるつもりですか?」

「当たり前でしょ!」


 力強く断言するリゼ。


「ただでさえ僕らは追い詰められています。ハッキリ言ってこの子は足手まといです、逃げられる可能性は今よりも低くなるでしょうね」


 それでも――善弥は語気を強めて言った。


「リゼさんはこの子を助けたいですか?」

「もちろん!」


 一切の間を置かず、何の躊躇ちゅうちょもなく、リゼは言い切った。


「……ですか」


 善弥は少しだけ頬を緩める。

 素直にこの少女の用心棒で良かったと善弥は思った。

 追い詰められた状況で、なお他者を思いやって行動できる人間は少ない。リゼはその稀有な種類の人間だ。


 彼女の言葉は、状況を理解していないだけの甘っちょろい理想論とは違う。

 リゼは抜けているところはあるものの、基本的に賢い少女だ。自分たちが追い込まれているということは理解している。

 それでも幼女を助けると言っているのだ。

 剣士として、用心棒として、何より男として。

 そんな誇り高い少女の仲間になれていることが、何より嬉しかった。


「分かりました……となると、早急にここから脱出しなくてはいけませんね」

「それなんだけど」


 リゼが周囲を探る。


「何かあったんですか?」

「まだ見つけてないけど、あるんじゃないかと思って」

「何がです?」

「隠し通路が」


 幼女を抱きかかえながら、リゼは研究室のあちこちに眼を配る。


「隠し通路? どういう事ですか?」

「考えてもみて」


 リゼは死体の山を示す。


「W&S社はこの人狼化実験を隠してた。でも、これだけの被験者を集めて、かつ失敗作したら死体の処理もしなくちゃいけない。普通に運び入れたり、出したりしていたら、必ず警備員の眼に入るは。そうしたら必ず露見する」


 でもそうはなっていない。

 ということは――


「おそらく、この実験室に直通で外部と繋がっている秘密の隠し通路があるはず」


 なるほど、理には適っている。隠し通路がある可能性は高い。


「僕も探します」


 善弥も研究室の壁や床を丹念に調べ始めた。数分と立たずに、怪しい箇所を発見する。


「多分ここですね」 


 研究室の隅の壁に、微かだが空気の流れを感じた。

 壁には幾つかの計器が掛けられており、目盛りの上を針が上下している。


「この計器、出鱈目だわ」


 リゼがそのうちの一つを指さす。早速善弥が調べる。


「当りですね」


 計器の裏に仕掛けのスイッチがある。スイッチを押すと、隅の壁二メートル四方が手前にズレた。スライドして壁の裏に大きな通路が現れる。


「随分と大仰な仕掛けですね」

「このくらい大げさな仕掛けの方が、バレないものよ。さあ行きましょう」


 幼女を抱えリゼは先へ進む。リゼを追いかけて、善弥も隠し通路へと進んだ。

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