第41話 記憶(夜見塚咲)
思えば私は、幼い頃から澪に何かを奪われてばかりだった。
私たち姉妹は夜見塚に代々伝わる呪いのせいで、家族は勿論、村の住人たちからも疎まれていた。彼らは皆内心で、こいつらはきっと呪われた姉妹だ、今にあの老婆のような不気味な力に目覚めるに違いない、ああ気持ち悪い気持ち悪い、と存分に悪態を吐いていた。
だけど流石に彼らも現代人。面と向かってそんな言葉を口にすれば面倒なことになるのは承知していた。だから彼らは、口々に言うのだ。「お姉ちゃんなんだから、妹の面倒を見てあげて」それはつまり、私は澪の姉だから、他の人間の視界に入らないように責任を持って監視しろ、と暗に言っているわけである。
だから私は、小さいときから澪の遊び相手をしてあげた。……でも本当は、同年代の子たちに混じって私も遊んでみたかった。一部には親からきつく言いつけられて、私のことを毛嫌いしている同級生もいたけれど、そういう子ばかりだったわけじゃない。私だって勇気を持って踏み出せば、彼らの遊び仲間に入れてもらうことができたかも知れない。私はいつもいつも、楽しそうにはしゃいでいる同年代の子供たちを遠目から憧憬の眼差しで眺めていた。
でも私がそうしていると、お姉ちゃん、と澪が服の裾を引っ張ってくるのが常だった。私は、はいはい、と苦笑を浮かべて澪の遊び相手に戻る。それが、幼い頃からの日常だった。
そしてその生活はお祖母ちゃんの死後、つまり私が夜見塚の呪いの影響で病床に伏してからも変わらなかった。私が自室の布団に下半身を埋めながら本を読んでいると「お姉ちゃん、お姉ちゃん!」外の方から、威勢のいい女の子の声が聞こえてくる。縁側に面した襖が勢いよくスライドする。そこには、靴を履いたまま四つん這いで上がっている澪がいた。
「はいはい、どうしたの? そんなに慌てて。靴くらいちゃんと脱いだら?」
「いいの、すぐ庭に戻るから! 私、今から縄跳びするんだけど、お姉ちゃん、見ててくれる?」
「うん、いいよ。ちゃんと見てるから、やってみて」
「やった!」澪は咲き誇る向日葵のような眩しい笑みを浮かべる。「私、今日こそ二重跳びできるようにするから!」
澪は元気よくそう言うと、四つん這いのまま器用にバックして庭へと戻った。地面に置いてあった縄跳びを手に取って、顔を真赤にしながら果敢に二重跳びにチャレンジし始める。
私は澪のその姿を、ニコニコと品のいい微笑を貼り付けながら眺めつつ、内心ではこう考えていた。ふざけんな。なんのつもりだよ。もう外で運動なんてできない私に対する当てつけ? 遊びたいなら一人でやればいいのに、わざわざ病人に見せつけてくるとかどういう神経してるわけ? ……私はもう、どんなに頑張ったって、縄跳びなんかできっこないっていうのに。
「……ねえ、澪。こんなところで一人で遊んでないでさ。友達のところとか行ってくれば?」
もうやめて。これ以上、私に惨めな思いをさせないで。辛い思いをさせないで。
「えぇー? やだよ。クラスの子とか、別に仲良くなんてないし。むしろ、冷たくしてくるし。お姉ちゃんと一緒にいたほうがいいもん!」
「で、でも……。もう昔みたいに遊び相手になってあげることもできないし、澪も退屈でしょ?」
何よそれ。あんたがよくても私が嫌なの。奪ったのはあんたのくせに。私はあんたのために死ななきゃならないのに。そのくせして奪ったもの見せつけてくるようなこと、しないでよ。
「んーん、そんなことないよ! だって私……お姉ちゃんのこと、大好きだもん。こうやって話したり、遊んでるとこ見ててもらったりするだけでも、楽しいよ?」
天真爛漫で愛らしい笑みを顔一杯に湛えると、澪は再び必死の形相で二重跳びに励みだす。
私は結局、それ以上は何も言えずに、ただひたすらに澪の縄跳びを見せつけられる苦行へと戻った。しばらくすると、澪はとうとう二重跳びを成功させた。縄跳びを放り出して「やった!」と快哉を叫ぶと、靴をぽいと脱ぎ捨てて私の部屋に上がり込んでくる。
「お姉ちゃん! 見た⁉ 今の見た⁉ 私、二重跳び生まれて初めてできたよ! 凄くない⁉」
「うん、見てた見てた。凄かったじゃん。……私、二重跳びなんかできたことないなぁ」
澪は喜色満面になりながら、私の胸に飛び込んでくる。偉いね、と言いながら頭を撫でてあげると、澪はえへへ、と何ともみっともない顔で笑うのだ。……本当、こいつはどれだけ神経が図太いのだろうなぁ、なんて。侮蔑するような冷たい言葉を、私は心の中で吐き捨てた。
澪が私の前で披露するのは、ある日は縄跳びで、また別の日は壁相手のキャッチボールで、またまた別の日はサッカーのリフティングだった。そのどれもが私にはもうできそうもない代物で、それを見せつけられる度に私の心臓は締め上げられた。何でこんなものを見物しなくちゃならないんだ、嫌がらせのつもりかよ、と何度も何度も憤った。私が日に日に憔悴していくのは全部、あんたの魔眼を覚醒させるためだっていうのに……!
勿論、私だって本当は理解していた。これが夜見塚に生まれ落ちた姉妹の運命で、どうしようもないものなんだってことくらい。澪自身の意志でそうなったわけじゃない以上、澪を恨むのは筋違いだってことくらい。だけど、悪くないことと罪がないことはイコールじゃない。
そりゃわかるよ、澪が望んで私を犠牲にしようとしてるわけじゃないってことは。でもさ。だとしても、ちょっとくらい私の心中を慮ってくれたってよくない? だって私、身体が弱ってて運動なんてできないんだよ? 見せ付けたら辛いんじゃないかな、とか普通は考えるものじゃない? なのに澪はいつもいつも自分が楽しければ万事オーケーで、私の方がどんな気持ちでいるのかなんて片時も思慮を巡らせたりなんかしてくれない。私のことが大好きだって言ってくる割には、いつも私に甘えてばかりで、私の気持ちを想像してくれたことなんて少しもない。そんなのって……そんなのって、たとえ妹だとしても、いくらなんでもあんまりだ。
だけど、こんな辛苦はあの日に味わわされた屈辱に比べれば、よっぽどマシな方だった。
それは、ある晴れた冬の日の午前中のことだった。空気はいつも以上にシンと冷えていて、でもそれ故にとても新鮮なものに感じられて。すぅ、と深く息を吸い込んでみると、肺の底から自分という存在が生まれ変わっていくような錯覚をする。本当にそうならいいのに、と思いながら、手元のハードカバーに向けていた視線を縁側の方へと向ける。開け放った襖の向こうには、どこまでも高く、どこまでも澄んでいる、透徹なライトブルーの青空が広がっていた。
しばらくじっとしてると、流石に体が冷えてきた。そろそろ換気も済んだ頃合いだと思うので、襖を閉めようと布団から抜けて立ち上がる。が、すぐに前につんのめって倒れてしまった。
いつの間に、ここまで身体に力が入らなくなってしまったのだろうか。ほんの一年前には健康的な、年頃の女子らしくふっくらとしていた――決して太っていたというわけではない――腕も脚も、今では棒みたいに細くなってしまっていて、見るに堪えない有様だった。
私は襖のところまで四つん這いで進んで行って、やっとの思いで襖を閉める。それからまた四つん這いで布団まで戻って、本の続きを読み始める。いつかはハードカバーを持つのも辛くなってしまうのだろうか。私は憂鬱な気持ちになって、再びため息を漏らした。
……ああいや、駄目だ駄目だ。こんなに後ろ向きな気分にばかりなっていては。もっと楽しいことを考えないと。
実を言うと私には一つ、誰にも打ち明けていない秘密があった。というのも私は最近、欲しい欲しいと思いながらもずっと買うのを躊躇ってしまっていた、あるものを購入したのだ。
それは俗にゴスロリと呼ばれている、シックでクールでエレガントでゴージャスでグロテスクでほんのりキュートな、童話の世界から飛び出してきたみたいな華美な洋服だった。
生まれて初めてロリータファッションなるものの存在を知ったときの衝撃と言ったら、それはもう凄まじかった。少女性の極みとでも言うべき、可愛らしい衣服。そして人目を憚ることなくロリータファッションに身を包み、街を闊歩する女性たち。私にはそんな彼女たちが、とても眩しいものように感じられた。私もいつかはゴスロリで着飾って、東京の街を歩いてみたい。そんなふうに想像を膨らませて胸を高鳴らせるのが、そのときの私の唯一の楽しみだった。
誰かに見つかったりしないように押入れの中に閉まっているその服に、自分が袖を通した姿を妄想してみる。スカートの裾を優雅に翻しながら、くるりくるりと回っている姿を思い描く。アンティーク調のティーカップで紅茶を飲んでいる様子をイメージする。様々なシチュエーションを脳裏に思い浮かべていくだけで、塞ぎがちだった心は段々と晴れやかになっていく。
こうして私が空想の世界に思う存分身を浸し、微かに唇を吊り上げていたときのことだった。
「お姉ちゃーん、なんか荷物来たー!」
スッと勢いよく襖が開き、小ぶりのダンボールを携えた澪が入ってきた。体を動かすエネルギーが有り余っていて仕方ない、とでも言うかのように、部屋の中を意味もなく、くるくると走り回る澪。チラチラ覗く足元や腕からは、私とは違って健康そうな印象が漂っている。
「……ん、ありがと。適当に置いておいて」
私は作り笑いを浮かべながら言ってから、目を背けるように手元のハードカバーへと視線を落とす。澪はやけに元気な声で「わかったー!」と返事する。もっと普通の声量でいいのに、と内心で辟易した直後、ハッとした。そして背筋が凍った。
適当にして、と私が伝えたとき、澪はいつも荷物を押入れの中に仕舞うのだ。でもそこには今、通販で買ったばかりのゴスロリが入っている。私は待って、と声をかけようとした。
「わ、わ! なに、この洋服……⁉ すっごい、すっごい可愛い……!」
でも、それは遅すぎた。既に押入れを全開にしていた澪は、その中に丁寧に閉まっていた私のゴスロリを見事に発見した。私が狼狽していると、澪はまるでそれが自分のものであるかのように手に取って、こちらに向かってぴょんぴょんと飛び跳ねながらやってきた。
「ねえねえ、お姉ちゃん! この服、どうしたの⁉ もしかして、お姉ちゃんの⁉」
私は言葉に詰まった。だって、なんて答えればいいの? これは自分のだなんて素直に言えば、「お姉ちゃんはもう、お洒落して出かけたりなんかできないのに?」と胡乱げな視線を投げかけられるに決まってる。しばしの逡巡と葛藤の後、私は結局、こう言ったのだ。
「……っ、あ、あー、見つかっちゃったかー。それ、澪の誕生日にあげようと思ってたものなのに。こういうの、似合うかなって思って」
「そ、そうだったの⁉」澪は大仰に驚きながら、プレゼントを見つけてしまった申し訳無さと、可愛い服を手に入れることのできる喜びが入り混じったような顔をした。でも前者は次第に鳴りを潜めて、澪の顔面は見る見るうちに喜色満面になっていく。
「……ちょっと早いけど、それ、澪にあげるよ。よければ着てみる?」
澪はブンブンと嬉しそうに首を縦に振る。私が同じ部屋にいるのにもかかわらず、澪はものすごい速さで帯を解くと、その瀟洒なワンピースにおずおずと袖を通した。
「わっ、これすご……。ね、ねえお姉ちゃん、私、似合ってる、かな……?」
私は息を呑んだ。澪は珍しくはにかみながら、スカートの裾を両手でつまんで恐る恐る私の反応を窺ってきていた。その姿は、まさしく絵本の中に出てくる恥ずかしがり屋のお姫様そのもので、あまりの愛らしさに私は心臓を貫かれたような心地になった。
「……うん。サイズは大きいけど、似合ってるじゃん。可愛いよ、澪。……本当に、可愛い」
死人みたいな身体つきの私なんかとは違ってね。心の中でだけ、そっと付け足した。
「本当⁉」頬を朱に染めていた澪はその顔に再度喜びの花を満開にさせ、今度はお転婆なお嬢様みたいにくるくるとその場で回りだす。膨らみのあるスカートのフリルが蝶々のようにひらひらと踊って、澪の可愛らしさ、愛くるしさに拍車をかける。それはまるでその服自身が、自分の主はお前ではなくこの澪だ、と宣言しているかのようで。お前みたいな見苦しい病人に似合うわけがないだろう、と突きつけてくるかのようで。
……あ、奪われた。嬉しそうに飛び跳ねだした澪を眺めながら、私は漠然とそう感じた。
この子は私の命を吸い取るだけでは飽き足らず、夢見ることすら、空想することすら奪っていくのか。無邪気な笑顔を浮かべながら、虐げていることにさえ気づかずに。
私はいつも、この愛らしい妹から奪われる。自分だけ一方的に何かを捧げて、だけど澪の方から優しさが返ってくることは決してなくって。私はずっと心の中で泣かされていた。澪のせいで。澪に虐げられたせいで。澪に奪われたせいで。澪に見せつけられたせいで。
――ああ、本当に。私は、私のことが大好きなこの無邪気な妹が、心の底から大嫌いだ。
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