第13話 記憶(岸田真澄) 第三幕

 次に目を覚ましたとき、私は病院のベッドの上で呑気に身を横たえている自分を発見した。


「あれ、ここは……」


 うつらうつらした声でそう言うと、椅子に座っていたお父さんが駆け寄ってきて、私のことを力強く抱きしめた。お父さんはボロボロと大粒の涙を流していて、大人も泣くときは泣くんだな、なんてことを、私はぼんやりとした意識の中で考えた。


「……あ、そうだ。違うの。私……お姉ちゃんを、助けに行かなきゃ、いけないんだ。ねえ、お父さん。お姉ちゃんがね……お父さん?」


 その後にお父さんやお医者さんから説明を受けたときのことは、あまりよく覚えていない。頭の中に残っているのは単なる文字情報だけであり、検索したときに出てくるものと大差ない。


 大震災の影響で変換炉から活性霊素が漏れ出して、それによる物質への干渉の影響で霊素発電所に火災が発生。また、大量の活性霊素が放出されたことにより、村にいた住人の多くが一時的な魂抜けを起こして意識不明の状態に陥った。自衛隊の迅速な救助の甲斐もあり、その殆どは一命を取り留めた。しかし、不幸にも事故当時に霊素発電所の地下施設に潜り込んでいた岸田恵美――お姉ちゃんは、二度と意識を取り戻すことはなかった。唯一の救いといえば、地下施設内の消火設備が生きていたおかげで、焼死体とならずに済んだことくらいだろうか。


 活性霊素によって汚染された霊素村は自衛隊の化学科による洗浄を経たものの、政府の判断により完全に閉鎖された。私と両親は、政府の提供する霊素村住人用の仮設住宅に移り住むこととなる。霊素村のある茨城県は、一部地域は津波に襲われたものの、宮城県や岩手県と比べるとその被害は少なかった。電力会社の迅速で臨機応変な対応のおかげで、隣接県の福島にある原発が事故を免れたことも大きかっただろう。


 大震災から二週間後には小学校が再開した。地震で荒れた校舎の復旧が完了したらしかった。だけどそのときの私には当然、呑気に学校になんか通っている精神的な余裕はなかった。日がな一日、仮設住宅の寝心地の悪いベッドの中で、お姉ちゃんの形見となった木刀を抱きしめながら泣いていた。哀しみに打ちひしがれていた。


「……お姉ちゃん。ねえ、お姉ちゃん。何か言ってよ。……分身だって、言ってたじゃん」


 私は何度もお姉ちゃんの木刀に向かって掠れた声で呼びかけた。だけど、大好きだったお姉ちゃんの温かな声が返ってくることも、柔らかい手のひらで頭を撫でてくることもかった。


「……ごめん、なさい。私が……私が、いたから。私がいなかったら、お姉ちゃんは何とか逃げ出せてたかも、知れないのに。そもそも、あんな場所に行かなかったかも、知れないのに。……ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。……ごめん、なさい」


 私はパッキンの劣化した蛇口のように、生暖かい涙をだらだらと垂れ流し続けながら、延々と無意味な贖罪の言葉を唱え続けていた。


 事故から三ヶ月ほどが経ったある日、私は学校に復帰することにした。時の流れによって哀しみが和らげられたとか、立ち直る勇気が出たとか、そういう前向きな理由があったわけではない。ただ単に、哀しむことにさえ疲れ果ててしまっただけだ。私は木刀を胸にきつく抱きながら、以前とは違う通学路を、以前と同じように一人ぼっちで歩いていった。


 教室に足を踏み入れた瞬間、私は曖昧模糊とした違和感に襲われた。何故か、教室中の視線が全て私に向いているのだ。誰もが皆、私のことを遠巻きに眺めつつ、近くにいる同級生とヒソヒソと話をしている。なんなんだろう、と胡乱に思いながらも席につくと、隣の席に座っていた生徒が乱暴な物音とともに立ち上がり、スタスタと教室の隅の方に歩いていった。


 ……え。なに、これ? クラス中の皆が取り始めたあまりにも嫌味ったらしい振る舞いに、私は強い衝撃を受けた。別に私は皆から好かれていたわけではないけれど、かといって嫌われていたわけでもない。まさか自分が、こんないじめみたいな仕打ちを受けることがあるなんて。


 そのとき、一人の女子生徒が席を立って廊下へと出た。親友というほどではないけれど、何度か一緒に帰ったこともある、クラスの中では比較的仲のいい女の子だった。私は小走りでその子のことを追いかけて、ねえ、と声をかける。


「あ、真澄ちゃん……。どうしたの?」その子は引きつった笑みを浮かべながら、目を伏せた。


「それはこっちが訊きたいっていうか……。あのさ、なんなの皆? すっごい雰囲気悪くない? なんかちょっと、陰湿ないじめみたいっていうか……」


「……あれ。真澄ちゃん、気づいてないの?」


 その子は更にばつの悪そうな面持ちになる。私の顔色をちらちらと窺って、しばし逡巡するような仕草を見せた後、あのさ、と強張った声で切り出してきた。


「みたい、じゃなくてね。真澄ちゃん、これからいじめられるんだよ。真澄ちゃんがいない間、皆、陰口ばっかり叩いてて。学校来たらああしてやろう、こうしてやろうってわざとらしく騒ぎ立ててたし……。だからその、ごめん。これからはあんまり、話しかけないでほしいんだ。私まで嫌がらせされちゃうから。それじゃ、私、トイレ行くから。……ごめんね」


 本当にごめん、と最後にもう一度だけ呟いてから、その子は足早に私の前から立ち去った。


 こうして私は、クラスの皆からのいじめを受けるようになる。私の席の周りには常に不自然なスペースができていて、班活動で机をくっつけなきゃいけないときには数十センチほど距離を取られて、絶対に机が触れ合わないようにされた。給食の配膳のときには、私のときだけ不自然に量が少なくなったりした。授業中や休み時間には、暴言の書き殴られたノートの切れ端を何度も何度も投げつけられた。体育でペアになるときには相手の子からさり気なく舌打ちをされたり、逆に堂々と「せんせー、岸田さんと組みたくありませーん」と宣言されることもあった。この手の目に見える嫌がらせをしてきた生徒は、後で皆から称賛されて、英雄となっていた。同級生たちの間では、私に対してどれだけキツイいじめができるかでランク付けがなされているらしかった。


 この頃のネットやテレビでは、霊素の危険性を煽るニュースや霊素村の設立者である鴉場利明を批判する記事で溢れかえっていて、ほんの少しでも擁護しようものなら即座に激しいバッシングを受けた。科学的整合性に基づいて、霊素には危険もあるが確固たる有用性があるのだから上手く活用していくべきだ、とニュース番組で述べた科学者は、SNSで大量の罵詈雑言を送りつけられていた。また、番組出演時の彼の画像を切り取って作られた面白おかしいコラージュが大量に出回って、ちょっとしたブームになっていた。


 要するに、日本全体がそういう風潮だったのだ。霊素というのは人々を脅かす悪であり、だからこそそれを擁護する人間や、関わった人たちもまた悪で、そういった者どもに容赦なく、無慈悲に石を投げつけることこそが、そのときの社会における正義だった。霊素村出身で震災時に大量の活性霊素を浴びていた私は、紛うことなき罪人に他ならなかったのだ。


 だけど私は、そんなクラスメイトたちに報復をしたり、先生に告げ口をしたりはしなかった。前者については、そんなことをしたら余計に嫌がらせが激しくなって面倒な事態に陥るのが目に見えていたし、後者についても、日頃から私に向けられる担任からの疎ましげな眼差しを鑑みれば、期待できそうもないのは明らかだった。だから私は、ただただ耐えた。お姉ちゃんの分身である木刀を胸にきつく抱きしめながら。私を助けて。私を守って。そう何度も何度も呟きながら、ゲーム感覚で投げつけられる石の礫に耐えていた。


 そんな日常が終わりを告げたのは、私が学校に復帰してから三ヶ月ほどが経った日の、昼休みのことだった。トイレに行っていた私が教室に戻ると、後方で五、六人の同級生が屯しながら、クスクスと下卑た笑みを浮かべていた。その視線の向く先が私であることは明白で、またか、と乾いた感想を思い浮かべながら、淡々と自席に戻る。


 と、椅子の上に置いておいたお姉ちゃんの木刀が、なくなっているのに気がついた。これまで様々な陰湿ないじめを受けてきた私だけれど、物を隠されたりするのはこれが初めてだった。私は猛烈な嫌な予感に襲われて、忙しなく教室中を見渡した。どこだ。どこに隠された。


 教室の後ろにあるゴミ箱から、柔らかなブラウン色をした木材の先端が、微かに覗いていた。私は勢いよく立ち上がってゴミ箱へと駆け寄った。歯をギリギリと噛み締めながら、捨てられた木刀を回収する。だけどその木刀は、お姉ちゃんがくれた何よりも大切な木刀は、お姉ちゃんの分身にして形見である木刀は、これまでとは大きくその姿を変えていた。「霊素がうつる近づくな」「霊素汚染者は学校来るな」「霊素まき散らすな」「歩く活性霊素放出機」「霊素バカは消えろ」この手の私に対する罵詈雑言が黒色のマジックで乱雑に書き殴られていた。木刀だから書きにくかったのか、落書きの文字はどれも大きく形が崩れている。書き途中の文字をグチャグチャに塗りつぶして横に書き直しているものもあり、汚らしさに拍車をかけていた。


 ぷつん、と。自分の中で何かが、今まで必死で押さえつけていた何かが、決壊した音がした。


 気づけば私は「あああああっ!」と喚き声を上げながら、犯人と思しきクラスメイトたちに木刀で襲いかかっていた。完全に正気を失っていた。社会に罷り通っていた眉唾な正義を盾にして私のことを踏みにじってきたあいつらに、報いを与えてやらなければ気が済まなかった。


 私は手心なんて加えずに、今このときにできる全力を出しながら出鱈目に木刀を振るった。剣道のような武道からは程遠い、幼稚で拙劣な暴力行為だった。


「死ね死ね死ね死ね……っ! 逃げるなよ、このクズども……っ! 今まで散々いじめておいて、都合が悪くなったら被害者面するのかよ……っ! ふざけるな……ふざけるな……っ!」


「――やめて」唐突に、背後から誰かに腕を掴まれた。制止の言葉を耳元で口にされ、私は更に激情を駆り立てられる。突き飛ばそうと素早く顔を後ろに向けると、そこにいたのは。


「やめて……。お願いだから、もうやめて……真澄ちゃん……」


 私は息を呑んだ。その子は私が復帰した日に、話しかけないで、と私のことを拒絶してきた女子生徒だった。ごめんね、と嗚咽混じりに言いながら、力なく私の両腕に手を添えている。


 ……なんだ、それ。今更懺悔のつもり? 散々見て見ぬ振りしておいて? 罵倒の言葉が幾つも幾つも胸に浮かんできて、こいつのことも一緒に殴りつけてやろうか、と強く思った。


 だけど私には、それができなかった。怒りが収まったわけでもなければ、反省したわけでもない。ただ、ごめん、ごめん、と泣きながら謝罪の言葉を口にしてくるその子の姿が、お姉ちゃんを亡くした直後の私の姿とあまりにも酷似していたから。


 異様なほどの静けさに包まれた教室に、その子のしゃくりあげる声が染み入っていく。しばらくすると、担任の先生が教室に駆け込んできて、事態は一旦の収束を迎えた。


 その後、私はお母さんとともに校長室に呼び出された。


「――ふざけないでくださいっ!」


 お母さんが校長先生のデスクに勢いよく両手をついて、声を荒げる。


「なんで真澄が謝らないといけないんですか⁉ 今まで散々、真澄のことを虐げてきたのは、その子達でしょう⁉ どうしてこっちが悪者にされないといけないんです!」


「まあ、そうは言いましてもね。先に暴力を振るったのはそちらのわけですから。それにほら、今はこういうご時世でしょう? お子さんたちにも色々と不安があったんでしょうし、一概に悪いとも言えないでしょう。ほんの一言、ほんの一言だけでいいんです。相手方に謝罪してくれさえすれば、それで全てが穏便に片付くわけですから。ね、お願いしますよ。今は色々と難しい世の中ですし、こういう事件にも敏感ですから。ほら、なんてんです? あの、えすえむ……とかなんとか言うのに、あることないこと書かれちゃったりするわけでしょう? そうなったら、そちらも面倒なことになるでしょうから。ね、お願いしますよ。謝るだけでいいんですから。形だけでも構いません。ほんの一言だけで、全て丸く収まるわけですから、ね?」


 安っぽい愛想笑いを浮かべつつ、お母さんのことをどうにかして丸め込もうとする校長の弁舌は、完全に詐欺師のそれだった。その後もお母さんは果敢に抗議を続けていたけれど、暖簾に腕押しのやり取りに疲れ切ってしまったのか、「……わかりました。謝ればいいんですね、謝れば」と気の抜けた声でいい、力なく首を縦に振った。


 私はお母さんと二人で、私の木刀に落書きをした生徒たちに頭を下げた。でも案の定、すんなり事が収まるわけもなくって、「謝って済む問題じゃないですよね⁉ うちの子になにかあったらどうしてくれるんですか⁉」とかなんとか相手方の保護者が喧しく捲し立ててきて、それを校長と教頭がまたしても政治家のような舌先三寸の屁理屈で必死に宥めようとしていた。私は人形のように頭を下げた体勢で固まったまま、ぼんやりと考える。


 私、どうして頭を下げなきゃいけないんだろう。私って、被害者じゃなかったの? 安心安全とかいう謳い文句を掲げた政府や鴉場利明に騙された被害者。霊発事故で最愛のお姉ちゃんを失った被害者。家も家族も取り上げられて、尊厳まで奪われて。じゃあ次は一体何を失う羽目になるのかな、なんて。


 諦念にも似た絶望的な心地だけが、そのときの私の心中を満たす、全てだった。

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