第11話 心象世界(岸田恵美) 第二幕

 記憶の再生が終わり、私は再び心象世界の中で覚醒した。


 記憶のカケラによる記憶の流入は、私達のような傍観者だけでなく、本人や心象世界の主であっても適用される。真澄さんと恵美さんはしばし、互いに黙念と見つめ合ったままでいた。


「……そう。私は真澄に、からかってくる男子とかを跳ね除けられるようになってくれたらなって思って、剣道を教えることにしたの。強くなれば、いじめられることもなくなるかなって。でもそれは、とんだ勘違いだったみたいだけどね。だって真澄、あの事故の後――」


「っ、うるさい! 私のことを侮らないで……っ!」


 壁に寄りかかったままだった真澄さんは素早く立ち上がると、その勢いを利用して恵美さんへと襲いかかった。今度は真澄さんの方が、果敢に恵美さんに打ち込んでいく番だった。


 でも恵美さんは追い込まれるどころか、愛情と憐憫の入り混じったような表情で真澄さんを見つめつつ、呼吸一つ乱さずに真澄さんの木刀をいなしていく。けたたましい打ち合いの音が轟然と鳴る。ガキン、と空気を震わすその音は、さながら猛獣の雄叫びか何かのようだった。


「……あれ。ねえカナ。なんか、ちょっとだけ肌寒くなってきてない? 気のせいかな」


「いえ、事実だと思いますよ。これ、見てください」


 カナが身を屈めて足元に落ちていた葉を拾う。それは、炎のように鮮やかな朱色に染まった紅葉の葉だった。空を見上げてみると、澄み切った色濃いブルーに塗り込められていた青空はいつの間にか白く霞んで、鱗雲がかかっていた。秋の空だった。その風景に私が見入っている間にも気温はどんどんと下がっていって、気づけば私は両腕をきつく抱きながら震えていた。


「なにこれ、どういうこと? さっきまでは夏だったのに、なんか今、めちゃくちゃ寒いんだけど……! って、嘘でしょ⁉ いきなり雪降ってきたんだけど!」


 ほんの数分前まで真夏の炎天下のだった世界が、一瞬にして白雪の降りしきる真冬へと様変わりしてしまった。心象世界とはいえ、あまりに無茶苦茶な季節の流れに、私は驚愕の叫びを上げる。私はカナの様子を窺おうと、反射的に横を見た。すると、そこでは。


「さ、さむいさむいさむい……っ! ふざけんなよこちとらノースリーブだぞ殺す気かっ⁉」


 カナは暴走したマッサージチェアにでも座っているみたいに激しく身を震わせて、忌々しげな目つきで恵美さんのことを睨みつけていた。陶器のようにたおやかな細腕を大胆に晒したカナの姿は、傍から見ていても寒そう、いやそれを通り越して痛々しい。


「ねえ真澄。私達、ここで何度も何度も剣を交えたよね。よっぽどのことがない限り、休んだりもしなかった。……でもさ。私達、なんでこの場所を選んじゃったんだろうね」


「なんでって、あんたがたまたま、山の奥の方の非常口からここに入れるのを発見したからだろ……っ! そして私が、誰かに見られるのは恥ずかしいからって、駄々こねたからだ……!」


 山中の厳しい寒さに私達が音を上げる一方で、恵美さんと真澄さんは気温の低さなど意にも介さず、夏物の寒々しい服装のまま苛烈な剣の応酬を続けていた。


 そうしているうちに、気づけば雪はやんでいた。耐え難かった寒さも失せて、足元には桜の花びらがひらひらと舞い降りてくる。春だった。穏やかな陽気と春の日差しに私が心地よさを味わっていると、柔らかかった陽光は瞬く間にギラギラと輝きだして、どこからか蝉の鳴き声も聞こえてくる。茹だるような暑さ。考えるまでもなく、夏だった。


「真澄、ごめんね。私はお姉ちゃんだから、真澄のことを守らなきゃいけなかった。本当はこんな危ないところに、真澄のこと連れてきちゃいけなかったのに」


「……っ、今更、そんなことで謝らないでよ! 別にお姉ちゃんだけのせいじゃないでしょ⁉ そうやって加害者面されるのが、こっちとしては一番ムカつくんだよ、この……っ!」


「でも、事実でしょ? ……私としては、ちょっとした秘密基地みたいな気分だった。でも、そんな軽い気持ちで足を踏み入れていい場所じゃなかったんだよね、ここは」


 二人が剣と剣とを打ち合わせる度に、カレンダーの日付が一枚ずつ捲られていく錯覚をする。いつしか夏は秋になり、冬になってまた雪が降る。一瞬で積もった雪が一瞬で溶けていき、また麗らかな春になる。その春もほんのひとときだけで過ぎ去って、空の色がどんどんと濃くなり、強烈な夏の日差しに炙られる。目眩がするような暑さが急激に鳴りを潜めて、今度は燃える紅葉の秋が来る。そして三度目の冬が来て、大地が白く染め上げられる。その雪は次第に溶けていき、季節は巡り、次の春が訪れて――


「……そうだ。私だけじゃない。誰も彼もが、そんな簡単に信じるべきじゃなかったんだよ。安心安全な次世代のクリーンエネルギー、なんて耳障りの良い謳い文句を。そんな都合のいい代物が、この世に存在するわけはないのにね」


 次の春は、来なかった。その代わりにやってきたのは、ゴゴゴゴゴ、という地鳴りにも似た重低音。それから、直立していることさえ困難なほどの、猛烈な縦揺れだった。


「う、うわっ! すっごい揺れてる……⁉」「っ、大丈夫ですか? ここ、掴まってください」「え? あ、ありがと……」倒れ込みそうになった私のことを、カナが背中に腕を回して支えてくれる。私は控えめにカナの肩に掴まって、体勢を安定させた。図らずも抱き寄せられる形になって、私はつい赤面しそうになる。至近距離で見つめるカナの精緻な横顔は、やっぱり呼吸を止めてしまいそうになるほど端麗で、暴力的とも思えるほどだった。


「……予想はしてましたけど、大震災ですね。あ、また記憶のカケラが」


 言われて上を見てみると細やかな煌めきの鱗粉が、雪に混じって一定速度でひらひらと舞い降りている。その光景の美しさに見惚れるのと、私が記憶の流入を受けたのは同時だった。

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