伝えなかった君と聞けなかった俺
四十物茶々
伝えなかった君と聞けなかった俺
じりじりと熱い日差しが背中を焼く。若々しい黒髪は熱を吸収して頭皮の温度を上げており、体は機能的に冷やそうと発汗を促している。
夏は苦手だ。真夏の炎天下を歩くよう強いられている現状を恨みながら、
もう少し日が落ちてから来ればよかったなと思いながら、目的地に到着し、荷を下ろした。
そこには先祖代々と彫られた墓石が鎮座している。両手を合わせ、黙祷をささげると、隆太は持ってきた水を柄杓で墓石に掛けた。
「今年の夏も終わっちまうぞ」
誰に言うでもない言葉が、墓地の真ん中誰に聞かれることなく、灼熱の空気に呑まれていった。
*
彼女と出会ったのは、去年の春。新学期が始まったころだ。抜けるように白い肌と対照的に真っ黒で艶やかな髪が特徴的な女性だった。
「好きな季節は夏です」
凛と張った声で彼女は教壇の前で笑っていた。はにかむ笑顔は同年代の誰よりも大人びている。学級委員長という強い肩書を付けられて、学校にいる間は四六時中走り回る彼女の背を、知らず知らずのうちに隆太は追っていた。
華奢な手足に、たくさんの荷物を抱えた彼女を見るに見かねて声をかけたのは、春が終わる頃だった。
「長谷川くん、私と居たら嫌な噂を流されるよ」
クラスのまとめ役をしている間の彼女の溌溂とした笑顔はそこにはなかった。あるのは、暗く沈んだ深い深い人間不信という名前の闇だ。
「なんで?」
「私、いじめられてる」
出る杭は打たれやすいとは聞くが、まさか彼女もとは思わなかった。長く、黒く、艶のある髪が彼女の顔を隠してしまっている。細く平たい体が小動物のように小さく震えている。
「今度から、俺に相談しろよ」
天井のシミの数を数えながら隆太は彼女にそう声をかけた。下心が全くなかったといえば噓になる。
俺は彼女に惹かれていた。優しく、温かい笑顔を俺にだけ見せて欲しかった。
「ありがとう」
お世辞にも綺麗とは言い難い歪んだ笑みを浮かべながら彼女はそう、囁いた。その日、ついぞ俺たちの視線が合うことはなかった。
それからの日々は穏やかながら、充実した日々だった。よくよく彼女を観察していたら、本来、日直がする仕事も彼女がしていることに気が付いた。
そして、その押し付けるメンバーも把握した。所謂いつもの、数人というヤツだ。
声が大きく、礼儀を弁えないクラスの腫物。
彼女を虐めて居るのは彼らだと目星をつけて、校舎裏に呼び出したのは五月の中頃だった。
柔道部で鍛えた体であれば多少の暴力には耐えられる。「何を言っているのか分からない」ということを言いたいのであろう暴言を、右から左に聞き流して、一言、「彼女に近付くな」と声をかけた。地を這うような声だった。
――これで問題は解決すると、どこかで期待していた。
彼女が泣き濡れて教室から飛び出したのは、二日後の事だった。黒板には、デカデカと彼女と俺の熱愛発覚という言葉が躍っていた。なんのことだか分からなかった。
追いかけようとする俺を数人の友人が捕まえ、代わる代わるに質問を投げかけてくる。
その言葉が、砂粒程も耳に入ってこない現実に、隆太はただただ立ちすくんでいた。
その日、彼女は早退することになった。
白い顔を更に白くして、青ざめたような顔色で彼女が教員に介添えされて、ふらふらと荷物を取りに来た時は今すぐにでも倒れてしまうのではないかと思った。
伸ばしかけた手を強く強く握りしめる。爪が肉に食い込む感覚を感じながら、隆太はその背中を見つめる傍観者の一人になるしかなかった。
――人の噂は七十五日というが、学生時代の七十五日はとても長い。
彼女がそれに耐えるのは非常に厳しかった。初日あんなに溌溂としていた顔は今やもう見る影もなく、骸骨のように瘦せ細り、肌が土気色をしている。
何とかしなければと思うが、下手な噂を立てられてしまった以上、これ以上彼女の迷惑になるわけにはいかないと自制心が働く。
その間も、彼女の体調になどまるで気にも留めず女子は机の前で蹲っている彼女の背を叩いてなにやら叫んでいた。罵詈雑言が教室中に響き渡り耳を塞ぐ。
――俺にもっと勇気があれば、どうにかできたのだろうか。
日に日に小さくなっていく彼女の背に触ったのは、彼女と初めて会ってから四カ月が過ぎた頃だった。
「もういい、もういいよ……田中」
「長谷川くん?」
「自分一人で背負うなよ。俺にも、相談してくれ」
それは、懺悔だったのかもしれない。キリスト教の教会で、神父を前にしてする懺悔の様に俺は学級崩壊したクラスを背に彼女の手を握っていた。
「じゃぁ、もう逃げ出しちゃおうか」
にっこりと笑う彼女の笑顔は初日に見たその笑顔だった。
手に手を取って、昼休みに彼女と学校から逃げ出した。半袖の隙間から初夏のじっとりした空気が流れ込んでくる。不快だ。しかし、心は晴れやかだった。
午前中に降った雨が作った水溜まりをガンガン踏みながら俺たちは走れる限り走り続けた。
息が上がる。
へろへろと俺に手を引かれるままになっている彼女を捕まえて、川岸に転がった。
青臭い匂いが鼻孔いっぱいに広がる。
「よかったの?長谷川くん優等生だったのに」
「田中程じゃないよ」
くすくすと小鳥の囀りの様に彼女が笑う。
長い黒髪に指を通すと強い引っ掛かりを感じて首を傾げると「ごめんね」と彼女は視線を下げた。
「謝るのは俺の方だ」
結局その日、彼女は、自分が受けている虐めについて言及しなかった。
次の日、登校すると学校中が大騒ぎになっていた。走り回る教員の一人を掴み上げると、細い銀縁メガネをかけた国語教師は「大変なことになった」と顔を覆った。
後ろから聞きなれた声が聞こえて振り返ると部活の先輩たちが、俺を取り囲む。
てっきり昨日、ドタキャンしたことに対する説教だろうと思ったら、主将を務める先輩が「いいか」と含みを持たせて俺の肩を叩いた。
「落ち着いて聞け」
先輩の言葉を聞き俺は大急ぎで自分の教室に走り、教室前の黄色いテープを見て顔を覆った。「長谷川だ」と周囲から俺の名前を呼ぶ声が聞こえる。
KEEPOUTと無造作に書かれたテープを横切って、固いスーツを着た男が俺の前に立った。
「長谷川隆太くん、かな」
返事を待たず、スーツの男は一枚の手紙を差し出した。ばっちり整えられたオールバックの中年男性には似合わない可愛いピンク色の便せんが握られている。「いいから読みなさい」と視線で伝えられて震える手で便せんを開くと几帳面なほど小さな字で一言、俺に「ごめんなさい」と綴られていた。
筆記は間違いなく彼女の物だった。
*
彼女の事は、痛ましい事件として全国紙に載り周囲に多大な影響を与えた。
彼女を「虐め」ていたのはクラスの女子だけでなく、教員や親も絡んでいたようだ。「もう、限界です」そう締めくくられた遺書を握って、彼女は慣れ親しんだ教室で首を括った。
兵庫県の片田舎の小さな町が、大きな大きな波に飲まれていくのを直に感じながら、俺は、「自分に何ができたのだろうか」と改めて問う。彼女を取り巻く環境は想像をはるかに凌駕する程、悪かった。子供の自分が知りえない程、巧妙に隠された緻密な嫌がらせ。その中でも彼女は、俺と居る時間は楽しかったと綴ってくれた。
心の支えになることはできたのではないか。傲慢な心が叫んでいる。
水を浴びた御影石でできた墓石は、キラキラと太陽光を受けて輝いている。
「夏のどんなところが好きか……俺、聞いてなかったな」
きっと君の白い肌に水着はよく映えたのだろうと考えながら、隆太はゆっくり再び手を合わせた。
伝えなかった君と聞けなかった俺 四十物茶々 @aimonochacha
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