第10話 場違いな衣装 その10(完結)
『おい、ちょっと、そこの、聴こえてるか? その辺の車は早々に移動してくれないか。その場所は、元々、駐車禁止の場所だぞ』
夕刻からの酒を飲み過ぎたためか、すでに気分が早って、度を越して騒ぎ出したやじ馬たちを、遠くへ遠くへと追い払うために、警察隊が出動してきたようだ。彼らは犯罪を犯した私を捕えに来たわけではないだろう。哀れな屍は、おそらく、今も転がったまま。こんな日の夜勤は哀れにも思えるが、これも彼らの仕事の一環だ。その濃紺の制服を見せられても、今はもう怖くはない。『仕事を終えて、恋人と浮かれる街に踊りに来た』だけの私の姿を、行きも、そして、帰りも肉眼でしっかりと見ている、頼もしい証人が、すぐ隣に……。そういえば、ホテルの受け付けスタッフも、そして、あの丁寧な対応の花屋さんも……。イベントへと向かう参加者で賑わう、こんな人混みの中で、たった十分ほどの間に、大胆な要人殺しの策略のすべてを、なんなく終えて、優雅に堂々と街を出歩く暗殺者が存在するなどと想像が届くはずはない。捜査にあたる人間たちが『殺人事件の容疑者は、事前に現場の近くに潜んでいて、可哀そうなステージヒロインのスケジュールを、事前にどこからか得ていた』という極秘情報を得ていない限りは……。つまり、私のアリバイは完全に成立している。
「警備大変ね、おつかれさま!」
私は交通整備をしていた数人の警官たちに、小さく手を振りながら、愛想よく声をかけていった。普段の夜では考えられぬほどの歩行者たちが、ひしめき合って、移動の障害となっている横断歩道を、できるだけ早く渡りたいと願い、『自分は最低限のことは守れる』という、微かな道徳心を披露しながら、待機している。その大軍は信号が青になると、突然目的を持ったように、いっせいに歩み出した。色が赤に変わってしまう前に、何とか私を渡らせようと、出会ったばかりの彼氏は、すごい力でぐいぐいと人混みを掻き分けて、引っ張っていく。
「これから劇場に行くんだったら、もっと急ぎなさい。すでに、かなり長い列が出来ているみたいだ。まだ、チケットがないなら、早く並びに行かないと、開演ギリギリになってしまうぞ」
事故を未然に防ぐために立ち番をしていた警官の一人が、親切心から、ありがたいアドバイスをくれた。彼の記憶力のほどは知らないが、今の一瞬の目と目だけのやり取り。派手な衣装が目に留まったかもしれない。ならば、ありがたい。私の派手な衣装をしっかりと覚えておいてよ。あなただって敵じゃない。立派に『こちら側の』証人の一人になれるのだから。
『あの夜、当該時刻に、中央通り沿いにおいて、黒いコートの不審な女を目撃した人間は一人もいませんでした』
「今夜のショーをずっと楽しみにしていたの。何か月もかかって、やっと、チケットが取れたんですもの。前に見たのは、もう、四年も前なのよ。今夜の演目はサマセット・モームの作品ですって。あなた、この中に知ってる話あるの?」
すでにチケットを確保したカップルが、余裕の表情でもって語り合っている。この大群衆の中で、今夜『イベント会場には絶対に行けない』理由を持っているのは、おそらく、私一人だと思われる。隣の区画のホールの前では、すでに数千人規模の来客が、今夜の出し物に最大級の期待を込めて、長大な列を作り、開場が待っている頃合いだろう。
『チケットはまだ数枚残っているよ!』
『今からチケットショップに行くなんて無駄! わたしのを買いな! 正規より、7ドルも安いんだから!』
『S席のチケットを一枚二千ドル程度で譲ってくれる方はいませんか? 当方、困っています……。お願いいたします……』
そんな声が街中の至るところで響いている。本日は一月に一度しかない祝宴。政治家も官僚も、普段から真面目に取り組んだことなどない仕事を、すでに放り出して、自宅のテーブルに古いワインと豪華な夕飯の準備をしている。一年に数億ドルを稼ぎ出す、大勢の著名人たちが、このイベントのために、わざわざ全米中から駆け付けてきていた。そして、派手な衣装と化粧を、マスコミ記者たちの高性能カメラに『写されようと』している。目に映るのはグッチ、シャネル、サファイア、あとは最新型のポルシェ、この国に数本しか存在しないはずのロマネ・コンティ。そもそも、誰もが欲しがっている物、世界でもっとも輝いている物しか存在しない。あれからたった数時間で、突然、そんな街に変わった。夕方の大人しげな雰囲気から、まるで、フォーブール・サンジェルマンのように生まれ変わってしまったのだ。華やかな街の気配に、誰もが浮き立っている。あと数十分で最大のエンターテインメントが始まろうとしている。チケットを求める群衆は、自分の財布の中身と相談して、一番後方の、何とか買えそうな席を求める金額を、狂ったように叫び続けている。怪しげなバイヤーがそれを聞きつけて、右手を振り上げて、何か呼びつけているのを見つけると、購入希望者はその後を必死に追いかけて、そのまま二人で、暗い路地の奥へと消えていった。
私も少しでいいから、そんな浮かれた気分に浸ってみたい。黒い豪華なタキシードを着込んだ、白髪の中年男性が、二十代の金髪の美女を連れ添って、正面から歩いてくる。わざわざ、見せびらかしに来たのだろう。まるで、モデルさんみたい! 外見もそうだが、おそらく、内面だって、私なんかでは、まったく、歯が立たないのだろう。スカートには派手なバラの刺繍の入った真っ赤なドレスに、皆視線をとられている。胸元に刃物のように鋭い亀裂の入った、イブニングドレスは、さすがにライバルの目から見ても、輝かしいと思わざるを得ない。とても妬ましい、そして、憎らしい。そんな複雑な思いをおくびにも出さずに、すれ違うその瞬間、互いに軽い笑みで挨拶を交わした。向こうの男性が微かな視線をこちらへと寄こして、私を鋭く値踏みする。『この女も、なかなか金をかけているな』すれ違う一瞬でしか、その表情は見えなかったが、確かにそんな顔をしていた。
『最新の情報では、あのカリー・マーベリーが、つい先ほど、泊まっていたホテルを出て、会場に向かったらしいわ!』
『じゃあ、今から、急いでいけば、セレモニーで見れるかもね! 急ごう!』
おそらくは、まだ学生の女の子たちが、すっかり我を忘れて、かなり興奮した様子で、そう叫びながら、豪華な観覧車の煌めいている方角に向けて、そのまま走り去っていった。緊張が完全に解けるまでは、なるべく無口に振る舞おうとしている、私との話のネタを探していた彼は、無意識にその話題へと飛びついた。
「そうか……、あの、マーベリーが、今夜の舞台に主演で出るらしいよ……。だから、こんなに人手があるんだね。みんな、手持ちのカメラに収めようとしているんだ。これだけ混雑している理由が、やっと、わかったよ」
「ええ、どうやら、そうらしいわね……」
私はなぜか理由もなく悲しくなって、気の利いたことも言えず、思考停止に陥った。本来ならば、アパートにある小さなテレビでしか見ることの出来ない有名女優。実際に間近で見ると、とても綺麗な顔立ちをしていた。
「ねえ、確か、去年のアカデミー賞をとった女優さんだよね? 俺はそういう世界に詳しくないけど、どれだけ綺麗な人なのか、一目でいいから、実物に会ってみたいなあ……」
「そうね……、本当に素晴らしいひとだったわ……。昔はとても好きだったの……。その外見をとっても、演技ひとつをとっても……、こんな自分では、とても、叶わないと思っていたわ……」
私の今のセリフには、特別なニュアンスがあったのかもしれない。彼は少し不思議そうな表情をして、こちらの顔を覗き込んだ。
「昔ね、一度だけだったけど、間近で会ったことがあるの……。そう、私にとっての特別な舞台で……」
このくらいの情報だけであれば、自分以外の人間に残してもおいても良いと思った。しかし、心に今も残っている、小さくて醜い悔いは、いったい、いつになったら、消えていくのだろう……。
つい数分前になるが、お金のためでなく、組織からの命令ためでもなく、自分にとっての仕事が完璧に遂行出来た。昔、為しえなかった夢は、今、別の形で叶えていくしかないのかもしれない。大通りの方では、なかなか変わろうとしない信号機にムカついている、短気なタクシードライバーたちが、あちこちで大きなクラクションを鳴らしている。黒いTシャツを着た若者たちの集団が、大型の真っ赤なバイクを、道路の中央で、これ見よがしに整備していたりもする。しかしながら、そんな無法行為は許されるわけがなく、たちまち、警察官数名が寄ってきて、すぐに警告を発する。二人乗りの派手な外国製のバイクが、『これはお前たちへのお礼だ』と言わんばかりに、とんでもない爆音を立てて、夜道を吹っ飛ばして消えていった。私たちは、そんな振る舞いをまったく気にしない。確かに、ただの行きずりだが、二人で肩を揃えて歩いていると、もっと多くの幸福と未来への可能性を手の中に握っていたはずの、当時を思い出す。自分は特別な存在であり、勝負事の行方は完全に未知数であり、これは実力だけの勝負だと錯覚しており、それに勝利できれば、どんなものにでもなれるような気がしていた。世間一般の客観的な見方でいえば、あの頃の方が社会における自分の存在価値は高かったのかもしれない。そして、強く望んでいたはずの願望は、遺憾ではあるが、叶わなかったのかもしれない。その結果に対して、寂しさはまったく無いといえばウソになる。ようやく、遠くの方で救急搬送のサイレンが、けたたましく鳴り響くのが聴こえてきた。私の隣でのんきに口笛を吹いている彼の耳には、何も聴こえていないようだ。大きなショータイムの直前、最高の盛り上がりを見せる、街角を行く誰もが、そんな不吉な音をいちいち気にしたりはしなかった。
『会場の入り口で、ネームの入ったカラーバルーンを配ってるって!』
そんな声が聴こえると同時に、五人組の派手な色彩の若者たちが、あらぬ方向へといっせいに走り出した。その様子に釣られて、理由もわかっていない、多くのやじ馬たちが、我先にと同じ方向に走り出した。バンバンバン! という耳をつんざく連続音に振り返ると、開館を知らせる華麗な花火の打ち上げだった。紺色の夜空に赤と金色の華やかな光が舞い散った。『今の見た?』とでも言うように、彼は嬉しそうに上空を指さしてみせた。私も気分が躍ってきて、思わず恋人の腕を握る手に、より一層の力を込めた。犯罪行為の後の動揺や余韻など、すでに跡形もなく消えてしまっていた。自分の身体は一大イベントを待つ人々の渦の中に、完全に溶け込んでしまっていた。今さら、職務質問などをされたところで、適切な対応はできないだろう。
『いえ、私は……、そのような、細い路地になんて行きませんでした。なぜって、このお祭りを楽しむために来たんですもの……。ねえ? あなたもずっと一緒だったものね』
まるで、本当に穢れのない人生を歩んできた女性のような答弁ではないだろうか? 仮に逃れられぬ証拠を突きつけられたとしても、そんな気味の悪い事件には一切関わっていないという、もっともらしい答弁を、けなげに述べるだろう。もし、この哀れな私が、あの銃弾を撃ったのだとしても、それは罪にならないのだ。この恵まれぬ半生がそうさせたのだから。
「なあ、君は本当にショーに行かなくてもいいの?」
ついさっき、運命に呼ばれて出会えたばかりだというのに、性格の優しい彼は心配そうな顔でそう尋ねてくる。私がどこか上の空だったからだ。大きな代償があったとはいえ、遠くの空に見ていたはずの光は、今でも記憶の中に微かな輝きを放っている。端的に言えば、それはトラウマなのかもしれないが、大多数の人には体験すらできない貴重なものだったのかもしれない。長い時の流れの末に、失望だけではなく、そうも思えるようになった。主役として本物の大舞台に上がったとき、それがどんなに素晴らしい気分をもたらすのかは、今の私にはわからない。ただ、輝かしい舞台には上がれなくても、人間の日々の営みは、小さく美しいドラマを生み出すことだってある。人生とは、その小さな欠片の積み重ねである。
来賓たちのスポーツカーが、次々と、この街に到着してくる。沿道からは、待ってましたの大歓声が上がった。さあ、まもなく開演。街はさらに色めき立つ。巨大なネオンサインがいっせいに点滅して、ゲストの到着を盛大に祝うセレモニーが始まった。今夜のイベントは全米中に中継される。簡潔に言ってしまえば、富裕層の人々が、さらに儲けるための大イベントに過ぎないのだが。
「なあ、この雰囲気って、すごく良くないか? こんなに気分が盛り上がる夜は初めてだよ」
「ええ、神様が今夜のひと時を演出してくださるみたいね」
「不吉なことなんて、何一つ起きやしないよ。特別な夜が始まる。きっと、みんなが幸福になれるんだ」
彼は私の人生の多くを知らないから、その顔を紅潮させながら、そう嘯いた。私たち二人の小さな歩みは、少しずつ、少しずつ、街の中心部で盛大に盛り上がっている大劇場からは離れていこうとしていた。
軽い足取りで歩みながら、私はこう思った。成功した者が最大の評価を得るのならば、この世の中には、必ず勝ち馬と負け馬が生まれる。それを今一度覆すために、自分はこの街にやってきたのだ。先ほど起こったばかりの、ひとつのドラマチックな事実を、いったい、誰が正当に評価できるだろう。私のこれまでの無作法な演技は、成功を何度繰り返していっても、輝かしい舞台の上には絶対に上がれず、大喝采は得られない業務だろう。ただ、あの痛烈な胸の痛みも、今となっては夢の欠片のひとつである。そう、今夜だけは、私が主演女優なのだから。
場違いな衣装 つっちーfrom千葉 @kekuhunter
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