第6話 場違いな衣装 その6


 街灯は整備がまるで行き届いておらず、ほとんどの電灯は芯が切れかけていて、チカッチカっと薄い光を放ちながら、不気味に点滅している。地面には歩行者が捨てたゴミと枯れた落ち葉と安売りのチラシや腐り切った果物の皮が散乱している。狭い通りを囲むように立ち並ぶ、安アパートの窓明かりも薄くまばらで、この一区画に居住者がどの程度住んでいるのかは、さっぱり分からず、『誰も住んではいない』と断言できない分、かえって不気味な雰囲気を演出している。指定された現場は、もう、すぐそこなのだが、まだ、警備員やマスコミ関係者らしき人間の姿は確認していない。彼らは「人気俳優が劇場に向かうまでの短時間の間に、予期せぬ凶行に巻き込まれてしまう」という大胆な想定はできていないのかもしれない。実際にこの街では、過去にそんな事例はほとんど発生していないわけであるし……。


 時間はまだ少しだけ足りているが、なるべくなら、数分ほど早めに現場に到着した方が成功率の向上に繋がるだろう。危険な約束ごとは、相手が慌てて目的地に到着する姿を、万全な体制で待つに越したことはないからだ。付近のアパートの住民たちが人の目を気にしないような恰好をして、平気な顔で行き過ぎていく。こちらの存在を怪しむ様子も、今のところまるでない。まだ、この賑わう街のどこにおいても、事件も事故も起きてはいないからだ。他人の視線がこちらに向けられていないのなら、歩む速度は出来るだけ速める。左側の石壁に上半身裸の浮浪者が、空腹と持病のために、すっかり力を失くして、もたれかかっていた。私の細腕が手を貸してやっても、立ち上がれるとは思えない。このまま放っておけば、たった数時間後には、背中に白い羽が生えてきて、天界の使徒たちの仲間入りとなりそうだ。だが、この私が天使のような御心を発揮して、病院や消防に通報してみたとて、この男が保険料を満額支払っていなければ、救急車での搬送にさえ、それなりの医療費がかかり乗車拒否されるご時世である。可哀そうだとは思うが、自分だってこの仕事でポカをすれば、明日にも同じような運命を辿ることになる身の上である。人生は常に成功か敗退。もし、その確率が二分の一であったなら、挑戦者としては、文句のつけようもないところだ。だが、スターとして生まれる確率も、その生涯報酬も常人の数万倍という圧倒的な大差があるからこそ、そこに欺瞞や嫉妬や裏取引や恐るべき犯罪が生まれる余地が生まれてしまうのだ……。


『あの人さあ、この間の試験もダメだったんでしょ? もう、何度同じことを繰り返すのかしら? 見ているだけで、可哀そうよねえ……。今度こそ、最終メンバーに残れるかもって、あんなに張り切っていたのに……。自分だったら、耐えられないわ……』


 他人からは絶対に言われたくないセリフだ。ああ、こんなときに、見たくもないフラッシュバックが……。額にハンカチを押し当てて、何とか冷やしてやろうと、無駄な抵抗を試みたが、否応なく暗い夢想は広がっていく。


『どうだったの? 結局、キャストにはなれなかったんでしょ? それなら、ぜひ、自分の名前が飛ばされたときの感想を聞かせてよ』


 何人の友人に……、いや、こちらで勝手に友人だと決めつけていただけの人たちに、そう言われたことだろう。彼女たちと日々交わした、さりげない言葉の中には、憐れみや同情の念などは、これっぽっちもなかったというのに……。


 私が学校に通いながらも、何度も舞台俳優を選出するテストに挑戦していたことは、多くの同級生が何となくは知っていた。出席日数の関係で、数名の教師から、特別扱いを受けたことがあったせいである。放課後の厳しいレッスンを数年に渡り重ねて、何度か書類審査を潜り抜け、二次や三次の演技テストにまで進み、その度に撮影スタジオにまで呼ばれるようになり、名の知れたプロデューサーから励ましの声もかかるようになった。


 あと、もう少しで成功をつかみそうだった頃、不用意ではあったわけだが、私としても、業界の人と連絡を取り合っていることに内心得意になってしまい、かなり浮かれた気分でいた。有名な演出家にレストランでの食事に誘われたことを知人たちの前で話してしまったことがあった。映画関連の企業からの二次審査の合格通知を、友人たちの眼前にひけらかした記憶もあった。後から遡って考えれば、そういった軽はずみな行為の数々が、知らぬ間に人間関係を少しずつ悪化させていたのかもしれない。あの頃、少しでも自分の未来の可能性のことを深く考えていれば……、他人の中途半端な成功話なんて、我がことのように喜んでくれる、お人好しの友人など、私の側には、ひとりだっているはずもないことくらい、簡単に判断できたはずなのに……。


『あのスタジオの演技試験を三次まで通るなんて、すごいね!』


『上手くいけば、来年には舞台に上がれるんじゃないの?』


 上辺だけの作り笑いを繰り返して、できる限りのお愛想を込めて、適当な相槌を打ちながらも、その裏では、みんなで私の計画の破綻を全力で願いながら、薄笑いを浮かべていたのだ。上位のオーディションでは、外見でも、歌唱や演技力においても、他の国に比べて圧倒的にレベルの高いこの国においては、上には上がいるものだ、ということを思い知らされただけに終わった。


 レッスンに通い始めてから数年後、将来を賭けた大勝負には、完全に敗れ去り、夢を打ち捨てて、映画と演劇の街を重い足取りで去る羽目になり、家族や友人からの温かい出迎えを求めて、何とか故郷に戻った頃、自分を侮辱するような匿名の手紙が、毎日のように実家のポストに投げ込まれるようになった。私がここ数年に渡り、生活していくための金に困り、食いつなぐために、ほとんど裸のような格好をして夜の街に立ち、風俗店や深夜営業の酒場の呼び込みをやっていたとか、場末のスナックで一晩いくらで酔っ払い相手に嫌らしく絡み合いながら、一緒になって踊っていた、などという、根も葉もないデマが近隣の街にまで流されていたのだ。実家の近所に住む、顔も見たことのない若造たちが、自分たちの行き先のない人生の憂さを晴らすために、はやし立ててやろうと毎日のように近寄ってくる。こっちがムキになって、いかがわしい噂を否定しようとすると、向こうはさらに盛り上がって、余計に笑いものにされた。それなら、すべてを無視してやろうと、分厚い耳栓をつけて、取り澄ましたような顔をして街を歩いてみても、『君の望み通りに、一流の風俗嬢になれて良かったな! それで、ここ三年でいくら稼げたんだ?』などと、会話もしたこともない若い男女たちから執拗に声を投げられた。


 こんな状況下で、老年まで平然と暮らせる神経を持った人がいるのかは知らないが、そんな日々がこれからも延々と続くことを思うと、私は気が狂いそうになった。半月も持たずに故郷を捨てて、資金が許す限り、なるべく遠くまで逃げ出すことにした。しかし、自分の気に喰わない人間が、いったん弱みを見せると、相手が完全な燃えカスになるまで満足できないハイエナたちは、さらに本領を発揮するものだ。耳にぶち当たってくる卑猥な雑音のすべてを、一つひとつ消し去っていくのは、簡単な作業ではなかった。ある日、夕飯のための買い物から家に戻ってみると、私と昔通っていた劇場の下っ端のスタッフとが性的な関係にあったことを詳しく書き記した、バカげた三流週刊誌の記事の切り抜きが、三十枚以上も拡大コピーされて、郵便ポストの中に放り込まれていた。夜中に突然通りの方から石を投げつけられ、窓ガラスが粉々に割られたりした。ドアの表面には、私が結局なれなかった、恋愛映画のヒロインの名前が、赤いペンキで下品な書体で、これ見よがしに大きく書かれていた。『この名前を一生背負っていけ』とばかりに……。


 私は直接的には、彼らに対して一度も嫌な思いをさせた覚えがないのに、人間という生き物は、己が楽しみのために、あるいは単純な刺激欲しさに、ここまでのことをするのだ。たった半年の間に、住所を三回も変える羽目になった。たった一つでもいいから、助けとなり得る、温かい言葉が欲しかった。でも、一番仲が良かったはずの友達たちでさえ、最初から最後まで、いっさいの連絡を寄こさなかったのだ。警察も法律も同級生との仲間割れと境界線上にある、曖昧な暴力に対しては、すべてが無力だった。


 人生の大きな挑戦に敗れてしまい、ゼロにまで戻されるのであれば、まるで違う線路上にある、新たな生活を一から踏み出すために、それは良いことでもあるはずなのだが、勇気をもって挑んだチャレンジに勝てなかった敗残者に向けられた、『善良であるはずの市民たち』から贈られた、強烈な悪意に対しては、幼少の頃から抱いてきた、私の切なる願いたちは、今の自分にとって、まったくプラスにならなかったのだと思い知らされた。それからの人生は大幅な負債を持って、進むことになってしまった。


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