第3話 場違いな衣装 その3


 約束の時間が近づいてくると、気持ちはますます落ち着かなくなり、自然と足は動き出す。広い室内を半ばふらつきながら彷徨い歩く。例え、今夜のイベントにおいて、不測の事態が起きたとしても、この私がそれに関わっていることを知る人間は、裏社会の最深部に属する組織の幹部数名のみである。警察関係者やCIA職員も含めて、まだ、誰もこちらの行動を関知してはいない。不吉な前ぶれも何も起きてはいないこの段階において、起きるかどうかも知れない、小さな落ち度を、そこまで恐れる必要はないはずだ。


 明日の大衆新聞の一面に、この付近で起きてしまった不幸な事件が、大々的に報じられたとしても、その誌面に目を通した、このホテルのスタッフたちが、自分の方から警察署にわざわざ名乗り出てまで、「実はその事件当日まで、殺人を匂わせるような不審者が、うちのホテルのスイートルームに泊まっていました」などと訴え出るものだろうか? それは甚だ疑問である。罪もない人を簡単に殺せる程度の怪しさを漂わせる人物など、この大国にはシロアリの数ほどいるはずだ。片手には鋭いナイフをチラつかせ、大麻を吸いながら裏街をぶらぶらと歩く不良青年たち。職場の上司に叱られた腹いせに、バスの停留所において、自分の前に並んでいる乗客の後頭部を突然殴りつける、精神病みの短気なサラリーマン。スラム街の道端にあるゴミ箱の内部を探り、1ドル紙幣を次々と見つけ出してはほくそ笑み、まんまとネコババする程度のしょうもない小物まで、この無限に拡がる社会の上から下まで、ずらりと揃っているわけだ。そんな奴らに対して、この地域に限られた数しか配置されていない警官たちが、いちいちテロリストの疑いをかけて職務質問していく時間は、まずないし、そもそも、疑っていたらキリがないだろう。


 自分としては、この分不相応な部屋には、丸々三日に渡って、閉じこもっていたことになる。記憶にある限りでは、余計なものには何ひとつ触れなかったし、レストランやジムすらも利用しなかったはずだ……。自分の指紋については、ブルーのふかふかのソファーの右側の一部、そして、テーブルの表面だけを念入りに拭き取っておけば、おそらく足りるはずだ……。しかし、人間の記憶というものは、よく集中していたつもりでも、万能とはいえない。理性も記憶も常に不器用で不安定なものであり、遺憾ながら、人は無意識の中にさえ生きているのである。こうした緊迫した状況下では、幾度も場数をこなした、仕事慣れした人間であっても、きわめて大事な場面に置かれると、ごくごくつまらないミスを犯して、これまでは見もしなかった深い亀裂に転落していくものだ。アルコールを塗ったハンカチで、一番お世話になった、マホガニー材の上品なテーブルの表面を隅々まで拭いていく。任務に失敗して、我が身が警察の手に落ちるか、あるいは現場で射殺された場合、この部屋には真っ先に警察の捜査隊が乗り込んで来る。証拠となり得る、小指の指紋ひとつでも、ここに残すことは出来ない。次いで、ベッドのわきのデスクライトのスイッチを丁寧に拭く。ライトを付けた覚えはまったくないのだが、この三日間は職務遂行許可の連絡を神経を張り詰めながら待ち続けていたため、絶えず緊張ずくめであった。睡眠中、あるいは無意識のうちに、それに触れてしまった可能性だってあるわけだ。


 一度カーペットの上にしゃがみ込み、ソファーの上を端から端まで凝視していく。髪の毛一本、上着からこぼれた毛糸ひとくず落ちてはいないか。一度は歯車が狂ってしまった人生の逆転のために、いつ終えるとも知れぬ妄想に耽りながらじっと座っていた、その部分を同じように業務用のハンカチで丁寧に拭きとっていく。念のためにクローゼットの中も、もう一度確認する。もちろん、置き忘れなどはあり得ないわけだが……。やはり、仕事直前のために、幾らか神経質になっている。この広い部屋のリビング以外の部分を利用する必要があったときは、間違いなく、専用の革の手袋を装着していたはずなので、他の部屋の壁や床に関する指紋の有無については、まったく心配する必要はないだろう。


 しかし、いざドアを開けて、片足が一度室外へ出たとき、また、いつもの、ぬぐい切れぬ病的な不安感に襲われた。この身体は、意識もなくもう一度室内へと戻る羽目になった。肉眼ではまったく見えぬ、ノミサイズの不安に心中で囁かれても、それが納得と理解とによって、完全に消滅するまでは、命を賭した仕事に向かうことは出来ない。明確な理由もなく、ほとんど吸い寄せられるように窓の方に近づいて、手袋をしたまま、真っ青なサテンのカーテンにそっと触れてみた。視界を遮る物の少ないこの空間で、ここからなら部屋の隅々にまで目が届く。どこへ視線を向けても、この大切な期間における、私の時間の使い方については、何ひとつとして隙はないように思えた。ある種の病的な臆病さについて、職業病だといわれることもあるわけだが、人生の岐路といえるイベントの直前においては、完璧を為そうとするときの不安感から逃れられる人間など、そう多くはないはずだ。自分でもこれが重大な病気だと思ったことは一度もない。単純に結論付けてしまえば、重大な局面においては、誰でも不安に狂わされるものである。これは、高額な報酬に対する、責務の一つともいえる。


 扉が閉まると、背後で自然とロックのかかる音がした。このフロアには他にまだ六部屋もあるはずなのだが、同僚スタッフの気遣いにより、自分以外の客は泊まっていないらしい。従って、見も知らぬ他人(ひと)との、不意の接触はあり得ず、表情や動きを探られる心配もない。そのくらいの下準備については、組織の方で事前に手を回してくれているはずだ。骨休めの時間はとうに終わっている。凶器を身につけるための緊張感を取り戻さなくてはならない。当然のことながら、仕事間際のこの時間帯にあって、廊下の角を曲がる瞬間に、ホテルのスタッフなどと、バッタリ顔を合わせてしまう展開も、余りよくはない。相手方はこちらの計画を知る由もないので、その場で不吉なことが起きることはないだろうが、事件発生後に、この瞬間のことを思い出されるのは、自分と組織にとって、かなりの苦境となる。記憶力の高いスタッフというのは、どこの職場にもいるものである。


 ただ、多少楽観的に考えることが許されるのならば、スイートルームで唯一の泊り客とはいえ、ロビーの係員以外とは、ほとんど何の接触もなく、部屋から廊下へは、一歩も出て来なかった泊り客の外見の詳細について、それほど長い時間に渡り、記憶に留めていられる人間は、本当にごく僅かだろう。これまでのいくつもの似たような経験が、その推論を強烈に後押ししている。人間というものは、自分の眼前に日常的な業務が並んでいる限り、『明日、自分の周囲で国中を揺るがすほどの大事件が起こる』などとは、決して考えないものである。夢想家は漫画家や脚本家にはなれても、優れたスタッフにはなれない。プロの職人ほど、きわめてリアルスティックなものである。自分の側のたった一度の悪手によって、レールから逸らされない限りは、今日のようなごく平凡な日々が、五十年でも百年でも延々と続いていくと思い込んでいる。シャンデリアからこぼれ落ちてくる、金色の光に照らされながら、異様なほどに真っ赤な絨毯の上を、なるべく物音を立てずに歩いた。あの頃、女優オーディション対策のレッスンのために足繁く通った劇場の雰囲気とよく似ている……。いくつもの懐かしい願望が不意に頭をよぎる。今夜の役目とて、高報酬ではあれど、諸手を挙げて引き受けたわけではない。だが、深く考えていくほどに、今夜のような前代未聞の難題は、こんなちっぽけにされてしまった、今の境遇にとって、非常に似つかわしい任務であることに気がついた。


 一階のロビーでは、今夜のイベントを見越して来訪していた泊り客の多くがチェックインの手続きをしていた。なるべく、距離を詰めぬように遠巻きにして、空いてくるのを待った。係員に呼ばれると、顔を一度も上げぬようにして、ほぼ無言のままに、チェックアウトを済ませた。当然のことだが、宿泊費の方は領収済みとなっており、組織の方で事前に手を廻してあった。私は巧妙に偽名を記すことを何度も練習させられたサインを書類の上に記しただけである。背後から聴こえてくる、スタッフたちによる、お別れの挨拶は、この耳にはまったく届いていないフリをした。


 この広い荘厳なロビーと外部とを仕切る、自動ドアが眼前まで迫ってきたので、もう、どのスタッフにも顔を確認されることはないだろうと、安心しきって思わず視線を上げてしまった。だが、三日間、スウィートルームフロアをひとりで貸し切るという、通常の来客とはまるで異なる金の振る舞い方をしてくれた上客のために、女性スタッフがもうひとりだけ、ドアの横に佇んでいて、この怪しげで無愛想な客のために、最後の慇懃な挨拶をしようと、待ち構えていたのだ。専門職による、こういった予定外の行動は、我々のような裏社会の人間にとって、およそ想定できない妨害となりうる。賓客を待ち構えていた女性スタッフは、こちらの複雑な心理状態など露知らず、うやうやしく一礼をした。


「今夜は隣町の大劇場で、大きなイベントがあるそうですね。こちらとしても、二月も前からそれに備えまして、スタッフを多く配置しまして、要人のプライバシー保護を第一に対応させて頂きました。まだ、沿道もそれまで混み合ってはいないようです。天気予報は微妙でしたから、心配しましたが、この通り、雨には降られませんで、本当に良かったですね。外は綺麗な夜空です。それでは、どうか、お気をつけて、いってらっしゃいませ」


「そうね、一年前から、あの演劇の最前列の切符を予約していて……、席が取れたという連絡には小躍りしたわ。この街に来るのをとても楽しみにしていたの。色々と親切にしてくれて、どうも、ありがとう」


 三日前、チェックインする際に、幾分気楽に行ってしまった顔見せの挨拶程度ならば、受け付けスタッフたちの、その頼りない記憶力は、新たな客が現れるたびに、何度となく上書きされてしまうという確信のために、別に気にはならなかったのだが、仕事が直前に迫る、この場面においては、正面から顔を見られてしまったのは、いささか不手際と思われた。さりとて、上客への感謝の意を表すために、わざわざ、玄関口まで足を運んでくれた、仕事一筋のスタッフの想像が、いったい、どこまで深く届いているのかは、分かりようもなかった。突然のことに心臓は高鳴っていたが、とりあえず、まったく想定していなかった事態に対して、一般の観光客を装ってたどたどしく返事をすることにした。ごく一般的なホテルスタッフとしての思考で考えてくれるならば、私のことを家柄だけに恵まれて、羽振りが良いが頭の軽い、無害な独身女だと決め込んでくれることだろう。彼女の無垢な表情から、楽観的ではあるが、そう判断することにした。


 しかし、そうなると、今夜の一大イベントへの参加自体を真っ向から否定することになり、余計にまずい印象を残すことになる。丸三日間にもわたり、市議会議員や会場スタッフでさえも簡単に断られてしまいそうな、こんなに高級なホテルに宿泊しておきながら、結局のところ、一度も部屋の外には出なかったのだから。『このまま、どこにも寄らず、誰にも会わず、何も買わずに、真っ直ぐに家へ帰ります』では済まされないわけだ。その奇妙な事実は、スタッフたちの心理に異様な印象となって残ってしまうことになるだろう。これは嫌な想像になるが、事件の発生後に、警察からの聞き込みでもあった際に、『彼女は何の変哲もない、ごく普通の旅行客でした』と素直な証言をしてくれるものだろうか? それは極めて疑わしい。私だったら、眼光鋭く取り調べにやって来た、防護服を着込んだ捜査員たちの前で、明らかに疑わしい容疑者と出会った直後のような、怪訝な表情を浮かべてしまうに違いない。しかし、この場において、大金を払っての口止めなどをしてしまえば、結果的にかえって疑われることになり、さらに悪い結果を引き起こしかねない。多くの不安を残したままにはなるが、今はこのまま何もせずに立ち去るしかないと判断した。


 華やかな、一夜のお祭りを楽しむべく、自然と街中に溶け込んでいく、ひとつの影となって、私はこのホテルから消えることにした。


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