第2話 場違いな衣装 その2

 てっきり、任務開始の合図を伝える連絡かと思ったのだが、そうではなく、ただ、ストレスを発散するために、こちらに嫌みをぶつけたいがための電話であったようだ。普通の企業においての業務連絡となれば、『今日は声に力がないけど、どうしたの? 最近、疲れてるんじゃない? 大丈夫? 代わりはいるから、三日くらい休暇をとれば?』などという暖かい気遣いの言葉が、先輩や上司から送られたりするらしい。だが、うちの業界では、大金に目が眩んで、いつ敵に回って情報を売り払うかも知れぬ同僚のために、わざわざ、気遣いの言葉を投げかけるなど、到底あり得ないことである。先ほどの話しぶりからして、向こうはさらに上の幹部からいびられているようだ。だが、幹部たちは状況がどんなに緊迫してこようが、葉巻タバコをくわえながら、今現在は、おそらく、野球中継を見ているだけだし、いざとなれば、とりあえずの逃げ道はあるはずだ。トップから与えられた無茶な指示を、眉間にしわを寄せることなく、下へ下へと淡々と流していけばいい。だが、こっちは中立の警察も含め、多数の敵方の視線の光る最前線において、爆薬の信管に少しずつ近づき、そっと触れるべく、身体を張っているわけだ。銃弾と歓声の飛び交う大舞台に上がるのは、いつも、こちらの方なのだ……。


 黒檀の棚の上の上品な飾り時計の秒針が、少しずつ動いていくごとに、心は波立ち、イラついてくるが、窓の外の美しい夜景を眺めていると、ほんの少しだけ、気分が落ち着くような気がした。今だけは、あえて自分の未来を賭けた任務から目を逸らし、むかつく上司のことなど完全に忘れて、首尾よく成功した後のことだけを考えよう。そうして妄想に浸ること約十分。今回のところは、嫌みな口撃のすべてを忘れ、与えられた配役で取りあえず満足して、できる限り上手く演じてやろうとさえ思うようになれた。


 この街一番の大劇場にて、今宵、大陸全土から富裕層の聴衆を集め、三か月に一度の大公演が開かれる。開場は今から約二時間後。この部屋の窓から下の大通りを眺めていると、空港や高級ホテルの方から颯爽と向かってくる黒いハイヤーが、派手なドレスやスーツを着込んだゲストたちを乗せて、ひっきりなしに行き来している。今夜、この付近を散策している人間のほとんどは、この街の元々の住民ではない。今夜のショーのために遠地から遥々訪れた『財布の分厚い』観衆なのだろう。一年以上も前から、来賓専用となる二階席をすでに予約してあった貴族階級の方々から、ゲストとして訪れた各国の政治家や、まだ、開幕セレモニーの入場チケットさえ確保できていない貧民層に至るまで、その顔ぶれは実に様々である。私はもう間もなく、彼らの前に飛び出ていって、今夜最高の舞台において、晴れの主役として演じてやるのだ。そう、出来るなら、華やかに演じたい。『誰もが憧れる大女優になれる』その決定的な資格を持っているのは、おそらく、私だけだろうから。


 そんなことに思いを巡らせながら、ふと、時計を見てみると、先ほどの嫌な連絡を受けてから、すでに二十分が経過していた。時の針が私の意識を避けてワープしたかのような動きを示していた。不本意でもあったが、しかし、時間が自分の希望した通りの速度をもって進んでいる、というのは実にありがたいことだ。こうして、非情な現実を知らされ、日ごとに小さくなっていく自分の未来への希望たちを眺めながら、他人には見られぬ位置で、唯一の生を見つめながら、呆然と佇むこと以外に、時計の針をなるべく早く進められる手段など、他にあるのだろうか?


 私はイタリア製の革のハンドバックから、小さな漆塗りの化粧箱を取り出した。高級ホテルのスイートルームには、バスタブの隣に、安ホテルでの一部屋分にもあたる、広い化粧室が備えられている。私がもし一般の旅行者であれば、いちいちお気に入りの化粧品のすべてを、小さなバッグに無理やり詰め込んでまで、こんな遠い旅先まで持ち込まなくとも済むのである。このフロアにすべて揃っているからだ。


 壁一面を覆いつくすような金縁の大鏡には、指紋やシミの一つも付いていない。むろん、職務上、浸かることは許されないが、大理石で造られた豪華なバスタブは黒く上品な輝きを放っている。舞台女優がその服を大胆に脱いで、ふわふわのタオルケットをまとって、ここにつかれば、若者向けのファッション雑誌のトップグラビアとして、十分通用するほどの出来栄えになるわけだ。これまでの半生を振り返るならば、今となっては、もはや、皮肉でしかないのだが、この私でさえも、選ばれた上客のひとりになるのだろうか。


 七人掛けのふかふかのソファー、ダイニングテーブルにも、マホガニー材の椅子が五脚付いている。例えば、常日頃から、ファンの目を気にして生活しているハリウッドスターなどが、家族を引き連れて、この広いスウィートルームを予約して、五日間もの間、世間一般の汚れた視線からとにかく逃れて、浮世を忘れて、優雅に過ごしていたとしたら、どうだろう? とてもお似合いのシチュエーションではないだろうか。今回の場合、チェックインからチェックアウトまで、客はずっとひとりであったわけだが、ホテルのロビースタッフたちの観察眼が、もし、まともであるなら、私の行動のどこを取っても、不審に思われないはずはないと誓える。もちろん、この国のどこをいくら調べようとも、私の素性を知ることは、まずできないのだが……。


 この部屋の家具は全部合わせれば、軽く十万ドルはするのだろう。気品と繊細さによって散りばめられ、二十畳はある部屋のどの部分にも文句をつける隙は見当たらない。冷水の補充を頼むだけなのに、何があったのかと、心配そうに駆けつけてくる、有能なスタッフたち。『この豪奢な部屋を早く訪れるように』との、ハリウッド俳優たちへの推薦状を喜んで書かせて頂きたいくらいの、素晴らしいホテルであった。もう二度と、ここには来れないのかと思うと、残念でならない。自分だけの余暇をただ楽しみたいだけの、一般の旅行客層であったなら、本当に良かったのだが。


 目的地までの移動時間を考慮すると、もう、そろそろ動き始めてもいい頃合いだ。私はなるべく足音を立てずに鏡の前まで移動すると、そこに備え付けてあった、可愛らしい真っ白な丸椅子に座り、軽く洗顔をしてから、頬に保湿クリームを塗り、化粧を始める。女性であるなら、誰しも心が浮き立つ時間だ。甚だ信用に欠ける週刊誌の情報であるが、化粧というのは、心のケアにもなるらしい。緊張の高まる今の時間帯には、まさにぴったりである。ファンデーションを少し塗って、なじませている間に、片目でバッグの中身を、今一度チェックした。いざ、目的のあの人に出会えたときに、商売道具が準備出来ていなかったとしたら、それは大変なことになる。左目を閉じて、コンシーラーを塗っているとき、廊下から微かな足音と布すれの音が聴こえた。呼吸を止めて、自然な動きで、バッグの中にそっと右手を忍ばせた。部屋の内部では何の物音もしない。このランクの部屋となると、空調の音すらほぼ無音である。見事だ。外を歩く者がどんなに足音を抑えたとしても、ドアからほど近いここまでは、ダイレクトに聴こえてくる。こちらの動きが警察に漏れているということは考えにくいが、万が一ということもあり得るだろうか? 数十秒ほど、じっと耳を澄ませて、身体のすべての筋肉の動きを止めていた。足音は部屋のドアの前では立ち止まらず、どうやら、そのまま通り過ぎていったようだ。安全確認の周回に来たホテルのスタッフか、あるいは清掃員だろう。私の今夜の居場所と、その隠密行動の詳細については、組織のトップ以外、誰にも知られていないはずなのだから……。


 高価な化粧道具を用いて、メイクをしていると、ほんの短い期間でも、自分も特別な存在なのだと思い違うことができた、若い時分のあの瞬間を思い出す。嫌な記憶というのは、大きなブラシに漂白剤を塗りたくって、念入りに消してやったつもりでも、心の底の深いところに、長期間にわたり粘り強く残っている。いつしか、似たような緊張感を思いもかけぬ場面において引き起こす(フラッシュバックさせる)ものだ。あれは二十一歳の頃だったろうか? 運命の分岐点となった最後のオーディション。その、ほんの十五分ほど前、感じたことのない緊張と未来への期待の中で、控え室に引きこもり、今夜と同じように、たったひとりで震える手でメイクをしていた。分不相応とは知りながらも、子供の頃から、他人から羨まれる職へ就くことを目指していた。だが、最終オーディションまで残ることが出来たのは、長い挑戦の中でも、結局のところ、このときの一回のみであった。驚いたことに、あの時の自分の表情や顔色まで、まるで映画のように脳裏に鮮明に蘇るではないか。では、今夜もあのときと同じ、イヴ・サンローランの鮮やかな色彩の口紅を選ぶことにしよう。


 女性に生まれた者であれば、誰だって、他人から少しでも注目される地位につきたいはずだ。のみならず、自分が全米第一位の花形となって、観衆の注目を一身に浴びながら、どこそこの煌びやかな舞台に立つ、という他人(ひと)から羨まれる夢を常に見ているものだ。口にこそ出さないが、同じような才能で、似たような顔立ちの友人たちを、ピラミッドの遥か頂上から見下ろしてやる日が来ることを想像してほくそ笑んでいるわけだ。だが、『人が否応なく生み出す勘違い』とは残酷で奥深いものだ……。結果からみれば、それらはただの図々しい願望であったわけだが、あの頃は純粋に努力を重ね続けていけば、最終的には、どんな勝負にも勝てるものだと思い込んでいた。


『すいません、先月の舞台を拝見させて頂きました。素晴らしかったです! ぜひ、サインを頂きたいんですが!』


『すいません、お写真を一枚だけ頂いても、よろしいでしょうか? こちらのレンズの方を向いて貰えますか?』


 もし、あの時の一大試練を通ることができていれば、その翌日からは熱狂的なファンや報道陣の前に、ほぼ四六時中、取り囲まれる生活が始まっていたはずだ。我が豪邸の前には、スキャンダラスな事件など、まるで起こらずとも、常に情報に飢えた記者やテレビカメラが押し寄せて、私の行動を逐一伺っている。午前中は有名脚本家との次の舞台上での打ち合わせ。午後は演出家による念入りな演技指導と予定は続いていく……。私はハリウッド映画に馴染みの深い、憧れのスターたちと肩を並べて、カメラマンの前で微笑んでいる。夢想はいつだって夢想のままである。緊張してメイクをしていた、あの瞬間だけは、この自分だって、いつかはきっとそうなれると思い込んでいた。


 過去の記憶に浸っているうちに、いつの間にか、右の眼の縁が少し濡れていた。慌ててハンカチでそれを拭った。結果から語れば、人生における、大勝負というものは、大抵の場合、上手くなどいくはずはないのだ。『残酷、非道、冷酷』運命という煉獄の道を、人(たにん)はそう言って笑う。実力だけでは勝負には勝てない世界。実力が足りなければ、さらに残酷な選択をせざるを得ない。自分にも、これまで敗退した人々と同じような結末が、ようやく降って来ただけだった。つまり、若き日の自分がどんなに目を腫らして泣いても、それは何も特別なことが起きたわけではない。学校を去ったあの子と同じ。ビルから飛び降りたあの子とも同じ。でも、自分だけはそうなるとは思えなかった。この惑星において、もっとも繁栄しているこの大国においても、『99%の人は、土と埃にまみれて、地べたで一生を暮らすわけでしょ。だから、貴女だって、この結果については我慢して受け入れなさいな。今なら、スーパーのレジ打ちとか、レストランのウェイトレスとか、駅前での特売品のビラ配りとか、とりあえず、普通の人生には戻れるわけでしょ』。我が傷ついた心に、尖った矢のように投げつけられた、そんな中身のない慰めでは、とても立ち直れなかった。結果を知らされた五分後には、すでに完全なる負け犬のレッテルを貼られ、スタジオの外へと放り出された。ハイヤーによる送り迎えも、二度と来なかった。二か月に渡る審査は誰かの勝利によって無事に終わり、今日からは、自分はまた敗北者として、ただの素人に逆戻り。いったい、何万の応募があったかは知らぬが、すべての夢は儚く過ぎ去り、放心状態になることで、何とかすべてを誤魔化そうとした。


 さあ、もう現在に戻って来なければ。数々のやり切れぬ想像が過っていったが、仕事前のメイクは気分を十分に楽にさせてくれた。化粧室の家具についた指紋を念入りにふき取ると、部屋の電気を消して、もう一度、すべてがきちんと行われたかをよく確認して、商売道具の入ったバッグを手にして、私はようやく立ち上がった。


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