猫の逆襲
吟野慶隆
猫の逆襲
「おれ、最近、一年くらい前のアニメ、『デコヒーレンス・ラヴ』の全十二話を視聴したんだけれどさ。あれが、なかなか、面白くてね。さっそく、二次創作の短編小説を書いたんだ」
酒嶺(さけみね)は、そう言うと、右手に持っているジョッキを上げ、傾けて、中に入っているビールを、ごくっごくっ、と飲み始めた。
おれと酒嶺は、居酒屋にいた。午後六時に飲み会を始めてから、すでに五時間ほどが経過していたが、話の種は、尽きる気配がなかった。
「出来た作品は、クリエイション・フィールドに投稿したんだ。そうしたら、けっこう、評判がよくてね、評価をつけられたり、感想を貰ったりして。いや、もちろん、それら目当てで書いたわけじゃないけどさ。それでも、自作が賞賛されるのは、やっぱり、気持ちがいいもんだ」
クリエイション・フィールドとは、イラストや漫画、小説などといった創作物の投稿サイトである。そこで高い人気を博したコンテンツが、商業的に出版される、ということも、少なくなかった。
「デコヒーレンス・ラヴなら、放送当時、おれも、見ていたよ」おれは唐揚げを口に運びながら言った。「けっこう、楽しめたな。おれ、今、『コペンハーゲン・ゲーム』っていう長編漫画を、クリエイション・フィールドで連載しているだろう。実は、あれ、デコヒーレンス・ラヴの影響を、少しだけ、受けていて──」
その後も、おれと酒嶺は、酒を飲みながら、雑談を繰り広げた。
「デコヒーレンス・ラヴといえば」酒嶺が、急に、しんみりした調子の声になって、言った。「監督の藍下(あいした)或斗(あると)が、この前、亡くなったな。『エヴェレット事件』に巻き込まれて」
「ああ……」おれは、表情を、やや険しくした。「そう言えば、そうだったな。そのことを、テレビのニュースで知った時は、落ち込んだものだ」
エヴェレット事件とは、数ヵ月前から続いている、世間を騒がせている事件である。世界各地で発生しており、標的となった被害者は、全員、死亡している。
「……それにしても、いったい、何なんだろうな、エヴェレット事件の真相って。もっとも、おれは、あまり詳しくないんだが……被害者たちは、全員、何らかの動物に襲われたんだろう?」
「ああ」酒嶺は、こくり、と頷いた。「おれは、少し前、個人的な興味があって、調べたことがあるから、よく知っている。といっても、警察みたいに、本格的に捜査したわけじゃなくて、インターネットを巡っただけだがな。
被害者たちの体には、無数の、噛み傷だの引っ掻き傷だのがあったんだ。そのことから、彼らを襲ったのは、小動物の群れだと推測されている。犬とか猫とかみたいな」
「何の動物かは、わからないのか? DNA鑑定みたいな……」
「それが、わからないんだ。現場からは、動物たちの体毛だの皮膚片だのといった痕跡が、いっさい見つかっていない。だから、DNA鑑定の類いは、やりようがない。
でも……その動物というのは、猫なんじゃないか、って言われている」
「それはまた、どうして?」
「目撃者がいるんだ。いや、この場合、耳撃者、と言うべきかな。その人物は、今から数週間前、ある被害者が襲われた時に、たまたま、現場の近くにいて、いろいろな音を聴いたそうだ。被害者の悲鳴やら何やら。
ちなみに、耳撃者は、その後、警察に通報するため、電話ボックスに向かっている間に、転倒して、落ちている石に頭をぶつけ、そのまま気を失ったらしい。目が覚めた時には、すでに、誰か別の人物の通報によって、警察が駆けつけていたそうだ。
それで、その耳撃者の話によると、何度か、猫の鳴き声が聞こえたらしいんだ」
「ふうん……猫と似た声で鳴く、他の動物である可能性は?」
「ないわけじゃないが、とても低い。耳撃者は、いわゆる獣医で、主に小動物を相手にしているそうでね。猫の鳴き声は、しょっちゅう聞いている、聞き間違えるはずがない、とのことだ。それも、なんというか、憤っているというか──怨みの籠もった感じの声だったらしい」
「怨み、ねえ……」そう言った直後、おれは、ふふ、と小さく笑った。「なら、被害者たちを襲撃したのは、猫の亡霊たちかもな」
「案外、そうかもしれん」酒嶺は真面目な表情で頷いた。「なにせ、エヴェレット事件は、日本だけでなく、世界各地で起きているからな。アメリカだの、ヨーロッパだの、オーストラリアだの。同じ動物の群れが事件を起こしている、とするなら、スケールが大きすぎる。
ちなみに、補足しておくと、エヴェレット事件が起きているのは、先進国が多いかな。いわゆる発展途上国では、あまり、事件は起きていない。まったくない国もある」
「決まりだ、決まり。超常現象だ」おれは、はは、と軽く笑った。「きっと、被害者たちは、猫に対して、何か、酷いことをした経験でもあるんだろう」
「そう決めつけるのは早計じゃないか。それに、被害者たちには、明確な偏りがあるんだ」
「偏り?」
「ああ。被害者たちには、小説家とか漫画家とか脚本家とか、いわゆるクリエイター系の職業に就いている人物が、多く含まれている。さっきも言った、藍下或斗とかな。もちろん、サラリーマンだとか専業主婦だとかいった、そうではない人間も、かなりの数、襲われているわけだが……」
「ふうん……そりゃあ、ちょっと、不自然だな。仮に、そういう人間を優先して襲っているのだとしても……どうして、クリエイターなんかを?」
おれと酒嶺は、その後も、雑談に花を咲かせた。そして、日付が変わり、午前一時を回った頃になって、ようやく、飲み会を終えることにした。
料金の清算を済ませて、外に出た。おれたちは、お互い、この近くに住んでいるが、家は、真反対の方角に位置している。そのため、おれは、酒嶺とは店の前で分かれて、帰路についた。
その後、おれは、自宅を目指して、車道を歩いていった。歩道は、しっかりとは設けられておらず、道路の左右に、白線が引かれているだけだ。ここらあたりは、廃屋だの空き地だのが多く、周囲には、どこか息苦しさを覚えるほどの静寂が充満していた。
しかし、それは、唐突に鳴り響いた、ぴりりりり、という電子音によって、打ち破られた。スマートフォンの着信音だ。
おれは、それをズボンのポケットから取り出すと、ケースの蓋を開けて、ディスプレイに視線を遣った。電話をかけてきたのは、酒嶺だった。
いったい、何の用だろう。おれは、そう心の中で呟きながら、ディスプレイに表示されているボタンを操作して、通話を開始し、スマートフォンを右耳に当てた。「もしもし」
「はあ。ぜえ。はあ。たっ、助けてくれっ」
おれは眉を顰めた。「何だって?」
「助け、はあ、助けてくれえっ」
酒嶺は、ひどく荒い呼吸を繰り返しながら、そう言った。スピーカーからは、たったったったっ、という音も聞こえてきていた。おそらく、彼は、走っているのだろう。さらには、どどどどど、という、地響きのような音も、鳴っていた。
「ど、どうしたんだ」おれは狼狽えながらも言った。「酒嶺、いったい、どうしたんだっ」
「ね、猫だ。エヴェレット事件の猫の群れが、おれの所にも、現れやがったっ」
次の瞬間、酒嶺の言葉を裏づけるかのように、しゃーっ、という、猫の鳴き声が聞こえてきた。
「酒嶺、今、どこに──」
おれの台詞を遮って、酒嶺は、「わっ!」という叫び声を上げた。次いで、どたっ、という、彼が転倒したらしい音と、がらがらがら、という、スマートフォンが地面の上を滑っていったらしい音が聞こえてきた。
「酒嶺?! 大丈夫か! だ──」
そこで、おれは、問いかけるのをやめた。しゃーっ、という、猫の鳴き声や、ぎゃああ、という、酒嶺の叫び声、ぐちゃっ、ざしゅっ、ぶちっ、という、彼の肉体が攻撃を受けているらしい音が、いっせいに聞こえてき始めたためだ。
「とにかく、警察を……!」
おれは、通話を終えると、電話アプリを起動させた。「110」と入力するため、プッシュボタンを表示させる。
そこで、背後から、しゃーっ、という、猫の鳴き声が聞こえてきた。
プッシュボタンをタップしようとして動かしていた右手人差し指が、止まった。おれは、おそるおそる、後ろを振り向いた。
道路の、おれが立っている地点から、数メートル離れた所に、猫がいた。それも、一匹や二匹ではない。アスファルトは、猫により、埋め尽くされていた。さらには、道路の左右に立っている塀の上にも、ぎゅうぎゅう詰めになって、乗っていた。
「ひい……!」
もはや、警察に通報している場合ではなかった。おれは、スマートフォンを投げ捨てると、その場から逃げだした。
背後から、どどどどど、という地響きが聞こえてきた。猫たちが、おれを追いかけてきているに違いなかった。
それから、おれは、ひたすら逃げ続けた。数分後、丁字路に出くわしたので、右折した。
その選択は、失敗だった。曲がった先の道路は、十数メートル先で、行き止まりになっていたのだ。
正確に表現すると、突き当たりには、廃屋への入り口がある。しかし、それは、金属製の門で閉じられていた。門は、とても高く、足掛かりとなるような物もないため、とうてい乗り越えられない。
「うう……!」
おれは、道路の行き止まりまで進むと、門の前に立って、ばっ、と後ろを振り返った。猫たちも、おれを追いかけて、続々と、丁字路を右折していた。それから、ものの数十秒で、周囲のアスファルトや塀の上は、猫で埋め尽くされた。
おれは、すっかり、猫たちに取り囲まれてしまっていた。かろうじて、おれの周り──おれを中心とする半径二メートルほどの円形をした範囲だけが、空いていた。しかし、地面にいる猫たちは、じりじり、と、距離を詰めてきていて、その円を狭めていっていた。
「待──待ってくれ!」おれは両掌を前に突き出した。「せめて、理由を聴かせてくれ! おれを襲う理由を!」
そう言った次の瞬間、猫たちの中から、一匹が、とたとた、と出てきて、おれに近づいてきた。
おれは、その猫に視線を遣った。どことなく、見覚えがあった。
「……あっ!」
どこで見かけたかは、大して苦労せずに思い出すことができた。その猫は、現実世界において目にした猫ではなかった。おれが描いている漫画、コペンハーゲン・ゲームの中で登場させた猫だった。
それは、「シュレディンガーの猫」という思考実験について、読者に説明するシーンだった。
「ああ。そうか。そういうことか」おれは、辺りにいる猫たちを、ぐるり、と見回すと、泣きそうになって言った。「お前たち、さては、シュレディンガーの猫だな」
シュレディンガーの猫。一定の時間が経過すると、五十パーセントの確率で、内部に毒ガスが噴出されるような箱に、猫を入れる。そして、一定の時間が経過した後、箱を開けて中を確認する前の時点では、はたして、猫は、生きているのか死んでいるのか。そんな思考実験。
古今東西、さまざまなクリエイターが、その思考実験を引き合いに出してきた。小説の中で、漫画の中で、映画の中で。そのたびに、猫は、悪趣味な箱に入らされた。死ぬかもしれない、という恐怖を味わわされた。命を弄ばれた。
そして、今、その猫たちが、どうやったのかはわからないが、現実世界に出現しているのだ。自分たちを箱に入れた人間どもに、逆襲するために。
道理で、クリエイター職に就いている人間が、優先的に襲われたわけだ。きっと、被害に遭ったのは、自作の中で、「シュレディンガーの猫」を引き合いに出した者たちだろう。クリエイター職に就いていない人間も、被害に遭っていたが、きっと、彼らは、趣味で創作活動を行っていたに違いない。
「すまなかった。すまなかった」おれはその場で土下座した。額を地面に擦りつけた。「許してくれ。許してくれ」
猫たちの中から出てきた一匹──おれが、自作の中で、「シュレディンガーの猫」について、読者に説明したシーンにおいて、登場させ、箱に入れ、死なせた猫──が、とてとて、と近づいてくると、おれの首の下に潜り込み、頸動脈を、がぶり、と食い破った。
〈了〉
猫の逆襲 吟野慶隆 @d7yGcY9i3t
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