第2話 よつば食堂2

 定期的とはいかなくとも一度きりで彼女のよつば食堂への訪問が終わらなかったことに、近くに越してきたのだとは楽に予想できた。それならば同じ中学校区であることは何の不思議でもない。

榎本えのもとりんです」

 だがクラスまで同じじゃなくてもいいだろうと、翔太は心中でひそかに毒づいた。

「一年間だけですが、仲良くしてもらえたら嬉しいです。よろしくお願いします」

 緊張気味の彼女に向けて、ぱちぱちと拍手が上がる。変わった時期の転校性に、ただでさえ新学期で浮いていた教室はさらに沸き立った。

 あっという間に彼女の周りには人だかりができ、クラスメイト達は次々と質問を口にした。どこに住んでるの、前はどこにいたの、一緒に帰ろう、などなど。それに彼女はひとつずつ丁寧に応じた。凛という少女は、始めこそ様子を覗うように探り探りの姿勢だったが、数日もすればあっという間にクラスメイトと打ち解けた。女子グループの輪に自然と溶け込み、新しい友人と笑って話すようになった。

 それは、若葉中学校に通って三年目になる翔太よりも随分馴染んだ姿だった。だからなんだと、翔太が彼女を囲む輪に入ることは一切なかった。


 新学期が始まって一週間。その日も翔太はよつば食堂にいた。入った直後から元さんたちに絡まれ、雑談の相手をしていた。

「前も言ってたけど、そんなにいいの。夜行列車」旅行が趣味だという元さんの話を聞きながら、彼は呟いた。

「ああ、いいぞ」作業着の袖を捲り上げた太い腕を組んで、元さんは満足そうに頷く。

「おまえもわかるだろ、遠足前のわくわくってやつ」

「俺、ああいうの好きじゃないから」

「可哀想なやつだなあ、翔太は」近くの男が彼の痩せた背中を叩く。椅子から滑り落ちそうになり、わははと男たちが笑った。

「この街からも出てるだろ」元さんの言葉に、翔太はうんと頷く。もちろん乗ったことはないが、駅の付近ではよくカメラを持った人を目にする。彼らは大抵、夜行列車「ほうきぼし」を見に来ているのだ。

「遠ざかっていく街の光とな。いつまでもついてくる星ってのは飽きないもんなんだ。夜を旅してるとな、いろんなもんを忘れられる。生まれ変わる気分だぞ」

「ふうん」と翔太は興味なさげに声を漏らす。「現実逃避」と短く付け足した。

 そうして立ち上がって気が付いた。いつの間にかやって来た女の子が、席の一つについて食事を始めている。

 彼女はカウンターのそばに座っているから、注文するには必然的に近くに寄らねばならない。翔太は彼女にまったく目を向けることなく、カウンターの内側にいるアルバイトの男子大学生に「親子丼一つ」といつもの注文をした。

 その時、「おっと」と後ろで太い声がした。

「翔太、台拭き取ってくれ」

 振り向くと、水のおかわりにきた元さんがテーブルに引っかかったのか、水を零してしまっていた。慌てて翔太はカウンターの隅にある台拭きを手に取り、濡れたテーブルを拭く。

「悪いな、翔太。……姉ちゃんも、水かからなかったか?」

 その時、「大丈夫です」としどろもどろに返事をする彼女とはっきり目があった。水は彼女の盆の際まで達していて、それを拭きながら彼女を無視するのには限界があったのだ。

「えっと、その……」

 何か言いたげな顔をする彼女に、翔太はため息を堪える。ばん、と強く肩を叩かれた。見ると、背を向けて去っていく元さんが右手をひらひらと振っている。

 わざとだな。苛立ちと共に、少しだけほっとする。今後も彼女がこの食堂を使うなら、無視し続けるのも居心地が悪い。今が話しかける絶好のチャンスだろう。

「ここ、座ってもいい」

 向かいの席を指すと、彼女は大きく頷いた。

 腰を掛け、彼女に食べるように促す。行儀よく背筋を伸ばす彼女は、迷いながらも箸を取った。盆にあるのは翔太が買うことのできない、鉄火丼だ。

「えっと、同じクラス、だよね」彼女は上目遣いに彼を見る。「ごめんなさい。まだ全員、覚えてなくって」

「雨宮。雨宮翔太」

「ありがとう。覚えた、翔太くん」

 少しの驚きを翔太は抱く。中学生になって、女の子に下の名前で呼ばれることなどなかったからだ。そして彼女がすぐにクラスに馴染んだ理由を知る。この壁のない距離感が好まれるのだろう。

「……えっと」

 反対に翔太は言い淀む。どうでもいいと思っていた転校生の名前を、彼は未だに覚えていなかった。

 くすりと彼女は笑う。

「榎本凛。凛でいいよ」

「わかった。榎本さん」

「凛でいいってば」

 黙って立ち上がり、番号札を手にしてカウンターに向かう。いつもの親子丼が乗った盆を手に席へ戻る。大して知らない女の子を下の名で呼ぶ気にはなれない。小さく手を合わせ箸を手に取り、卵を軽く押しつぶす。

 しばらく黙々と食事を摂っていたが、やがて凛が覗うように口を開いた。

「親子丼、好きなの」

 ちらりと彼女を見やり、箸を口元に運ぶ。「それなり」短く返事をする。三百円しか持ってないから、なんて事情を説明する必要はない。柔らかい卵と甘い玉ねぎを咀嚼する。

「いつも、それ食べてるよね」

「見てたのか」

「ちょっとだけ。よくこのお店使ってるの」

「まあ……」

「そうなんだ」食べ終わった凛は微笑んだ。「私は、お母さんが忙しい時だけ、来てるんだ」その笑顔に何だか居心地が悪くなり、翔太はただ箸を動かす。凛は少し退屈そうにテレビを見上げ、クイズ番組の回答を小声で口にしている。

「私ね」それがCМに入ると、米粒の一粒余さず箸で拾う翔太に凛は言う。「夢、見るんだ」

「夢?」

「そう」顔を上げた翔太に、彼女は些か神妙な面持ちで頷いた。

「未来のね、夢が見えるの」

 ああ、こいつはやばいやつだ。翔太は話しかけたことを後悔した。

「そんな嫌そうな顔しないでよ。本当のことなんだから」

「どういうこと」

「例えば、教科書のあるページを夢で見るでしょ。すると、その範囲がテストに出るんだ」

 翔太は少し考える。「予知夢ってやつか」どこかで聞いた話だ。だが彼女は首を横に振った。

「ちょっと違うかな。私はね、こっちを選んだらいいことがあるっていう夢が見えるの。教科書を捲るかどうかは、私次第」

「へえ」

 彼の薄い反応は想像通りだったのか、凛は不満そうな顔も見せず立ち上がった。

「ちょっと来て」

「なんで」

「証明するから」

 さっさと自分の盆を片付けると、凛は早く出ようと促してくる。何があるのか知れないが、彼女から滲む自信の出所が気になり、翔太も立ち上がった。

 午後八時前になると、外はすっかり暗くなっていた。街灯の明かりを辿る彼女の髪が夜風に揺れる。どこに行くんだと問いかける前に彼女は立ち止まった。人気のない路地の手前には、自動販売機があった。

 彼女はポケットから小銭入れを出し、手のひらに百円玉を一枚と十円玉を三枚乗せる。

「これでコーヒーを二本買います」

 得意げに彼女は言うが、この自動販売機は安くて百三十円。五百ミリリットルのペットボトルは百六十円する。「無理だろ」と率直に翔太は返した。だが彼女はすました顔で硬貨を投入口に入れた。選んだのは、百三十円の微糖のコーヒー。

 結局一つじゃないか。音を立てて落ちた缶を見て言いかけた翔太は、それを見つめた。

 自動販売機についているカウンターが回っている。7が一つ。もうひとつ、7。そして三つ目。

 やがて、7が四つ並んだ。

「……あたった」

 目を見開く翔太の前で、彼女は「どう?」とでも言いたげな顔で同じコーヒーのボタンを押した。そして両手に持つのは宣言通り二本のコーヒーの缶。

「一つあげる、翔太くん」

「どういうことだよ」

「どういうことって。だから、夢を見たの。このコーヒーを買う夢」一本を翔太の手に押し付けて、彼女は笑った。「夢の通りにしたから、いいことが起きた。自動販売機でいいことっていったら、あたりでしょ」

 違うともその通りだとも、彼は言えなかった。

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