綺羅星のアストライアー

紀之貫

第1章 星の乙女が舞い降りて

第1話 ファーストコンタクト

 武道少女の朝は早い。4月13日、午前5時半。高原真希は、日課である海岸でのジョギングに繰り出した。時折波に洗われる浜の上を、彼女はリズミカルに駆けていく。雑に束ねた髪が左右に揺れる。少し走り込むと、早朝の寒気の中でも、体がじわっと汗ばんでいく。

 それから一度歩を止めた彼女は、ジャージの袖をまくりあげ、タオルで軽く顔を拭った。

 祖父の教えで始めたこの日課を、彼女は時には汗ダクダクに、たまにダラダラと取り組んでいた。悪天ともなると、さすがに浜へは出ないが……ともかく、これがいつものルーチンワークである。


 そんな日常を繰り返していれば、たまには浜で妙な物に出くわすこともある。ちょうど今日がそんな日であった。

 少しダラケ気味にジョギングしていく真希の視界に、一人の人影が映った。彼女は少しペースを上げそちらへと近づいていく。

 何も、好奇心からそうしているのではない。こんな早朝から浜にいる人影、それも身動きする様子のないそれに、何か良からぬ予感を覚えたからだ。

 近づくにつれて徐々に息が上がっていくのは、体での負荷ではなく心理的なものだろう。彼女はそのように認識した。早朝の薄暗さの中、暗鬱なイメージが彼女の胸中を這い上がってくる。それでもなお歩を進めていき、人影が少しずつ明瞭になっていく。


 それは、体育座りをしている女性であった。メガネをかけていて、20代半ばといったところ。長めの髪は少しウェーブがかかっている。

 しかし、真希の目には、その女性が好んでそのようにしているのではなく――どうにも、単に髪が荒れているように映った。全体的にくたびれた雰囲気の女性に、真希の目は釘付けになる。

 そして、あるものに気づいて、彼女の心臓が跳ね上がった。その女性は素足だった。傍らには揃えられたパンプス。サンダルならまだしも……である。

(いや、まあ……素足って気持ちいいからね? わかるわかる~)

 現実逃避気味な声が、真希の脳裏に響く。だがしかし……海を前に、打ちひしがれた様子の女性が一人。傍らには揃えられた靴。

――それはつまり、そういうことだろうか? テレビっ子ではない真希も、なんとなくを察するだけの文化的通念はある。ステレオタイプの、サスペンスじみた何かを目にしている心地に、彼女は戸惑った。心拍数が急上昇する。心臓の高ぶりようはジョギングどころの騒ぎではない。

 だが、見て見ぬふりをすることを、彼女は良しとしなかった。様子をうかがいつつ、刺激をしないようにと、ジリジリ近づいていく。


 すると、女性がスッと立ち上がった。真希に気づいた様子はないが、それでも彼女は驚き、思わずたたらを踏んでしまう。体が急に強張こわばり、背筋には芯材が突如として現れたようだ。刺激を与えまいと考えるあまり、身動きを取れなくなって、彼女はただ見守ることしかできない。

 それから、その若い女性は――海に向かい、叫んだ。


「ばかやろぉ~!!」


 少し舌足らずというか、微妙にろれつが回っていない声だ。真希の耳には思いのほか、かわいらしく響いた。

 だが、やっている本人は真剣そのものである。腹の底にためた全てを吐き出すように、体をくの字に折り曲げて、やや柔らかな声質の怒声を上げていく。意外と長く続く叫びであった。

 その声に震えのような物を感じ取り、真希は(失恋かなあ)と思った。


 さて……放っておくべきかどうか。真希は考えた。そういう場面を目にしたことはないものの、靴が揃えてあるということには、暗い物を想起させる先入観がある。

 かといって、他人の色恋沙汰に口を挟むのはどうも……耳年増な同級生たちに比べると、そういう点については淡白というかオトナというか、ともあれ彼女はそういう自己認識である。


 ただし、状況は思考の時間を与えはしなかった。今日の浜は忙しく、客は彼女たちばかりではない。珍奇極まる客が、あと二体――それも、相当な大物が。

 海に向かって叫んだ後、女性はその場にへたり込んで泣き出し始めた。そして真希は、その様を見ている自分自身に、何とも言えない趣味の悪さのようなものを覚えてしまった。その居心地の悪さに追い立てられ、真希は声をかけに行くことに。


 これが、運命の岐路であった。


 彼女が動き出した矢先のことである。彼女の視界の端に、少し輝く何かが映り込んだ。(流れ星かな?)と思った彼女だが、光の方を見上げて、彼女は心臓が止まるような寒気に襲われた。

 何かが海へ落ちてくる――いや、落ちた。着水点から海が急に盛り上がる様が目に飛び込み、やや遅れて低い重厚な轟音が響き渡る。

 次いで、潮気を含む空気の壁が、彼女の全身を叩きつけてきた。これを彼女の体と本能は、攻撃と受け取ったようだ。無意識のうちにふんばった下半身が、突風に抗って彼女をその場に留めた。

 何かが落ちた衝撃を五体で感じ取った彼女は、身構えて前方に目を向けた。何かが落ちて、海が盛り上がっていた。だったら、波が来る。

 しかし、彼女の懸念とは裏腹に、それらしいものがやってくる様子はない。局所的な海の盛り上がりは、少しずつ海に飲まれるようにして、その波高を落としていく。

 波は大丈夫だろうか? わからない。不可解な事態に困惑する真希だが、この浜辺が何か危険にさらされている実感も確かにある。一方、浜辺のもう一人は泣くのに忙しく、外界の変化には気付いていないようだ。


「ちょっと~! 危ないですよ!」


 たまらず真希は、声をかけた。「自分だけでも」とは毛ほども思わなかった。衝動的な良心に身を任せ、彼女は女性の元へと駆け付けてその身を揺する。「危ないですよ」と言いつつも、何が危ないのかはまるでわかっていない。ただ、彼女の中の声は、そうすることを命じている。


 実際、浜辺は危険の真っ只中にあった。真希が動き出してからすぐ、二人はそれを身を持って知ることになる。

 何かが海へ落下した箇所は、今では水面の盛り上がりがない。奇妙なほど静かに、平坦な水平線へ戻っていた。というよりも、むしろ――海が少し凹んでいる。

 海へと目を向けた真希がそれに気づくのとほぼ同時に、大気の動きが二人を襲った。今度は海から吹く突風でなく逆方向に、海へと吸い込まれていく風が。

 不自然に生じた風は、秒単位で勢力を増すようである。ついには、先程の突風よりも力強い大気の流れとなり、真希はこらえきれず海へと吸い込まれてしまった。泣いていた女性も同様である。彼女は転がされながら海へと飲み込まれていった。


 海に飲まれてからも脅威は続く。むしろ、こちらが主軸なのかも知れない。浜辺にほど近いはずの海中でも、不自然な水流が生じており、真希は泡立つ荒波にあおられた。間違いなく、沖の方へと流されている。

 こうして波に流される中、真希の胸中に後悔の念が沸き上がった――助けに行ったことではなく、ジャージなんかを着てきたことに。水をたっぷり含んだ生地が、身動きを阻害してくる。祖父に各種の武道を仕込まれた彼女だが、着衣水泳の覚えはない。あっても役立ったかどうかという状況ではあるが……

 しかし、こうした拘束感を跳ねのけるように力を振り絞り、真希は海面から顔を出して周囲の観察に努めた。そして、例の女性の所在を確認するや、そちらへ渾身の力で泳いでいく。

 結局の所、二人で溺れるだけかもしれない。心身がともに生と死の両方を感じている。そんな最中にあって、真希の脳裏に両親の顔が浮かび上がり、彼女は踏ん張った。


 このような危機的状況ではあったが、彼女の観察眼と判断力は、一層の冴えを見せた。一応の希望みたいな物はある。あの猛烈な突風は、二人を海に飲み込んだだけでない。浜辺にあった他の雑多ななんやかんやも、今では運命をともにしている。たとえば、浜辺に打ち捨てられていたボートなどが。

 それに、この海の流れがどこかへ向かうものなら、流れに身を任せることで合流することもできるだろう。その証拠に、流れを生かしてあの女性へと近づけている。

 こうした思考の流れの中、彼女はきちんと状況に立ち向かえている自分に気づき、(血筋かもしれない)などと思った。


 あらがいがたい力の奔流の中、真希は懸命に動き続け――悪戦苦闘の末、例の女性と合流することができた。死んではいないが、消耗した様子ではある。

 すると、女性は弱弱しい声でつぶやいた。波の轟きに呑まれそうなか細い声ではあったが、真希の耳には「ごめんなさい」と聞こえた。それを耳にして、頬が少し緩む。こんなことになったのを悪く思っているようで、きっといい人なんだろうと。

 傍から見れば、二人とも要救助対象である。しかし、当事者の中では確実に序列がある。真希にとって、傍らにいる名前も知らない女性は、助け出すべき存在であった。お荷物を抱えたという事実が、力を沸き立たせていく。


 まずは、何か捕まる物を……薄暗い空の下、暗色の波に揉まれつつ彼女は目を凝らし、ようやくすがり付ける何かを視界に捉えた。

 おそらくはボートであろう。白く滑らかでつややかな質感の物体が、波に浮かんでいる。

(いや、ボートの底面ってあんなんだっけ?)

 女性を抱えつつ、辺りの残骸を伝って少しずつ動きながら、真希は自問自答した。当面の目的であるそれは、ボートの底というより、裏返した洗面器のようである。

(ま、どっちでもいっか!)

 この際とやかくは言っていられない。その洗面器が妙に近づいて来ているのも、波のせいだと思い、彼女は深く考えなかった。 しかし……


『掴まってください!』

「うん……????」


 頭に響いた声に対し、だいぶ遅れて疑問符が沸き上がる。だが、彼女の体は正直で、疑問の解消よりも当面の安全確保を優先した。

 やがて、互いに引き寄せ合うように動き、二人は洗面器らしきものに漂着した。周囲の残骸たちに比べれば、不自然なほどに滑らかだが……不安を抱くのは贅沢な悩みというものだろうか。二人は整った表面に身を任せ、どうにか落ち着ける土台を得た。

 真希はとりあえず、例の女性がまだ息をしてることに安堵し……先程の声を反芻はんすうし始めた。アレが幻聴だったなら、ソレはソレでコトである。一方、アレが本当に聞こえたものなら、誰かが発したものなら――


 その時、真希は不思議な浮揚感を覚えた。それから、白い光に包まれていく感覚を。

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