第25話 疑惑

1.


 それから僕たちはしばらくの間、三体の彫像のようにランタン型のライトの灯りを囲んだまま動かずにいた。

 

 今にも、黒須を殺した奴が部屋の中に入って来るのではないか。


 その恐怖が僕たちの細胞のひとつひとつまで縛り上げ、生命のないものにしてしまったかのようだった。


 

 僕は時折、眼球だけを僅かに動かし、暗闇の中で夕貴とシノの姿を伺ったが、夕貴は灯りをジッと見つめたまま、シノは膝の上で組んだ腕の中に顔を埋めたまま、一切動く様子がなかった。

 

 生きているのか死んでいるのか、それ以前に人間なのか人形なのかさえ、判別することができなかった。




2.


「探しに行こう」


 不意に夕貴がそう言った。

 虫でも口に入ってきたかのような忌々しげな声だった。

 声を発した直後に、自分の声の響きに驚いたかのように辺りを見回し、急いで口をつぐんだ。


「探しに行く……って?」


 僕は囁くような掠れた声で呟く。

 


 僕の目の前には二つの光景が見えた。

 ひとつは、夕貴とシノがいる、いま目の前にある「現実の」薄暗い教室の風景。


 そしてもうひとつ。

 トイレの個室にうずくまる、恐怖と苦痛に顔をあり得ない形に歪ませ、絶叫を上げる形で生命を停止させた黒須の姿。

 その映像が目の前から消えてくれない。

 

 一体、どちらが「本当の現実」なのだろう。


「璃奈を……」


 夕貴は端整な顔を歪めて、短い呟きを落とす。

 その言葉から、自分にこんなことを言わせる璃奈に対する憎悪が伝わってきて僕は身を震わせた。



 しかしそれは一瞬だった。

 夕貴はその憎悪を意思の力で抑えつけると、シノのほうへ顔を向けた。


「シノ、ここに残っていてもらえるか?」

「……やっ……!」


 シノの口から飛び出そうになった抗議の叫びを、夕貴のすさまじい眼光が抑えつける。

 シノは鞭で打たれた家畜のように身を縮こめたが、許しを請うような顔で再び口を開いた。


「……いやだよ……。あいつと残るなんて」


 シノは僕たち二人だけに聞こえる声で呟き、僅かに視線を教室の隅の闇の塊のほうへ向けた。

 そこは相変わらず、肉眼では何も見通せず、ユカリがいるかどうかすらわからなかった。


「誰かがいなきゃいけないんだ。璃奈が戻って来るかもしれないから」


 オレンジ色の淡いライトの中で、夕貴のこめかみが神経質そうにぴくぴくと震えているのが分かる。


「わかるだろう? それくらい。それとも君が外に見に行くのか?」


 シノの瞳がみるみるうちに恐怖を映し出す。

 言葉よりも雄弁な拒絶の意だった。

 夕貴は怒りを通り越し、むき出しの暴力のような顔つきでシノを睨んだ。


「じゃあ、どうするんだ。このままここにいたって仕方ないんだ」

「なあ……」


 不意にシノが僕たちのほうへ顔を寄せて言った。

 その声は、空気の震えに過ぎないのではないかと思うほど小さい。

 でもやがて、その音は意味となって僕たちの耳に届く。


「黒須を殺した奴は……本当に、外にいるのか……?」


 僕と夕貴は大きく目を見開き、シノの顔を凝視した。

 怯えと媚とそして卑屈さの中に、自分だけが気付いていることがあるという優越感を僅かにのぞかせて、シノは唇をひくつかせた。

 

 笑ったのだ、と気付いた。

 僕はそのことに愕然として、ただシノの顔を眺めた。


「どういう意味だ……?」


 夕貴はシノの顔を見つめながら、用心深い口調で囁く。

 実際に、僕たちはシノの言うことの意味が、未だによくわからなかった。


「だから、さ……」


 シノは半ば恐ろしさから半ば僕たちを焦らすために、あやふやに口の中で呟いた。

 猫に追いたてられた鼠のように細かく震え、落ち着くことなく動く瞳が、やがて教室の後方へ向けられる。


 教室の前のほうにいる僕たちからは、後方は下げられた机が障害になりよく見通せない。そこには、周りの薄闇よりもなお暗い、暗黒そのもののような黒々とした塊がうずまいている。


 シノの視線の意味はわからなかったが、ヒヤリとした冷たいものが僕たち三人の間を足音を立てずに通ったことは感じた。



 夕貴は、教室の片隅の黒い塊から視線を逸らした。

 それ以上シノに詰め寄ろうとはせず、目の前にある灯りの揺れを見つめる。その横顔には、先ほどまではなかった陰惨な翳りがあった。


「どうして……そう思うんだ?」


 夕貴の横顔はほとんど動かないのに、声だけが密やかに耳に忍び込んできた。

 

 奇妙なほど長い間のあと、シノが答えた。


「……お前らが外に出て行ったあと、俺はずっとここにいた。でも……灯りは黒須が持っていっちまったから今よりずっと暗かったし、俺は、窓ぎわにいたから……」


 シノは僕たちに交互に目を向けた。

 その視線には悪意はない。

 だが黒々としたタールのようなものがまとわりついているかのような、卑屈さがあった。


 何かを誤魔化すように奇妙な形に口を歪めながら、シノは言った。


「だからさ……ユカリが後ろの扉から出て行ったとしても……たぶん、気付かなかったと思う」


 どういう意味だ?

 

 シノがユカリと二人きりで教室に残っていたときに、ユカリが教室から出て行ったとしても気付かなかったかもしれない。

 

 それがどうしたと言うんだ……?



 僕の困惑など目に入らないかのように、夕貴が小さな声で言った。


「僕たち三人は一階から、教室をひとつひとつ見て回ったんだ。一階と二階と三階を見て、四階まで行くのにたっぷり四十分くらいはかかっている」

「それだけありゃあさ……」


 シノは一段と声を低めた。


「十分だろう?」


 それ以上続けようとしないシノの視線を受けて、夕貴は教室の後ろの闇に眼を向けた。

 その闇を凝視して言葉を紡ぐ。



「それだけあれば、黒須を殺してここに戻って来るには十分だ」








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