15-10
試験が終わり、俺の中で憂鬱が膨らむ要因が一つだけあった。部活の再開だ。夏休み中ももちろん部活動はある。あまり意味のなさそうな走り込みもひたすらこなすだけの素振りもそこまで苦痛じゃない。原因は磯矢だった。磯矢のあの這い回るような指の感触を思い出すたび吐き気がした。あれなら月乃君の汗ばんだ手を握っている方がまだ幾分かましだ。
そして、終業式の日から部活が再開されることになった。にやにやと蛙の顔で笑う磯矢の顔を見るだけで気分が悪くなる。そして三十分ほどの走り込みが終わって、素振りの時間になる。
「試験終わって気緩んでんじゃないだろうなー。フォームはしっかり練習しろよー」
いかにも教師っぽいことを吐きながら、一列に並んだ女子生徒達を一人ひとり指導していく。
「ほら、水村。上半身が下がってきてるぞ」
その言葉と共に急に腰を摑まれる。びくっ、と体が頭よりも先に拒否反応を示す。すみません、と声にならない声で返事をする。
「グリップもきちんと握って。ちゃんと強く、な」
二の腕からラケットを握る右手までを、必要のない緩い速度で撫でられる。触れられた部分から鳥肌が一気に広がる。ふざけんな、こいつ。ラケットでぶん殴ってやろうか。もちろん、思うだけでそんなことはできない。この体でできるわけがない。
「よくなってきたぞ。そのままラケットを振ってみて」
顔が異様に近い。吐息が髪の毛越しに耳にかかる。生暖かくて気持ち悪い。手はいつの間にか脇腹を撫で回すように動いている。姿勢を矯正するふりで磯矢の指先に力が
駄目だ。気持ちが悪い。吐き気がする。頼む。早く終わってくれ。俺にはそう祈ることしかできなかった。分からない。どうして水村はこんなこと毎日我慢できるんだ。どうして、仕方ないの一言で笑って流せるんだ。だってこんなのはただの暴力だ。
「磯矢先生!」
急に聞き覚えのある声が聞こえた。その瞬間、芋虫のような両手の指から解放される。俺と磯矢は同時に声のした方を向く。水村だった。遠くに田崎達の姿も見える。
「誰だお前、今部活中だぞ」
磯矢がそう憎々しげに言い放つのと、水村が不格好に両手を構えるのとはほぼ同時だったように思う。それに気付いた俺が、おいそれはやめとけ、と叫ぶよりも早く、水村の右手が磯矢の頰を打ち抜いた。それほど重い一撃とも思えなかったが、完全にノーガードだった磯矢の顔面は空に跳ね、そのままグラウンドに倒れ込んだ。きゃああ、とテニスウェアの女子達が叫ぶ声が聞こえる。田崎が慌てた様子でこちらへ駆けてくる。磯矢は鼻血を出して殴られた頰を押さえ砂まみれで転がっている。俺が
「めっちゃ気持ちよかったあ」
何笑ってるんだ、この女は。
当然のことながら大騒ぎになった。痛い痛いと半泣きの磯矢と俺と水村は三人別々の部屋に入れられ、それぞれ事情を聞かれた。二人がどんな受け答えをしたのかは知らないが、俺はどうにか水村、というより坂平陸が問題にならない方向に持っていくよう話した。とはいえほとんどは真実だ。磯矢が恒常的にセクハラを繰り返していたこと。それを坂平陸がたまたま目撃して、きっとカッとなって殴ってしまったのではないかということ。話し終えると担任は分かったとだけ言い、家に帰らされた。
結果的にソフトテニス部はしばらく休みになった後、顧問が変わった。磯矢が学校を辞めたという情報はあっという間に広まった。家庭の事情が理由の自主退職、というのが表向きの理由だった。俺はいづらくなって部活を辞めてしまった。水村は夏休み中だというのに十日間自宅謹慎を言い渡され、そのまま俺と同じようにサッカー部を辞めた。
事情を知った母親は俺の心配をしてくれた。気づかなくてごめんね、ひどいことされたね、怖かったね。そう言って抱き締めてくれた。不覚にも泣きそうになった。こうやって抱き締められているのが水村だったらよかったのに、とも思った。
そして母親が次に心配したのは坂平陸だった。自分の娘を助けた男に対して、お礼を言いに行かなきゃと騒ぎ始めた。やめとこうよと言う俺の制止も聞かず、連れ立って坂平家に行くことになった。
水村の母親を自分の本当の家に案内する、という行為をなんだか不思議なものに感じていた。そして団地に着いたとき、激しい羞恥を覚えた。水村の家は中心街から少し離れているとはいえ立派な一軒家だ。片や俺の家はみすぼらしい団地で、エレベーターすらついていない古い建物だ。水村にこの家を知られたときは何とも思わなかったのに、水村の母親に知られるのは何故かすごく嫌だった。母親にも会わせたくなかった。水村の母親は家でもきちんとした格好をしているし、薄いながら化粧もしている。一歩も外に出ない日であっても、だ。一方俺の母はパートに出る時も長い髪をひっつめてマスクをするだけでほとんどすっぴんだ。家にいる時は俺が小さい頃からずっと着ている毛玉だらけのスウェット姿だ。今までなんとも思っていなかったのに、急に自分の家庭が恥ずべきものに思えてきてしまった。家のドアの外に置いてある薄汚れた自転車も弟のバットやグローブも、ブザーみたいな変な音がするチャイムも、全部が恥ずかしかった。そして、家族を恥ずかしいと思うことに激しい罪悪感を覚えていた。
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