【受賞作大量試し読み】君の顔では泣けない
KADOKAWA文芸
30-1
30
年に一度だけ会う人がいる。夫の知らない人だ。
その日はいつもより一時間以上早くアラームが鳴る。夫と娘が目を覚ます前に素早く音を止め、息を殺してゆっくりと布団から
リビングに向かい、カーテンを開ける。七月ともなると六時前にはもう日が高い。いつもこの日はいい天気だ。今日もその法則に
炊飯器を開ける。セットしたタイマー通りに米がきちんと炊けているのを確認すると、
結婚して子供ができて、着飾ることからいつの間にか遠ざかりつつあるが、今日は久々に気合を入れる。あいつに老けたなとか変わったなとか思われるのが一番むかつくのだ。
化粧を終えて壁にかけた時計を見上げる。家を出る時間まで少しだけある。シンクに
家族三人が詰まった小さな部屋は、物が多く雑然とはしているものの、きちんと片付いている。これでも家が不快な場所にならぬよう充分に気を配っているつもりだ。室温も匂いもクッションやソファや布団の柔らかさも、常に最適に保っていなければならない。
八分目まで腹を満たしたごみ袋を箱から取り出し、新しい袋を取り付ける。口を縛って玄関先まで持っていく。もう一度用を足し、手を洗うと足音を殺して寝室へ再び入る。
夫は気配に気づくことなく、大きな
新幹線ではどうしてか眠れなかった。駅のコンビニで買ったおむすびと麦茶を口にして、それなりの満腹感でまどろみは傍に来ていたものの、眠りにまでは
日記を読み終えてしまうと、することもなくなってしまって、仕方ないのでぼんやりと窓の外を眺めていた。銀色のビル街はとっくに遠ざかって、辺りは木々と畑ばかりになっている。この景色を目にすると、故郷が近くなってきたな、となんだかそわそわする。正月に夫と娘と三人で向かうときはそんな気持ちにはならない。娘がお腹
でもこの気持ちは、故郷を懐かしむものとはまた違う。どちらかというと不安という感情のほうがしっくりくる。何も変わらないでいてくれという願いにも近いかもしれない。
正月と、そして七月の第三土曜日、年に二回は必ず実家へ帰るようにしている。それなりに顔は出しているはずなのに、その度に周辺の変化に驚かされる。隣に住んでいた同い年の子が
何かが変わってしまうことが昔からずっと苦手だ。中学や高校に上がった時も初めて会社勤めをし始めた時も不安でいっぱいだった。その不安は今でもまだ付いて回っている。いずれここまで積み上げてきたもの全てが崩れ去って、何もかもが変わってしまうんじゃないかと恐れている。でも、その方がいいんじゃないのかとも思っている。
結局一睡もできないまま新幹線は駅に到着した。新幹線が停まるだけあって大きな駅ではあるが、人の数は少なく、降りる姿もあまり見られない。駅前はビルがずらりと並んでいるだけで、観光地ではないせいもあるのだろう。着いたよ、とだけ母にメッセージを送る。即座に電話がかかってくる。
「はい、もしもし」
「もしもし? あのね、いつものとこ待ちあわせで」
それじゃあね、と言って電話が切れる。それだけならわざわざ電話してこなくていいのに。肩にかけたバッグを持ち直し歩く。
東京の夏とは違って、こちらの暑さはあまりじめっとしていない。それでもやはり外に出て歩くと首筋や背中にじっとりと汗をかく。駅の出入り口に
「ちょっと。恥ずかしいから大声で名前呼ぶのやめてってば」
数ヶ月ぶりに乗る実家の車は、やはりいつもの通りちょっときつい古いシートの臭いがした。苦手な臭いだ。バッグを肩から降ろし、後部座席に深く腰掛ける。
「だって呼ばないとあんた気づかないじゃないの」
「クラクションとか鳴らせばいいじゃん」
「あらやだあんた、荷物それだけなの?」
「一泊しかしないんだから充分でしょ」
「せっかくわざわざ来たんだから、もうちょっと泊まっていけばいいのに」
「まどかのこともあるんだから、そんなに何泊もできないよ」
「というかあんた、毎年毎年ひとりでこっち来てだいじょうぶなの」
「大丈夫だよ。
「あんたねえ、なんでもかんでも涼さんに頼りっきりじゃだめよ」
はいはい、とシートに身を沈める。
窓の外に目をやる。車はいつの間にか駅前からだいぶ遠ざかっていて、車通りも歩行者もだんだん少なくなっていく。目に
「もう着くよ」
水分を失った目をこすりながら外を見ると、「もう着く」というほど家は近くはなさそうだった。大通りとは名ばかりの車通りの少ない道沿いに、古ぼけた商店やスーパーや薬局が立ち並んでいる。
この辺りの街並みも変わらないようでいて、けれど目を凝らすとよく行っていた駄菓子屋が
昼過ぎには閉まってしまう老舗のパン屋を目印に左へ曲がって、住宅が立ち並ぶ坂道を車は登っていく。昔はこのずらりと並んだ白い壁の大きな家々が
車が家に着く。この家も少しずつ変わっていく。『水村』と書かれた表札も実家にいた頃のものよりお
二階のベランダでは白いシーツが風になびいてひらひらと躍っている。車は車庫へと入っていく。荷物を肩にかけ、家のドアを開ける母の後ろについていって、「ただいま」と声をかける。
「お父さん、今将棋会で出かけてるから」
「あ、そうなんだ。意外とよく続いてんじゃん」
「将棋会なんて言ったって、ほとんど指しやしないのよ。お茶飲んでお菓子食べてくっちゃべってるだけ」
リビングでは飼い犬のペロが自分の前足を枕にして
「ただいま、ペロ」
荷物を置いてペロのもとへすり寄り、頭を撫でる。くすぐったそうに目をすがめて、
「ちょっとまなみ、荷物きちんと部屋に置いてきなさいよ」
「はいはい」
「はいは一回。家帰ったら手洗いうがい、
「どうせすぐまた出るもん」
「なに、あんた今日もまた
「うん、そのつもり。駅まで迎えに行ったりするから、今日車借りてっていい?」
「いいけどあんた、夕飯までには帰ってきなさいよ」
懐かしい
この家を出てからリビングのソファは二回変わったし、絨毯は三回変わった。食卓用のテーブルはずっとそのままだが、キッチンの棚の中にはテレビの通販で取り扱われるような最新の調理器具が帰省の度に増えている。ドラマしか見ないくせに、テレビは無駄にワイドな最新型だ。
人も町も家も、すべてが緩やかに、あるいは唐突に変化していく中で、この部屋だけは時を止めたままだ。おジャ
この場所だけは、ずっと変わらないままでいなければならない。いつでも戻って来られるように。それが、自分がこの体でいる間の義務なのだから。
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