【受賞作大量試し読み】君の顔では泣けない

KADOKAWA文芸

30-1

   30


 年に一度だけ会う人がいる。夫の知らない人だ。

 その日はいつもより一時間以上早くアラームが鳴る。夫と娘が目を覚ます前に素早く音を止め、息を殺してゆっくりと布団からい出る。娘がばしたブランケットをかけ直す。

 リビングに向かい、カーテンを開ける。七月ともなると六時前にはもう日が高い。いつもこの日はいい天気だ。今日もその法則にたがわず、高い空には雲一つなく太陽がこうこうと照っている。普段は見上げたりしない空を仰いでみる。

 炊飯器を開ける。セットしたタイマー通りに米がきちんと炊けているのを確認すると、ふたを閉じて、トイレに行って顔を洗い、歯を磨く。昨日は早く床に就こうと思っていたものの、なんやかんや二時過ぎまで寝られなかったのですこぶる眠たい。着替えを終え、化粧は新幹線でしちゃえばいいか、と一瞬思ったものの、席に座るやいなや眠ってしまう自分の姿が容易に想像できて、どうにか自らを奮い立たせて化粧道具を手にする。

 結婚して子供ができて、着飾ることからいつの間にか遠ざかりつつあるが、今日は久々に気合を入れる。あいつに老けたなとか変わったなとか思われるのが一番むかつくのだ。

 化粧を終えて壁にかけた時計を見上げる。家を出る時間まで少しだけある。シンクにまっている水にけたままの食器を洗い始める。

 家族三人が詰まった小さな部屋は、物が多く雑然とはしているものの、きちんと片付いている。これでも家が不快な場所にならぬよう充分に気を配っているつもりだ。室温も匂いもクッションやソファや布団の柔らかさも、常に最適に保っていなければならない。

 八分目まで腹を満たしたごみ袋を箱から取り出し、新しい袋を取り付ける。口を縛って玄関先まで持っていく。もう一度用を足し、手を洗うと足音を殺して寝室へ再び入る。

 夫は気配に気づくことなく、大きなたいを丸めてすやすやと眠っている。その隣で娘も同じ格好をして寝ている。また蹴飛ばされたブランケットをそっと拾って、娘にかける。エアコンの除湿を温度高めでつけて、夫のくしゃくしゃの癖っ毛をで「いってきます」と小さく声をかける。返事とも寝言ともつかない低いうめき声が聞こえてきた。


 新幹線ではどうしてか眠れなかった。駅のコンビニで買ったおむすびと麦茶を口にして、それなりの満腹感でまどろみは傍に来ていたものの、眠りにまではいざなってくれない。とはいえ東京駅から一時間もしないうちに着いてしまうほどの距離なので、下手に眠ってしまわない方がいいのかもしれない。バッグから日記を取り出し、ぱらぱらとめくって読み返す。日記は高校生の頃からつけている。最初は煩わしかったが、今ではもう日常の一部になっている。

 日記を読み終えてしまうと、することもなくなってしまって、仕方ないのでぼんやりと窓の外を眺めていた。銀色のビル街はとっくに遠ざかって、辺りは木々と畑ばかりになっている。この景色を目にすると、故郷が近くなってきたな、となんだかそわそわする。正月に夫と娘と三人で向かうときはそんな気持ちにはならない。娘がお腹いただの新幹線飽きただのとすぐにぐずって、それをつい強く叱ると、そんな怒鳴らなくてもいいでしょと夫が口を挟みけんが始まる。大体いつもそんな感じだ。郷愁に駆られる暇なんてない。

 でもこの気持ちは、故郷を懐かしむものとはまた違う。どちらかというと不安という感情のほうがしっくりくる。何も変わらないでいてくれという願いにも近いかもしれない。

 正月と、そして七月の第三土曜日、年に二回は必ず実家へ帰るようにしている。それなりに顔は出しているはずなのに、その度に周辺の変化に驚かされる。隣に住んでいた同い年の子がだんを捨てて駆け落ちしたとか、大通り沿いの老舗の寿屋を息子がラーメン屋に改装してしまったとか。人口の少ない小さな町のくせに、なぜかやたらと話題には事欠かない。

 何かが変わってしまうことが昔からずっと苦手だ。中学や高校に上がった時も初めて会社勤めをし始めた時も不安でいっぱいだった。その不安は今でもまだ付いて回っている。いずれここまで積み上げてきたもの全てが崩れ去って、何もかもが変わってしまうんじゃないかと恐れている。でも、その方がいいんじゃないのかとも思っている。

 結局一睡もできないまま新幹線は駅に到着した。新幹線が停まるだけあって大きな駅ではあるが、人の数は少なく、降りる姿もあまり見られない。駅前はビルがずらりと並んでいるだけで、観光地ではないせいもあるのだろう。着いたよ、とだけ母にメッセージを送る。即座に電話がかかってくる。

「はい、もしもし」

「もしもし? あのね、いつものとこ待ちあわせで」

 それじゃあね、と言って電話が切れる。それだけならわざわざ電話してこなくていいのに。肩にかけたバッグを持ち直し歩く。

 東京の夏とは違って、こちらの暑さはあまりじめっとしていない。それでもやはり外に出て歩くと首筋や背中にじっとりと汗をかく。駅の出入り口につながっている陸橋を降り、ロータリーできょろきょろと辺りを見回していると、「まなみー!」と母の声が聞こえた。振り返ると車の窓から顔を出して母が大きく手を振っている。小走りで車へ向かう。

「ちょっと。恥ずかしいから大声で名前呼ぶのやめてってば」

 数ヶ月ぶりに乗る実家の車は、やはりいつもの通りちょっときつい古いシートの臭いがした。苦手な臭いだ。バッグを肩から降ろし、後部座席に深く腰掛ける。

「だって呼ばないとあんた気づかないじゃないの」

「クラクションとか鳴らせばいいじゃん」

「あらやだあんた、荷物それだけなの?」

「一泊しかしないんだから充分でしょ」

「せっかくわざわざ来たんだから、もうちょっと泊まっていけばいいのに」

「まどかのこともあるんだから、そんなに何泊もできないよ」

「というかあんた、毎年毎年ひとりでこっち来てだいじょうぶなの」

「大丈夫だよ。りようも分かってんだから平気だって」

「あんたねえ、なんでもかんでも涼さんに頼りっきりじゃだめよ」

 はいはい、とシートに身を沈める。

 窓の外に目をやる。車はいつの間にか駅前からだいぶ遠ざかっていて、車通りも歩行者もだんだん少なくなっていく。目にみのある風景が窓の外で流れて、それをぼんやりと眺めていたらいつの間にか寝てしまっていた。まなみ、と母の声で目が覚める。

「もう着くよ」

 水分を失った目をこすりながら外を見ると、「もう着く」というほど家は近くはなさそうだった。大通りとは名ばかりの車通りの少ない道沿いに、古ぼけた商店やスーパーや薬局が立ち並んでいる。

 この辺りの街並みも変わらないようでいて、けれど目を凝らすとよく行っていた駄菓子屋がつぶれていたり、信号機がLEDになったりしている。道には市民プールに向かう小学生や、部活バッグを肩にかけて歩く中高生の姿がちらほらと見える。

 昼過ぎには閉まってしまう老舗のパン屋を目印に左へ曲がって、住宅が立ち並ぶ坂道を車は登っていく。昔はこのずらりと並んだ白い壁の大きな家々がごうしやで誇らしく感じられたものだが、経年のせいか自分が大人になってしまったからかは分からないが、今ではただ大きいだけの古ぼけた家に見える。

 車が家に着く。この家も少しずつ変わっていく。『水村』と書かれた表札も実家にいた頃のものよりお洒落しやれになった。門扉の脇に飾られている花の種類も帰る度違うものになっている。ドアの傍に鎮座している変な顔の犬の置物も、去年はなかった気がする。

 二階のベランダでは白いシーツが風になびいてひらひらと躍っている。車は車庫へと入っていく。荷物を肩にかけ、家のドアを開ける母の後ろについていって、「ただいま」と声をかける。

「お父さん、今将棋会で出かけてるから」

「あ、そうなんだ。意外とよく続いてんじゃん」

「将棋会なんて言ったって、ほとんど指しやしないのよ。お茶飲んでお菓子食べてくっちゃべってるだけ」

 リビングでは飼い犬のペロが自分の前足を枕にしてじゆうたんで寝そべっていた。かつての飼い主の気配を感じたのか、耳をぴくりと動かし片目をうっすらと開けてこちらを見ている。

「ただいま、ペロ」

 荷物を置いてペロのもとへすり寄り、頭を撫でる。くすぐったそうに目をすがめて、尻尾しつぽをぱたぱたと振る。昔は庭で飼っていたが歳を取ってから室内飼いをするようになった。最近はあまり散歩にも行きたがらないらしい。ごわごわに硬くなった毛を撫でながら、あと何度この感触を確かめられるのだろうと考えてしまう。

「ちょっとまなみ、荷物きちんと部屋に置いてきなさいよ」

「はいはい」

「はいは一回。家帰ったら手洗いうがい、はなもかんで!」

「どうせすぐまた出るもん」

「なに、あんた今日もまたりくくん連れてくるの?」

「うん、そのつもり。駅まで迎えに行ったりするから、今日車借りてっていい?」

「いいけどあんた、夕飯までには帰ってきなさいよ」

 懐かしい台詞せりふを背にしながら、はいはい、と返事をして階段を上って自分の部屋へ向かう。荷物を床に下ろすと、ゆっくりと部屋を見回す。十五年前から何一つとして変わっていない部屋だ。

 この家を出てからリビングのソファは二回変わったし、絨毯は三回変わった。食卓用のテーブルはずっとそのままだが、キッチンの棚の中にはテレビの通販で取り扱われるような最新の調理器具が帰省の度に増えている。ドラマしか見ないくせに、テレビは無駄にワイドな最新型だ。

 人も町も家も、すべてが緩やかに、あるいは唐突に変化していく中で、この部屋だけは時を止めたままだ。おジャじよどれみのお道具箱。果物の香りがついたキラキラ光るカラーペン。本棚の中の続きを買っていない少女漫画。ピンクの水玉模様の趣味の悪いカーテン。壁に貼ってある山Pのポスター。全部十五年前と同じだ。

 この場所だけは、ずっと変わらないままでいなければならない。いつでも戻って来られるように。それが、自分がこの体でいる間の義務なのだから。

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