25.契約を上書きする五芒星
魘されるカリスの心が伝わってくる。痛み、苦しさ、ひもじさ、心細さ……幼子が味わう経験ではない。泣きながら、声を噛み殺すのは子どもではあるまい? そんな哀れな泣き方をどこで覚えた。
問うまでもない。カリスの記憶に残る「奥様」とやらの仕業だ。あの子は心眼を持つが故に、黒い恐怖に囚われた。あの女の闇が見えるから恐ろしく、だが刷り込まれた本能が母親を求める。
ベッドに身を起こし、静かに涙を溢し続ける幼子を抱き上げた。カリスの体は驚くほど軽い。手足は細く折れそうで、頬は痩けて痣だらけだった。人に悪魔の治療は施せぬ。変質してしまうからだ。人が使う薬草を使っても、この傷は中々消えなかった。動くたびに痛みを堪えるのに、心は乱れない。その歪さが怖かった。
子どもは僅かな痛みであっても、区別が付かずに泣き喚く。それが本能だからだ。己の生命に関わるほどのケガでなければ我慢するようになるのは、大人になってからだった。この子は傷つけられぬために、声を殺して泣く。当初はそれでも涙すら流さなかった。
ようやく溢れた涙を指先で拭い、落ち着かせるよう背を叩く。穏やかになった呼吸に安堵した直後、カリスは心を引き裂かんばかりに嘆いた。それは夢の中の苦痛であろう。生まれてこなければよかったと、幼子が口にする言葉ではない。
怒りで目の前が真っ赤になる。力が入る鋭い爪がこの子を傷つけないよう、深呼吸した。危険だと判断して起こしたカリスは、一緒にいられるか不安がる。命に代えても守ると言った。契約がなくとも、この命をカリスのために使う。
「それは、や」
一緒がいい。死ぬのも生きるのも、全部一緒じゃないと嫌だ。訴えて来る幼子の心は、繋がった俺の心を支配するほど強く願った。ああ、そうだ。この子を置いて死ねるはずがない。生きる俺の傍にいないなど、考えられぬ。
この子を騙してしまおう。そう思った。人間でしかないこの子を、本当に悪魔の子にしてしまえばいい。愛して大切に育てる。この子が死ぬまで一緒にいると誓おう。だから奪って騙して、包んで愛そうと決めた。
柔らかな羊の白い着ぐるみが似合うこの子を、抱き締める灰色の狼のように変えるとしても。傷付き血を流して泣く心を抱き締める方が先だ。悪魔に身を堕としたカリスも、愛し抜く覚悟はあった。
顔や腕に残る痣を指先で撫でて、再び眠ったカリスの頬に触れる。滑らせた指を契約印の上に当てた。そなたの意思を確認せず動く罪は、この身に負おう。指先を魔法で切り、その血で契約印を塗り潰した。魔法陣のような円形の模様が、ぐにゃりと変化する。五芒星に我が名が刻まれた印がぼんやりと光った。俺の魔力による干渉が弾かれる。
「っ、まさか?」
考えにくいが、絶対にあり得ないとも言い切れなかった。数人、心当たりもある。思わぬ兆候に乱れた呼吸を整え、もう一度上書きした。五芒星の印が完全に定着したのを確認し、安堵の息を吐いた。これでいい。馴染ませるために魔力を注ぎながら、口元が緩む。
数日は目覚めぬだろうが、その後は悪魔を率いる魔皇帝の子としてお披露目をする。この子の体が作り替えられるまでに、雑事を片付けてしまおうか。
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