第8話 雨天の天体観測

 私はバードウォッチングが趣味で、日頃から週末になると双眼鏡を片手に電車であちこちへ鳥を見に行きます。確かあのときは、昼間こそ晴れていたのに、夕方になると打って代わって春雨が降りだした週末でした。いつものように、私はバードウォッチングをするため山にほど近い地方都市まで足を伸ばしていたのです。そうして山の麓で雲雀や鶯、燕や目白などを観察していたのですが……仕方なく私はバードウォッチングを切り上げ、駅まで走ることにしました。春とはいえまだ肌寒い時期です。濡れたままでは風邪を引いてしまいます。いざ駅へ着くというところでした。これはまた風情のいいバーがあったのです。私は生来の酒好きでもありましたから、何者かに引っ張られるように入っていきました。


 中は静かなものでした。客はスーツを着た男が一人。不釣り合いに双眼鏡をカウンターに置いています。バーテンはグラスを磨き、隅にはレコードが回っています。私は濡れた服から水気を飛ばしました。そして、一番端のスツールに腰かけたのです。私はよくバーにも出向きます。しかし同時に酷い人見知りでして、行きつけのバーテンですら世間話ができるようになったのは常連と呼ばれるくらいになってからでした。そんな私ですから、初めて入るバーでいきなり真ん中や客の近くに座れようもありません。これでも私は精一杯努力したのです。そんな私の様子を、客もバーテンも横目で何も言わずに見ていました。きっとバーテンは不思議に思ったに違いありません。彼は私から目を離すと黙って肩を竦めました。


 私は濡れないよう懐に仕舞っておいた双眼鏡をコトリ、とカウンターに置きました。すると、客の男がにやにやと笑い始めたではありませんか。人間という生き物は視線に敏感な生き物です。俯いているはずの人間を少しでも見ようものなら、すぐに気づかれてしまいます。大抵は一瞬で目を逸らし何事もなかったかのように取り繕うのですが、この男は違いました。私と視線を交えても、逸らすどころか臆面もなく笑いかけてきたのです。私はこの手の人間が苦手です。それは言うまでもなく人見知りが起因していまして、この手の人間に出会うと蛇に睨まれた蛙のように体が硬直してしまい、呼吸が詰まってしまうのです。私は乞いすがる思いでバーテンを見ました。しかし、彼は既にグラスを磨くことに夢中になっており、私のことは勿論この男のことも眼中にありません。私は途方に暮れました。過去の私を叱責しました。風情に惑わされては駄目だ、自分の性格を考えろと諭しました。とはいえ、こうなってしまった以上何かしら行動を起こさなければなりません。私はぎこちなく会釈をしました。向こうも返してくれました。


「バーテン。こちらの女性にきつめのラムを一杯、ロックで。僕持ちでよろしく頼む」


 唐突に男がそう言ったとき、私は何が起こったのか理解していませんでした。ただ、映画で見たことある粋な演出を初めて見ることができて、他人事にも感心していました。今から考えてみれば、なんとも馬鹿な私です。客は私とあの男だけなのですから、男が奢った相手など私しかいないでしょうに、こともあろうに当時の私は、あのラムは誰に渡すのだろうと浅ましく思っていたのです。


「畏まりました」


 ラムは私の元へ置かれました。ぽわーんと映画の世界を揺蕩っていた私の意識は、バーテンの置いたグラスの音によって引き戻されました。ラムは私の大好物です。できることならラムを浴槽一杯に張って浸かりながら飲み干したいくらいです。しかし、このときばかりは飲むのを躊躇われました。何故って、私はあの男の素性を知りませんし、向こうも知らないであろうからです。その昔、私が泥団子作りに励むような子供だったとき、母親に知らない人から物をもらってはいけません、と注意されたことを思い出しました。とはいえ私は立派な大人です。いい年をした女です。ですから、分別を弁えた上で知らない人からも物をもらいます。


「あ、ありがとうございます」


 私が一口、口をつけたのを見留めると、男は私の横へ座りました。私はしまったと思いました。もしやこのラムは高額で、あとで高額なお金を請求されるのでは、と戦々恐々していましたが、どうやらそうではないようで、男は自分も同じものを頼むと一緒に飲み始めました。私は半身を警戒のため男へ向けつつ、一口、二口とラムを口には運びます。美味しいのですから仕方がありません。ですが、警戒も怠りません。私は猫のような女でした。人馴れしていない野良猫に餌をあげると、大体私のようになります。男が少しでも怪しい動きをしようものなら、たちどころにラムを飲み干し、双眼鏡を握りしめてバーを飛び出すでしょう。その点、男は絶妙でした。私のような人間に必要なのは会話によるスキンシップではなく、観察により導き出される安堵です。この人間は安全だな、と納得する必要があるのです。きっと男はそれを知っているのでしょう。何か話をするでもなく私たちは静かに飲み続けました。そして、ラムがグラスの半分を下回った頃、男が私の方を振り向き、


「美味しいですね」


 と、ほんのり上気した頬を緩ませて言いました。


 私は見事に絆されてしまいました。未だ男への警戒心が一抹ほどあるものの、こんなに美味しいラムを知っている人間が悪い人間な訳がない、という自己理論に占有された私の心はふわふわと空へ浮き始め、口の中の芳醇なさとうきびの名残と共にむふーと鼻から抜けていきます。できることならこの香りでさえも飲み干したいところです。男は私の味わい方に満足したらしく、もう一杯同じもの頼みそれを私へ、自身はダイキリを頼むと、バーテンにルロイ・アンダーソンのワルツィング・キャットを流すように言いました。半ば夢心地の私は、バーでルロイを? と思いましたが、曲がかかるとその心解れるメロディに乗せられて、知らず知らずの内に鼻唄を口ずさんでいたのでした。


「随分と楽しそうに飲みますね」


「ラムは至宝です」


「ごもっとも、ラムは至高ですね」


「むふふ」


 これはいけません。二杯しか飲んでいないのに、もう酔いが回ってきました。私は頬に手を当てました。冷たい手にジッと熱が移っていきます。春雨で冷えた体が温まり始め、次第に両手にもその熱が伝わってきました。両手はすぐに頬と同じくらいに温まり、私は両手をを開いたり閉じたりしてそれを確かめました。


「その双眼鏡……」人懐こそうな声音でカウンターに置かれた私の双眼鏡を指差し「バードウォッチングですか?」と言いました。


「はい、バードウォッチングです」


「この時期だと雲雀に鶯、大瑠璃といったところでしょうか?」


「そんなところです」


「おおっと、これは失礼いたしました。私は星野と申します、以後お見知りおきを」


「私は鳥山と申します。こちらこそよろしくお願いします」


 私はこうもすらすらと会話できていることに驚きを禁じ得ませんでした。きっとお酒の力です。お酒は人の気を大きくするといいますが、その効果がもう現れたのです。私は、むふーと鼻息を荒げました。独力ではないとはいえ、私は私を誉めてやりたい気持ちになりました。しかし、誉めません。人前で自分のことを誉め出す人間が何処にいるでしょうか。もしかしたらこの世界を探せばいるのかもしれませんが、少なくとも私ではありません。私にできることは、家に帰ったら今日の日付の日記に、初対面の人ときちんと会話ができた、と書き込むくらいです。


「その双眼鏡、星野さんもバードウォッチングを?」


「はい、と言いたいところですが私にバードウォッチングの趣味はありません」


「では何故双眼鏡を?」


 星野さんの双眼鏡を見れば、細かなところに微細な傷が付き、金属の部分も少し錆があります。十年でしょうか、二十年でしょうか。私程度では測れないほど長い間、彼の相棒を務めているようです。私の双眼鏡も父から譲り受けた物なのでそれなりに年季は入っていますが、星野さんの双眼鏡にはとてもではありませんが及びません。とはいえ、バードウォッチングをしないのに双眼鏡を持ち歩いているとなると……私の疑問は段々と深まってきました。


「別にいかがわしい目的ではありませんよ」


 きっと私の深刻そうな顔を見て星野さんは察したのでしょう。私の考えていることを先回りして答えてくれました。


「星を見るためです」


「星……」


 私が窓の外に目を向ければ、雨はより一層激しさを増していました。この分だと今夜中に晴れそうにありません。もしかすると、明日になっても降り続けるかもしれません。それくらい強い雨でした。私は星野さんに目を戻しました。星野さんは私の反応を見越していたのか苦笑いを浮かべながら、言いたいことは分かる、と言いたげな顔をしています。だからでしょう。星野さんは私が聞くまでもなく、またもや質問を先回りして答えてくれました。


「お気の毒様、何てことは言わないでくださいね? 今日の天気はテレビでも言っていましたし、きちんと把握していましたから」


「でしたらどうして今日を選んだのですか? 天気予報で知っていたのなら、別の日に変えられますよね?」


「この日だからいいのです。雨だからこそいいのです。この日以外駄目なのです」


「……?」


 私は星野さんの言わんとすることが掴めず眉をひそめました。星を見るには晴れの日でないといけない、と思っていたからです。私が子供の頃、父に連れて行ってもらった山でのキャンプでは、わざわざ晴れの日を選んで満天の星空を見ました。学生の頃、理科の教科書には晴れの空模様での天体観測の仕方が書かれていました。古代の人々も晴れの日に星を観察していたのですから、私の思い違いでないことは確かです。


「もう少ししたら雨も弱くなるでしょう。よかったら私の天体観測についてきますか?」


「……!」


 ナンパです。私はナンパされました。酔いが回っているとはいえ前後不覚になるほど飲んではいません。いくら星野さんがいい人だとしても、女である私はその提案にホイホイと乗るわけにはいきません。きちんと信用できるかどうか、確かめなければなりません。私はバーテンを一瞥しました。彼は相変わらずグラスを磨いています。まるで私たちの会話など最初から聞いていないかのようです。


「もう少し、説明をお願いできますか? 雨の日に天体観測に行く理由とか……」


「勿論です。まず、星を見に行くと言いましたが、これは比喩なのでして。月も見えない雨の日に夜空に浮かぶ星を見ようなんてのは、自家用ジェット機を持ったアラブの富豪くらいのものでしょう。私の言っている星というのは、町の明かりのことなのです」


「夜景ということですか」


「有り体に言えばそういうことになりますね」


 なるほど、これで得心がいきました。夜景ならば雨の日でも見ることができます。高いビルにでも登り双眼鏡を構えればいいのです。そうすれば、眼下に広がる無数の光が眩しく綺麗に見えます。ですが、それは別に雨の日でなくともいいはずです。いえ、寧ろ雨の日では遠くの夜景を見辛いかもしれません。それに、ビルからでは窓に水滴が付いて思うように見えない可能性だってあります。かといって山にでも登れば足を滑らせる危険があります。たとえ車で展望台に登ったとしても、結局は車から降りなければならないので変わらないでしょう。


「雨の日の理由を聞いても?」


「雨の日ならば人が出歩きませんからね。皆家に籠ります。そうすると、電気を点けるわけで、晴れているときよりも沢山の星を見ることができるのです」


「むう、満天の雲間の下に広がる夜景ですか。まるで天地が逆転したみたいですね」


「どうです? 天地の逆さまになった世界を見たいとは思いませんか?」


 天地の逆さまになった世界。こうして聞くと不思議な気持ちになります。故事成語である「杞憂」の成り立ちは、天地がひっくり返ることを危惧する男の話でしたが、なるほどこうして実際に天地がひっくり返る様子を見れるわけですから、男の危惧も千年、二千年以上の時を経て事実となったわけです。そう考えてみると、私は何だか歴史という書物の一ページに立っているような気がしてきました。見出しをつけるならば『杞憂、その実、杞憂に非ず』と言ったところでしょうか。


「うむむ」


 お酒の力も相まって、私はどうしても天地の逆さまになった世界とやらを見てみたいような気持ちになってきました。普段見上げている星空が手の届く所にやって来るわけです。これはもう星間旅行と言ってもいいのかもしれません。月に行ったアームストロング船長は、その道中を幾千の計器に囲まれていました。小さくなっていく丸い地球の美しさ、逆に大きくなる月の無機質さ、そして地球と月の間に広がる無限にも思える暗闇を体感した筈です。それだけではありません。彼は地球を飛び出しても尚手の届くことのない星々も見た筈です。オリオン座を追いかけ、白鳥座を追いかけ、届くことのない事実に叶うことのない憧れを抱いた筈です。しかし星野さんについていけばその憧れは叶ってしまうのです。憧れが現実になるのです。


「……見たいです。星野さん、私も天地の逆さまになった世界が見たいです」


「よし来た」


 星野さんは言い終わらない内に、いつのまにか出していたのか財布からお札を何枚か取り出して、バーテンに渡しました。私も代金の半分を払おうと、慌てて財布を取り出そうとしましたが、それは星野さんに遮られてしまいます。


「先程も言いましたが、今日は私の奢りです。鳥山さんは気にしないでください」


「そんなっ、悪いです。私にも払わせて下さい」


「悪いなんてとんでもない。これは私からの感謝の印なのです。私の誘いに乗ってくださったお礼なのです。どうかお礼をお礼で返そうと思わないで下さい。ありがとう、と言われればどういたしましてと応えてください」


「……わかりました」


 私は渋々財布を仕舞いました。それでも、何かの役に立つかもしれないと千円札を何枚か抜き取っておいて上着のポケットに入れました。


「傘はお持ち……ではないようですね」


 星野さんは、私がこのバーに駆け込んできたときのことを思い出している風に思案すると、バーテンに余っている傘はないかと聞きました。バーテンは店の奥から一本のビニール傘を持ってくると、それを星野さんに渡しました。


「さあ、では行きましょう。雨天の天体観測です」


バーを出ると、雨は先程よりも弱くなっていました。空は真っ黒な雲に覆われ、ざあざあと雨音を響かせています。人通り、車通り共に少なく、駅前の混み混みとした商店街は閑散としています。時計を見ると、夜の七時を指していました。まだ七時なのにという驚きと共に私が星野さんを見ると、この辺りは元々夜の人通りが少ないこと、特に雨の日は少なくなることを教えてくれました。確かに商店街を見れば、開いているお店は飲み屋さんばかりです。


「あの、何処で天体観測をするのでしょうか?」


「ついてきてください。この商店街は暗いですからね。もう少し星のあるところへ行きましょう」


 私は星野さんに促されるまま彼の後をついて行きました。ラムで暖まった体に跳ねた雨水が降りかかりヒンヤリとします。ふと、私は腕についた水滴を片目で覗いて町明かりに透かしてみました。すると、そこには小さな小さな宇宙が広がっているではありませんか。私はハッとして腕を下ろしました。


『星野さんが言っていたのはこういうことだったのね』


 私は心の内に一人ごちながら、首に提げた双眼鏡を強く握りました。


「どうしました?」


「いえ、なんでもありません」


「そうですか。足元、注意してくださいね」


「はい」


 星野さんの指差した先にはマンホールがありました。私は星野さんの忠告通り、マンホールを迂回しました。そうして暫く歩いていると、私たちは新築の一戸建てばかりが集まる新しい住宅街に差し掛かりました。


「この辺りでいいでしょう」


 星野さんが足を止めます。私も足を止めました。家々から溢れる明かりや門灯、電柱に据え付けられた街灯も目映く輝いています。彼らは水溜まりにも反射し、私たちの足元でも輝いています。そのとき、私の脳裏に先程の水滴が過りました。私は居ても立ってもいられなくなり、双眼鏡を構えようとしました。


「いけません、その構え方はいけません」


 星野さんが私の双眼鏡に手をかけました。


「どうしてです?」


「照明と言えど、流石にこの距離ですから目を痛めてしまう恐れがあります」


「確かに、そうですね」


 私は少々浮かれていたようです。双眼鏡で強い光源を覗いてはいけないのは小学生でならうことですので、私は恥ずかしさのあまり顔が熱くなってきました。


「こうすればいいのです」


 星野さんはそう言うと、自分の双眼鏡を逆さまに構えました。


「でもそれでは……あっ」


 私はまたもやあの水滴を思い出しました。そして、星野さんの言う通りに双眼鏡を構えてみました。果たして、そこ見えたのは水滴から見えた小さな宇宙と寸分違わずそっくりな宇宙でした。その瞬間、道路に沿って並ぶ門灯と街灯は天の川に、家々の明かりはそれを取り巻く星々に変身したではありませんか!


「……凄い」


「これが冬だともっと見えるんですけどね」


 想像に難くありません。クリスマスのイルミネーションで彩られた住宅街ほど綺麗な星空もないでしょう。きっとクリスマスツリー座がくっきりと見えるに違いありません。靴下座や雪だるま座、もしかしたらサンタクロース座も見えるかもしれません。私は妄想に胸を膨らませ、お腹一杯になったそれを大きな溜め息と共に吐き出しました。


「星野さんがそう言うのでしたら冬に期待しましょう」


 私は双眼鏡を下ろしました。


 星野さんが驚いたような顔をしています。


 私もどうしてそう言ったのかはわかりません。ただ、不意にポロリと出てきてしまったのでした。

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