第7話 にらめっこ

 無声映画のように、窓の外を日常が高速で流れていく。踏み切りを待つ車や自転車、線路脇の細い道路を歩く学生と園児の送迎をする親。


 それらは一瞬で過ぎ去り、私の記憶に欠片も残らない。彼らの身ぶり手振りが瞬間的に目に写り、次々に上書きされていく。


 毎日の光景は電車を一本乗り過ごしたとて変わるものではない。まるで録画されているものを、窓というパネルに写し出しているような感覚。背後の身動ぎすら許されない空間の中では、皮肉にも哀れな娯楽となっている。


 首筋に吹きかかる生暖かい鼻息や怒気を孕んだ空咳を耐える精神は、戦地へ赴く兵士よりもストレスが溜まるものらしい。踏んだ踏まれたを繰り返し誰に怒ればいいのかもわからない。


 それが通勤ラッシュ。社会の戦士たる我々が、一日の一番最初に乗り越えねばならない試練である。


 快速電車に乗り、都心を目指すベッドタウンの住人たちの死んだ横顔に紛れて、私は今日も揉みくちゃにされていた。 


 私は、ラッシュ時乗車率三百パーセントを誇るこの路線で、何故か乗り降りの少ない駅を最寄り駅として使用している。故に、私が電車に乗り込む頃には既に電車はパンク状態となっており、中の人々が発する物言わぬ悲痛な訴えを圧し殺しながら乗り込む。


 押鮨電車は止まらない。快速だから止まらない。一つ、二つ、三つの駅を通り過ぎた。次の駅で一度停車する。ドアの側はこれが辛い。


 しかも、乗り込んでくる人々へ先人たちと同じ訴えをするのだから手に負えない。なんとも馬鹿げた話である。


 慣性の法則に振り回され、右に左に前へ後ろへおっとっと。つり革を掴めればいいが、そうでないと完全に隣の人に寄り掛かることになる。もう謝ろうとは思わない。会社でも謝らなければならないのに、どうしてここでも謝らなくてはならないのだ。私の感性はとことん破壊されていた。


 揺れる中吊り広告と電光掲示板に流れる、次の停車駅と向かう先の情報がいやに憎らしい。特に理由はないが、とにかく憎らしい。


 そのとき、前方に引き寄せられる感覚が私を包んだ。


 もうすぐ電車が停車する。


 ふと、窓の外に流れない物体が写り込んだ。


 電車だ! 私が乗る電車と同じように戦地へと向かう電車じゃないか!


 私はハッとした。何とも言えないような熱い何かが私の内から湧き出した。それは幸福感だった。


 どうして並走する電車に幸せを感じたのかはわからない。ただ、嬉しさのあまり感嘆のため息を漏らしていた。背後の地獄を置き去りにし、ひたすら電車に釘付けになった。


 見よ! 流れ行く景色を私たちだけがお互いに記憶し続けていく様を! 一瞬で消え行く日常に反抗する勇姿を! 留めるのだ! 等速直線運動の最後まで!


 鼻息が荒くなる。そして、私は見てしまった。並走する電車がゆっくりと私の乗る電車を追い抜く瞬間に、一人の男を見てしまった。


 その男も私と同じような男だった。スーツを着込みビジネスバッグを手放すまいと懸命に耐えている。しかしその男、ドアに押し付けられて轢かれたカエルみたいになっているのだ。加えて、バッグがあらぬ方へ行こうとしているのか、男の手は二人隣の人の前まで伸び、磔のようになっている。どこからどう見ても尋常ではない。


 滑稽そのものだった。


 男の必死の形相が拍車をかける。私の幸福感は最高潮に達した。


「ぷふふ……くふふ……あははっ……」


 私は思わず吹き出してしまった。


 なんなのだ。なんなのだあれは。いくら満員電車といえど、あんなにも揉みくちゃにされる人間がいるのだろうか。私なんか屁でもないではないか。


 ええい、背後の視線など知ったことか。あの男へ恩返しをしてやろう。轢かれた蛙のようにぺしゃんこになったあいつを笑わせてやろう。


 にらめっこだ。


 鬱屈で陰惨で惨憺とした空間は、この時をもって消滅した。理由はわからない。ただただ消滅した。しかし、私はその根幹に男の存在が関わっていることだけはわかっていた。


 遂に、男と私は向かい合った。


 瞬間、私は今までの人生の中でも飛びっきりの、誰にも見せたことがないくらい間抜けな、万人が見て万人が笑う素晴らしい変顔をした。


 男が笑った。


 音は聞こえないが、口許が緩み、歪みゆるゆると広がっていく。私は男の笑い声を聞いたような気がした。私も釣られて笑った。あっはっはと笑った。どわっはっはと呵呵大笑してしまった。


 男の乗る電車はそのまま私を追い越していく。どうやら、同じ駅には停まらないらしい。やがて、私の乗る電車がホームに停まった。ドアが開き、乗降者する人の波に押されて一度電車から出る。


 私は電車に乗り直さなかった。きっとあの男も次の停車駅で降りるに違いない。妙な確信がそこにあった。言葉には言い表せない確信がそこにはあった。

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