三つ葉のクローバー

たかひら

三周目、朝顔が咲く

 キュッキュッキュ、コトッ、ジャー、男はコップを丁寧に洗う。それは商売に使うもので、決して曇らせてはいけないもの。お得意様にだけ、出すもの。


 サーッサーッガラガラ、サーッサーッシッシッシッ男は眼鏡越しに、若い女性の従業員を見る。緑のエプロンをして、店内を掃除している。大学生だろうか、その手は素早く、無駄がない。若いながらも、慣れたように店内を掃除する。


 コトン コトン スーッ コトン、男はカウンター奥の酒瓶を整える。ハイボールやらワインやら、異国のものが揃っている。ただの見世物なのだが、やはり仕事終わりに毎日手入れは欠かさないようで、その棚は美しく、淡く光っていた。


 スーッスーッスーッ、男はカウンターを掃除する。店内は大きくなく、カウンター席も十脚ほど、あとはテーブル席が何個か配置されている。照明は洒落たランプを使用して、赤や青色は見られない。木造に合う色合いを基調としている。店の外では雨が降っているようだが、静かであるので音はあまり聞こえない。男はカウンターを拭き終わると、雑巾を洗い、お客様の死角で干し、丸椅子に座った。


 ほどなくして、女性の従業員は作業を止め、道具を片付けて男に話しかけた。


 「マスター。掃除終わりました」

 その声は低く、若干疲労が混じったようだった。マスターと呼ばれたその男は、目を優しくして

 「ご苦労様、今日はゆっくり休んでね」

 と伝えた。従業員は裏へ行き、それから身支度を済ませて、店を出た。去り際に

 「なぜ今日は、こんなに閉店が早いんですか?」と男に質問した。男は、


 「まあ、そういう気分だったのさ、ほら、雨も降っているし」と、また柔らかい口調で答えるだけだった。従業員は納得したような顔をして、店を後にした。


 カランカランランバタッ、店内に、ドアの音と静寂が波のように響いた。男はそれをレコードを聴く少年のように、ゆっくりと味わっている。目をつむり、浸る。


 男は閉店後も、三十分ほど店内にいた。裏の掃除や、ごみをまとめるなどしていた。それはやらなければならないような、ただ時間を潰しているような動作だった。待ち人がいるかのように、男は外を何回か見やる。相変わらず雨はしとしとと降り、歩く通行人はおろか、車の通りも少ない。まだ明るい午後四時、閉店後の店内で男は、待っていた。



 ガラガラガラガラ バタッ、店内に音が響く、それはさほど大きな音ではないのだが、男の耳は先程まで静寂の中、驚きを隠せずにはいられなかった。


 入ってきたのは、若い男だった。closedの看板を無視して、黒い傘を乱暴に傘立てに入れた。


 「おかえりなさいませ。」男は眼鏡越しに挨拶する。その口調は穏やかなようで、興奮が混じっていた。何やら、特別な人のようだ。


 「ああ、マスター。ただいま」問われた客のような男も、興奮している。息は荒くないが、目が荒い。怒っているというよりは、大勝利した後のような、そんな雰囲気を纏っていた。


 「マスター、“アレ”が飲みたいんだが」男はお酒を飲むのだろうか、それにしては随分、若い。しかしマスターは動じずに


 「あの日の通りにお作り致しますので、少々」とだけ若い男に伝えた。


 それから、マスターはドリンクを作った。しかし、その勢いはゲテモノをつくるそれであった。たくさんの液体を混ぜるから、それがアルコール飲料なのか否か、分かるのはマスターだけなのであろう。


 「お待たせいたしました」マスターはグラスを差し出した。それはクリームがかったピンク色をしていた。甘そうな雰囲気を醸し出している。


 若い男はそれを無言で飲んだ。一口、また一口と飲む。マスターは待ってましたかのように調理を始めた。先ほどまで新品同様であったエリアが、どんどん使用されていく。


 「マスター、俺、豆がいい」男はマスターに虚ろな目でそう言った。マスターは裏で料理をしようと準備していたが、即座に要望に応え、これまたグラスのような陽気の上に、ナッツやらアーモンドを乗せて運んできた。


 「それでは、コウタ様、今日のお話を伺ってもよろしいですか?」マスターはドリンクを足しながら、若い男に問いかけた。若い男は待ってましたと言わんばかりに、

 「もちろん、マスター」と言った。雨足が強まってきたのを感じる。



 マスターはいつ見ても変わらない。時代から隔離されたような、いや、自ら離れていったような、そんなオーラを放つ男だ。俺は初めてマスターと出会ったとき、その風格に圧倒された。眼鏡の奥の目で、こちらを離さない。鋭く、それでいて優しい口調。魅了されない人などいるのだろうか、いや、いないと思う。それほど、マスターはすごい人だと、俺は感じる。


 「マスター、俺、遂に、やったんだよ」

 「もしかして………“成功”されたのですか」

 「そうなんだよ ゴクッ ふぅ そうなんだよ。俺はついに成功したんだ」

 「では、あなたは」

 「そう、きっと解放された。タイムリープから」

 「おお!」


 タイムリープから解放された。一見すると厨二病の人が吐くセリフだ。しかし現実のことなのだから仕方がない。


 「では、あなたは“サキ”様と」

 「ああ、めでたく」


 サキというのは、俺の彼女だ。どうしても欲しかった相手。手に入れなければならかった、相手。

 

 それから、俺はマスターの特製ドリンクをこれでもかという程飲んだ。しばらくはおめでとうだの、どうやって告白したのかなど、他愛もない話をしていた。でも、俺は耐えられなかった。この瞬間に、遂に俺が、タイムリープから脱出しそうだという現実に。


 気づいたら、泣いていた。それはもう、話せないほどにだ。マスターは優しく背中をさすってくれた。よく頑張ったとか、お疲れ様とか、そんな言葉をかけてくれた気がする。俺は安堵の涙でいっぱいだった。だってそうだろう!俺は遂に、タイムリープから脱出しそうなんだ。負け続けの俺に、光が灯る。これは、至上の喜びだった。


 「いつまでも泣いてちゃあ仕方がない、マスター、俺の話、聞いて、くれるか」

 「なんでしょう?」

 「今まで、俺がどんな人生を歩んだのか、聞いて、くれるか?」

 「と、いいますと?」

 「最初の日から、二回目から、三回目まで。全部、話したいんだ」

 「それはそれは、ついにお話してくれるのですね」

 「ああ」


 俺はようやく涙が収まると、顔をしゃんとさせて、マスターに話を始めた。

 「初めの頃はな、初めの頃は――――――」

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