4-6 vsモンステル
足元の電灯が点滅する、細い道をチューミーは駆け足で進んだ。
被験者を幽閉していた研究所は小部屋も多く、道も複雑だったが、この首輪が示す道標が、自分の向かうべき場所を教えてくれていた。
さらに地下に降りると、観音開きの扉にたどりつく。
その先は、広大な部屋だった。閉鎖された当時のまま保存された廃研究所のなかでも、とくに強い怨念を感じさせる、暗い部屋だった。
チューミーが踏み出すと同時に、向かいの扉が開いた。
現れたのは、二人の人物だった。
片方の男は、この四年間忘れたことのないマスクをしていた。
その隣、対照的な巨漢は鉄製のマスクを被り、寡黙にたたずんでいた。
スマイリーはゆっくりと室内を見渡した。
こちらがひとりであることをたしかめると、
「やはり、追跡者がいたか……。だが、よくよく考えるとそのほうが助かるな。きみたち、お上の許可を取らずに仕事をしているんだろう? ということは、きみたちさえ葬り去れば、我々を追う者もいなくなるわけだ」
「スマイリー。――俺を、憶えているか」
チューミーはカタナを持つ手を広げて、相手に近づいた。
「俺はずっと、ただお前を殺すためだけに――」
「いや、悪いが記憶にないな」
そう、あっさりとスマイリーが返した。
「ふむ。アルミラ君の言葉に期待して見に来たが、無駄足だったか。ハハハ、まあいい。今夜、私は早急に着手したい趣味があるんだ。悪いが、きみには早々に消えてもらうとしよう。――モンステル!」
パチン! とスマイリーが指を鳴らした。
それを合図にして、モンステルが突進してきた。
凄まじいスピードに、周囲に散らばっていたドキュメントが一斉に宙に舞う。風圧に帽子を押さえたスマイリーの隣から、一瞬でこちらの間近まで詰めてきた。
相手の薙ぎ払いを、チューミーは屈んで回避する。
同時に、真下からカタナで相手の腹を斬り上げた。
しかし――カタナの切っ先は、その表面で止められた。
九龍アパートでも、チューミーのカタナは素手で防がれている。
モンステルの破れた衣類から覗ける素肌には、わずかな裂傷すら走っていない。
(と、するならば……)
チューミーは相手の身体の秘密に仮説を立てて、次の行動を決める。
「うん? 思ったよりもいい反応だな。だが、最低でももう一人いるのだから、あまりそいつばかりに時間をかけてはいられない。モンステル、急げよ」
スマイリーの言葉を受けて、モンステルが首元に手をやった。カチリ、とインジェクターを起動する。途端に、高密度の白色の砂塵粒子が現れた。
チューミーは背後に転回し、わずか距離を取る。
モンステルの縮小の砂塵能力者であることは、先の戦闘で把握していた。
強力な砂塵能力だが、これまでの観察では、相手の全身をじっくり包んではじめて効果が現れるようだ。だとするならば、脅威はどちらかといえば爆発人間を筆頭とした小道具といえるが、この場所であの規模の爆発を引き起こすとは考えづらい。
チューミーが相手の出方をうかがう。
モンステルは砂塵粒子をまといながら、近接戦を仕かけてきた。
ビュッ、と空気を裂く正拳突きと同時に、モンステルは白色の砂塵粒子を器用に操って、間近のチューミーを捉えにきた。
それは非常に手慣れた、武闘派の砂塵能力者の動きだが――
チューミーは風車のように手元でカタナを回し、風圧で砂塵粒子の動きを一時的に止める。
モンステルの背後に回りこむと、広い背中に向けて袈裟斬りを見舞った。
相手は瞬時に反応する。が、リーチの長いカタナを回避しきることはできず、先端が触れた。
今度こそ、肉を裂いた感触がした。
ピピッ、と血が床に跳んだのを見て、チューミーは確信する。
モンステルが鋼のように硬い身体を持っているのは、皮膚を硬質化する塵工体質の持ち主だからだ。
ただし疑問は残った。
いかにして相手はインジェクターを起動しているのか。局部注射をする関係上、少なくとも首の付近は硬質化させるわけにはいかなかったはずだ。
現状で確認済みなのは腕と腹部だった。
さらに効果範囲を特定するために、今度は背面から斬りつけた。それが通ったとなれば、モンステルが強靭な防御力を誇るのは身体の前面だけであり、背後は無防備ということだ。
初めて、モンステルはみずから距離を置いた。
自分以上に素早く、それでいて力もあわせもつこちらを怪訝に思っているらしい。
互いの身体に塵工強化を施した当人であるチューミーは、この塵工体質の性質を知り尽くしている。同じ塵工体質の持ち主であるモンステルと比べて、こちらが初速で勝るのは、純粋に体重と筋肉量の差だ。
膂力は劣る反面、速度に置いて後塵を拝すことはない自信があった。
「……ん? 今、喰らったか、モンステル。速すぎて、私にはよく見えなかったのだが……おお、服に血が滲んでいるな。おまえの血なんて、生まれて初めて見た……は、嘘になるな。ハッハッハ! 訂正しよう。だがこの場所に、ふたたびおまえの血が撒かれるとはな」
離れたところで観戦しているスマイリーが質問する。
「で、見た目に反して手強いのか? その小柄な粛清官は」
その問いに、モンステルは正直にうなずいた。
そこでようやく興味を抱いたらしい。こちらを見つめると、ふと思い出したようにこう言う。
「ふむ。ひょっとすると、きみがチューミー君、か?」
意外にも言い当てられて、チューミーはわずかに気を逸らした。
「ああいや、先ほどね。アルミラ君が、そんなようなことを言っていたのだよ。ハハハ、こうあらためて口にすると、なんとも奇妙な名前だが。チューミー君という人物が、この私を殺しにくる、と」
そのとき、チューミーのカタナの切っ先が震えた。
怒りが、必要以上に身体を滲み出て行く。
とてもではないが、冷静ではいられなかった。
チューミーは跳躍すると、スマイリーの首をめがけてカタナを振った。
全力で太刀を振るうも、自分たちのあいだに飛び出たモンステルが、その鋼鉄のような腕でカタナを止めた。
「うおっと!」とスマイリーは驚いて、後ろ足で数歩下がる。
「ハハハッ! すさまじい怒りだ。どうやら、単に職務熱心な粛清官というわけでもないらしい。とすると……本当に、興味が湧いてくるぞ。今夜はアルミラ君と遊ぶのに忙しいはずだったが、こうなってくるとこちらも気になるな。うーん、気になる。ハハハ、いいぞ。楽しいことで目白押しじゃあないか」
相手はこちらの風貌を間近で観察して、スマイリーが続ける。
「アルミラ君の発言が虚構でないのだとしたら、きみは……私と、会ったことがある? しかし、いったい……いつ、どこでだ?」
(――そうか、こいつは、俺を覚えてすら……)
モンステルと鍔迫り合いをしていたチューミーは、カタナに力をこめた。ジャリンッ! と金属を鋸で引くかのようないびつな音を立てて、カタナが相手から離れる。
間髪入れずに、チューミーは返しの刃をモンステルに向けて振るった。
自分たち兄妹の未来を壊した当人が、その自分たちを忘却していることに、行き場のないやるせなさと、喩えようもない憤怒を覚えて、そのカタナ捌きに鬼神のような威圧を与えた。
乱舞する黒刀は、明らかにモンステルの反応速度を超えていた。
相手はせいぜい致命傷を防ぐ応戦が限界であり、みるみるうちに削げてゆく背中が、モンステルの足元に血溜まりを作った。
「ハ、ハハハ、こいつは恐ろしいな! これではロクに話も聞けん」
スマイリーは高笑いを上げて距離を取った。
「この場で使うのは不本意だが、背に腹は代えられぬようだ。まあ、高ランクの黒昌器官は別室にある。おまえが全力を出して、すべて壊してしまっても構わんだろう。――許可する。解放しろ、モンステル」
パチン! とスマイリーが指を鳴らした。
それを合図に、モンステルの砂塵粒子の挙動が変わった。
戦闘中、隙あらばこちらを絡めとろうとしていた白いもやが、モンステルの身体の表面に集まり、高密度な膜へと姿を変えていく。
不穏な雰囲気を感じて、チューミーは相手から距離を取った。
モンステルの白色の砂塵粒子が、ついにはモンステル自身をそっくり包みこんだ。
いったい、なにが起こるのか――
そう警戒すると、妙な現象が起きた。
砂塵粒子をまとうモンステルの体積が、徐々に大きく、広がっていく。
チューミーは、ダスト正教会の殺戮現場を思い出した。素手で捻り潰されたかのような聖職者たちの圧死体と、その殺人を行っただろう人物の、巨大な足跡。
――そうか、とチューミーは気づいた。
モンステルの砂塵能力は、ただ対象者を縮小させるだけではない。その逆も可能なのだ。つまり、やつの本当の砂塵能力は、自在に大きさを操ることなのだと。
つぎの瞬間、爆速で振るわれた一撃をチューミーが回避できたのは、その予期のおかげだった。
巨大な壁が迫りくるかのような、凄まじい範囲攻撃。
それをすんでのところで回避すると、途轍もない風圧が間近を通り抜けた。
指先が掠っただけにもかかわらず、大型の排塵機が跡形もなく破壊される。
部屋の中央には、異様な大きさの化け物へと変貌したモンステルがいた。
もともと巨漢だったが、比べ物にならないほどに膨らんだ巨人の体格。
その姿は、まさしく化け物然としていた。
四、五メートルに達するかという全長で、モンステルはチューミーを寡黙に見下ろした。
「さあ――」とスマイリーが口にする。「やれ、モンステル」
戦闘が再開される。
モンステルの二撃目は上から振り下ろされた。空ぶった拳が、厚いコンクリートの床をボゴリとへこませる。
チューミーは、相手の初動から攻撃位置を正確に読み続けた。
弾丸のような速さで振るわれて、それでいて巨大な大砲のような威力を持つ、モンステルのおそるべき攻撃の着弾位置を、つねに把握し続ける。
その最中、チューミーは甲高い笑い声を聴いた。
「ハハハハッ、こいつはスゴイ! お前の全力の攻撃が避けられるところなど、初めて見た……というのも、誤りだったか? ハハハッ。とはいえ、覚えていないほど久しぶりに見たのはたしかだ。きみの身体能力も目を見張るものがあるな、黒犬マスクのチューミー君。……ん? 黒犬マスク? ……なんだ、見覚えがあるな」
物見遊山で観戦していたスマイリーは、ふと黙った。
壁沿いにある黒晶器官の棚を一瞥する。
それから、スマイリーはもういちどこちらのマスクに目をやると。
「――あ」と気づいたように発した。
次の瞬間、
「ハ、ハハ、ハハハ、ハハハハ、ハハハハハ、ハハハハハハッ!」
スマイリーはけたたましい笑い声をあげた。
「そうだ、思い出したぞ! きみは、シン君だろう! ああ、間違いない。あのときの、少女にしてはいかついマスク……! ハ、ハハハハ、ハッ。わかった、完璧に思い出した!」
ひとしきり笑ったスマイリーは、息を整えてから続けた。
「懐かしいな! ハハハ、本当に懐かしい。私の絵日記でも、あの日はとくに描く絵に熱が入ったよ。あれはたしか……五年ほど前だったか? 印象深い出来事だった。本当さ! 今の今まで忘れていたから白々しく聞こえるだろうが、よく憶えているんだよ。きみの身体の首を割いた時の、あの断末魔! なにより、きみが懇願したときの、あの必死な様子と言ったら……ハ、ハハ、ハハハ!」
――妙だな、と思った。
攻撃を食らってはいないのに、奥歯がやけに痛む。
カタナの柄を握る、掌も。
あまりに強く歯軋りし、あまりに強くカタナを握ったせいで、痺れるような痛みを覚えていた。
これ以上冷静さを欠けば、戦況が不利になることはわかっていた。
そして不利になれば、この目的が達成できないこともよくわかっていた。
だからこそ必死に封じこんでいた激情が、スマイリーの言葉で亀裂が入ったように溢れ出た。
「モンステル、ぜひシン君を奥にお連れしよう! 積もる話もある。それにしても、こんなことになるとはな。私は不測の事態は好きなんだが、ほら、記憶力が悪い代わりに勘はいいものだから、いろいろと先が読めてしまうんだよ。それでも、今日シン君に会えるなんて彗星に直撃して死ぬよりも想像できなかったぞ! まあ、そもそも今まで忘れていたわけだがね」
肚の底の深い怒りが、チューミーの全身を包みこんでいく。あたかも、身体にまとわりつく砂塵粒子のように。
黒い復讐の執念が、全身から噴き出して、頭まで覆いつくしていく。
「きみは、私を殺すために偉大都市へ渡ってきたというわけだね? その冒険譚には、非常に興味をそそられるな。シン君、きみはあれからどんな生活を送ってきたんだ? ぜひあとで話を聞かせてほしいな。ハハハハ」
スマイリーの不快な笑い声が耳に入るたびに、自分の理性と思考が姿を消していくことを、チューミーは自覚していた。
意識が失せていく――
そうすると、そこに残ったのは反射だけだった。
四年間、スマイリーを殺すためだけに磨いた体術と実戦経験が、チューミーの回避行動を自動化させた。
大回りな動作を放棄して、棒立ちのようにたたずみ、モンステルの攻撃が迫ったときにのみ、必要最低限の動きで避ける。
怪物の拳が迫った。チューミーの半身ほどもある一撃必殺の握り拳は、それでいて連続攻撃でもあり、たかが数秒のあいだに信じられない回数の拳闘を行う。
しかし、それがどういうわけか当たらなかった。
一発も、かすることさえ。
毎秒、毎瞬間、針に糸を通すような緻密な回避を行いながら、チューミーの身体はむしろモンステルの懐に潜りこんでいた。
モンステルは、こちらの戦闘方法が変異したことに気づいている様子だった。
なにより、その身体から漏れる、凍えるような殺気が、毎秒のように鋭利に尖っていくことにも。スマイリーが笑い声を上げるたび、火をくべられるようにチューミーの動きの精度は増していき、かわりにモンステルの動きがにぶっていく。
攻めているにもかかわらず、気づけばじりじりと追いつめられているモンステルが、さらに一歩下がったとき。
ガシャン、と音がした。
背後の黒晶器官が詰まった棚が崩れ落ちる。割れたガラスの破片と、培養液の醸す刺激臭があたりに散らばった。
それが、契機だった。
チューミーは跳躍すると、ほんの一瞬だけ動きを止めたモンステルの腕に飛びのり、タタッと駆け上がる。
モンステルは振り落とそうとしたが、相手がこちらを捉えるよりも先に、チューミーはすでに宙を舞っていた。
流れるような仕草でカタナを構えて、チューミーは落下した。
黒刀の先端が、モンステルの首筋に深々と刺さり、そのまま斬り開くように背中までを両断して割いていく。
「オオオオォォォォォォォォ―—————ッッ‼」
そのとき、これまで一声も上げなかった巨人が、初めて激痛に叫んだ。
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