59話 「警壱級」
十一番街のはずれ。
偉大都市の開発地区が遠くに覗ける海沿いに、古びた建物がある。
長い間砂塵粒子を浴びて黒色に擦れた施設は、もう何年もまともにひとが出入りしていないことをうかがわせる見た目をしていた。
ボッチはバイクを停車すると大型の棺を背負い、建物の正面に立つと、鎖で閉鎖された正面の扉を平然と蹴り開けた。
歩を進めるボッチのうしろには、カタナを構えた黒犬のマスクがついている。
応急処置では間に合っていない傷だらけの身体だったが、それを感じさせない力強い足取りで、チューミーは建物の深部へと向かった。
*
チューミー・リベンジャーの供述から、特殊犯罪者スマイリーが人体生理学上の構造物の性質を交換する砂塵能力者であると知ったボッチ・タイダラが、まずいちばんはじめに思い至ったのは、偉大都市の闇だった。
BCO生理学研究所と呼ばれる施設が存在していたことを知る者は、中央連盟の関係者でもそう多くない。
とくに、そこでどういった研究が行われて、どのようなデータが採取されていたかという詳細な話になると、それは科学畑の人間であるボッチ以外に知る粛清官はほとんどいないといっていいだろう。
BCOとは、Black Crystal Organ――すなわち黒晶器官を指す。
同研究所の研究内容は多岐にわたる。
一例を挙げても、砂塵能力の遺伝に関する統計とメカニズム、成熟に個人差がある理由、砂塵障害に罹る人間の免疫力の違い、黒昌器官のみが砂塵粒子の毒性に耐える要因、一日に推奨されるインジェクターの使用時間の算出等々、非常に幅が広い。
この機関の出資者が多かった理由は、砂塵能力の遺伝の解明を試みていたからである。
ある特異な砂塵能力を使用して会社経営をおこなう者にとって、血を分けた子々孫々に望むのは、自分と同じ砂塵能力を継いでもらうことにほかならなかった。
研究費用が湯水のように注がれた結果、実際に解き明かされた現象の数は目まぐるしかった。
建設から幾年も経ち、中央連盟からしても価値のある機関という評価が定まりつつあるころのことだった。
同研究所から、偉大都市の死体安置所に、月あたり十体以上の被験者の遺体が運びこまれていたことが露呈した。どの遺体も、黒晶器官とその付近の損傷が激しく、惨たらしい拷問跡が残った身体さえあったという。
つまり研究所の内部で、非人道の限りを尽くした人体実験がおこなわれていたことが判明したわけである。
この事実は、中央連盟の上層部で議題に上がった。いくら大市法の保護対象ではない非正規市民を実験体としているにせよ、看過できない事態だった。
研究所は解体されるに至り、存在そのものが記録上なかったことにされた。
価値のある研究資料は、連盟本部の蔵書フロアの奥深くに運びこまれた。
砂塵粒子や黒昌器官の研究そのものは続行が推奨されたため、中央連盟の直下に、まったく別系統の研究室が再建された。
ボッチ・タイダラ警壱級粛清官に室長の任が与えられたのが、今より数年前のことである。
特例で極秘情報にアクセスする権限が与えられたボッチは、三日三晩にわたり、研究資料を読みこんだという。
そこに記されていた研究員の手記で、人体組織を交換する砂塵能力者の存在を知ったのだった。
以下は、スマイリー粛清の独断専行を決めた際に、ボッチが調査した内容である。
BCO生理学研究所の閉鎖後、研究者たちに法的な処分は下されなかった。
研究所の被害者は、偉大都市の発展のためにおこなわれた実験で、あくまで副次的に命を落としただけということにされた。被害者の大半が非正規市民ということもあり、研究員たちの処遇は、さしあたり不問となった。
にもかかわらず、研究職員たちの大半は行方不明となっていた。
研究所の存在が記録上抹消されているために、それらは関連性のある事件として処理されていない。あらゆる偉大都市内の事件を耳に入れているボッチですら、自分の手で詳しく捜索して、ようやく至った事実だった。
*
「一見アトランダムに見えるスマイリーのリストの掲載人物だが……あれは全員、BCO生理学研究所の立ち上げに関わった人物と、さらにその家族や友人など、親しい間柄の周辺人物だ」
研究所跡地のなかを進みながら、ボッチは言った。
「スマイリーは、まず自分をどん底に叩き落とした研究者たちに復讐したんだろう。そしてどういう了見かは知らねェが、それだけじゃ終われなかったわけだ」
スマイリーが復讐者だというボッチの言い分を、チューミーは思い出した。
「研究所の出資者や出資機関、それにかかわりを持つ人物ともなると莫大な人数になる。スマイリーの復讐リストも、おそらく一冊では済んでいないだろう。とすると、誘拐の施行回数は、リスキーなんてものじゃなくなる。ほかの犯罪組織に代行させるかたちで身柄を得ようとしたのも、ある意味では当然かもしれねェな」
「つまり、シルヴィの場合は……」
「ああ。あいつの親父さんは、ミラー社の社長として研究所に相当額を出資していた。機械塵工学を筆頭に、学問に知見と興味のある人物だったからな。ここの研究員の凶悪な人体実験なんざ知らなかっただろうし、科学研究そのものに金を出すことには前向きだったんじゃねェか」
廊下の向こうから、奇妙な唸り声が響いた。
およそ人間の声とは思えない、不気味な声だった。
「さすがに向こうも保険を張っているみてェだな。チューミー、準備はいいな」
ボッチが鉄扉を蹴り開けた。
コンクリートの壁に染みついた薬液に、血のにおいが混じり合う、知らない匂いが鼻腔をついた。
人の泣き声とも獣の鳴き声とも知れない、呪詛のような呻きが室内を包んでいる。
部屋の一面が檻となっていた。
そこには直立不動で並び立つ、凄まじい量の人間が閉じこめられていた。
一様に痩せ細った素顔を晒し、生気の抜けた表情をしていた。
まともに服を着ている者は少なく、覗ける肌には黒色の斑点が浮かんでいるのが見えた。砂塵障害に罹った人間に特徴的な、発疹の跡だった。
その足元には、大量の人骨と、腐った肉塊と、渇いた血液が広がっている。
「こいつは……九龍アパートで見た、のっぺらぼうマスクの中身か?」
総毛立つような光景にもかかわらず、平然とした様子でボッチが分析した。
「おれたちに気づいてから配置したというよりは、もともとここで飼育している風だな。侵入者を喰い殺すように調教でもされてるか?」
「こいつらは物を話さない。なんらかの方法でスマイリーが作った存在なのはたしかだが……」
「九龍アパートで確認した爆発の仕組みは、ここが自分たちの砦である以上は取りつけてないと見ていいだろうな。中身には狂人の精神か、可能なら猛獣でも入れてあるか? どっちにしろ、つまらねェがな」
ボッチはうめき声をあげる大群を見渡すと、
「チューミー、気づいたか? あいつらのなかに、スマイリーのリストで見た顔があるぜ。どうやらスマイリーに捕まると、最後にはああいう目に遭うみてェだな」
「そんなことより、ボッチ、檻が……」
ゴウンと音がして、檻が開き始めた。
百人以上の大群が、ぴたりと呻き声を止めた。
ぎょろぎょろ、と虚ろな眼球を動かすと、
「ギャア、ギャア、ギィアアアッ――――ッ!」
そう叫び出して、我先にと襲いかかってきた。
チューミーはカタナを構えて聞いた。
「半数ずつ担当するか?」
「バカ言うんじゃねェよ。当然、向こうはもう攻めこまれていることに気づいている。どんな抜け道があってもおかしくねェんだ、とっとと追い詰めたほうがいい」
ボッチが答えたタイミングで、続く道の前で、鉄の仕切りが閉まりはじめた。
「おまえは先に行け、チューミー」
「だがこれだけの数、いくらあんたでも……」
言い切る前に、ボッチが、チューミーの首根っこを掴んだ。
「なにをする……!」
「今のは、この偉大都市でもっとも無意味な心配だな。ひとつ、おまえに教えておいてやる。警壱級粛清官の壱って数字にはな、ある特別な意味が込められてるんだよ」
ボッチが腕を振るった。
投げ飛ばされる形となったチューミーは、閉まりかけの仕切りの向こう側で受け身を取った。
振り向くと、敵の一体がボッチに迫るところだった。
ボッチは棺の表面に埋めこんである、十字架に見立てた警棒を手に取った。
「それはな、一騎当千の一だぜ。こんな雑魚の百や二百に潰されて、警壱級は務まらねェよ」
「ボッチ……」
ボッチが敵に向けてトンファーを振った。
人形は歪な音を出すと、壁にめりこむように激突した。
手慣れた大型トンファーを二丁振り回して、ボッチは後続の大群を、つぎからつぎへと薙ぎたおしていく。
「おれは、別ルートで追いつく。そのときにゃぜんぶ終わらせていろよ、チューミー・リベンジャー……!」
ゴウン、と鉄の扉が閉まった。
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