Chapter3.5: Phalaenopsis

46話 とある兄妹の、真実

 今にも倒壊しそうな古い住宅の玄関には、漢字で地海という苗字が彫られていた。

 書くのも難しければ、読むのもむずかしい漢字という文字は、遥か昔、遠く離れた大陸で生まれたものらしく、今ではすっかり廃れた文化である。

 せめて先祖から継いでいるファミリーネームくらいは書けるようにと、彼が両親に教わった字だ。

 その両親が病死して、幼い妹を養わなければならなくなったとき、彼もまた妹にその漢字を教えた。


 部屋の一室で、彼は戸棚の奥から、妹のランが隠している一冊のスケッチブックを取り出した。

 前の晩、彼は妹にこっぴどく叱られていた。いくら自分たちの将来のためとはいえ、充分なケアもせずに黒昌器官を酷使する兄に、ランは怒り心頭の様子だった。


「あとちょっとでも無茶したら、もうお兄ちゃんとは口を利かないから!」


 そう怒鳴り、泣き疲れたランの寝息が静かに聞こえる。

 ランの成長は微笑ましかった。

 その昔、はじめて偉大都市に移住する計画の話をしたときは、なにも疑わずに喜んでいたランが、今では自分の愚行に怒るというのだからおかしなものだ。

 とはいえ、無茶をやめる気はなかった。

 せっかく逆転の手段として与えられた自分の砂塵能力を使わないという手はないし、なんといっても、目標額まではあと少しだった。

 隠している金は、遠く離れた偉大都市まで安全に移動した上で、法律的に保護対象となる市民権を購入し、住宅を構えるのに必要な金額に、近々届こうとしていた。


 彼は、炎症を起こしている首に触れた。

 砂塵能力の一種に、身体活性と呼ばれるものがある。肉体の筋力や瞬発力を活性化させる効果の砂塵粒子を身にまとい、優れた身体性能を発揮するというものだ。

 彼の砂塵能力は、それとは似て非なるものだった。

 彼の操る砂塵能力は、一時的にではなく、させる。

 しかも自分のみならず、他者にも同様の効果を与える砂塵粒子であり、かつ半永久的に効果を継続させた。


 退廃都市の生まれであり、なんの学もない彼だったが、自分の砂塵能力がそれだけで食っていけるものだということは理解していた。

 両親が生きていたころに発現していればよかったが、今となっては過ぎた話だ。

 砂塵能力で商売を始めたのは、数年前のことだ。

 自宅から離れた場所に職場を用意して、そこを砂塵施術の場として使い、客に砂塵能力を披露した。


 そもそもが貧困者の集まりである退廃都市で、はじめはごくわずかな対価しか得られなかったが、彼の持つ特別な砂塵能力の噂は徐々に広まっていき、今では街の外からわざわざ客が訪れるようになっていた。

 本来であれば、昼夜を問わずに職場に篭り、彼は四六時中インジェクターを起動している。一日の推奨時間を超えてインジェクターを使い続けるのはつらかったが、彼は弱音を吐いたことはなかった。


 ただし今日限りは例外だった。

 ランの要望を聞き入れて、今日と明日は休みを取ると約束していたからだった。明日の昼、ランは一緒に近場の屋内市場に行って、買い物がしたいらしい。

 ランはこのごろ、やけに自分の欲しいものを聞いてくる。

 とくに欲しいものはなかった。

 強いて言えば、ランが描いているスケッチブックが欲しかったが、こうしてたまに盗み見ていることが妹に知られたら、まさしく彼の砂塵能力で活性化した身体を存分に使って、少女とは思えない力で平手打ちをしてくるだろう。

 それだけはごめんだな、とひとりで笑う。


 彼が、もういちどスケッチブックを開こうとしたときだった。

 コンコン、とノックの音がした。

 こんな夜更けにだれが、と思う。

 念のためナイフを懐に忍ばせて、おそるおそる玄関に寄った。


「どちらさまですか」

「こんな時間に失礼。ここに、シン・チウミという砂塵能力者はいるかね」


 男の声だった。

 たずねたのは、彼の名前だった。地海進、と書いた。


「シンなら、俺ですが……」

「おお、いたいた。ハハハ、よかった。いや、他人を永久に塵工強化させるクリニックを開いている者がいるという噂を聞いて、遥々やってきたのだがね。クリニックにだれもいなかったようだから、ひとに聞いて、こうして家まで訪ねてきたわけだ」

「つまり、お客さんということですか?」

「客? ああ、そうだね。そう――私は客だ。ぜひ、その砂塵能力を見せてもらいたいのだが」


 見せてもらう、という言いかたが気になって、シンは怪しく思う。

 奇妙な来客には、かかわらないほうがよかった。

 そうでなくとも、ランとの約束がある。


「すみませんが、日を改めてもらえますか。今日明日は仕事を休むつもりなんです」

「休む? 明後日まで? いや、そいつは困るな。こんな汚い街にあまり長居したくない。まともな娯楽品もなさそうだぞ。そうだな、どうしたものか。……きみ、念の為聞くが。普段得ている対価は金かね?」


 どうやら、男は外の街からやってきた人間らしい。

 あまり長く話していると、ランを起こしてしまう恐れがあった。シンは声のボリュームを抑えて答えた。


「ええまあ、そりゃ金ですが……」

「ハハハ、そりゃそうだな。失礼、意味のない質問をした。今ここに……えー、だいたい二百万ほどある。もちろん偉大都市の通貨だ。きみが出てきてくれるなら、一括でポンと払おう。それでどうかね?」


 ……二百万?

 思わず、シンは耳を疑った。

 ちょうど目標額を埋められる金額だ。先ほどからの高慢な口ぶりも、どうやら金を持つ人物のように見受けられた。


「本当に、そんなに払ってくれるんですか?」

「ハハ、本当だとも。私は、けして嘘をつかないことを信条としているんだ。絶対に支払うことを約束しよう」


 やけにうまい話だが、事実ならば、もう明日にでも引っ越しの準備を始められることになる。

 早鐘を打つ胸を押さえて、シンは玄関脇のマスクフックに手を伸ばした。なんの飾り気もない安マスクを被ると、インジェクターが装着されているかたしかめた。

 出て行く前に振り向くと、奥のソファでは変わらない様子でランが眠っていた。

 約束を破るかたちにはなるが、背に腹は代えられなかった。


(……ごめん、ラン。戻ってきたら、いくらでも怒られてやるから)


 シンが外に出ると、ふたりの人物がいた。

 ひとりは細身の男で、スマイルマークのマスクの上に、つばの長い帽子を被っている。派手な彩色の外套を着て、トランクケースを引いていた。

 もうひとりは、対照的にずいぶんと横幅の広い大男だった。野性味のある風体で、ごつごつとした鉄製のマスクをしていた。


「おや。まさか、こんなこどもだったとは……ハハハ、意外だったな。きみ、ちゃんとした砂塵量が出せるのかね?」


 さきほどから話していたのは、このスマイルマークの男らしい。

 笑い上戸のようで、快活な笑い声をあげるが、なぜだかいやに耳障りだった。もうひとりのほうは沈黙を保っており、話せるかどうかすらあやしい様子だった。

 シンが緊張した佇まいでいると、スマイルマークの男が気づいたように懐に手を伸ばした。


「ハハ、そうだった。ほら、約束通りだ」


 シンは、ひょいと札束を渡された。


「え、でも……」

「言っただろう、出てきてくれるなら支払うと。いいから受け取っておきたまえ」


 まさか本当に全額を、それも先払いという形でもらえるとは思わなかった。

 シンはボロボロのコートに、大切に金をしまった。

 これで目標金額が達成したことになる。まだ現実味が伴わないながらも、歓喜の気持ちが沸々と湧いてきた。

 声の限り叫んで、室内で眠っているランを抱きしめてやりたい気持ちになるが、ぐっと堪える。まずは、仕事を済ませるのが先だった。


「それで、どちらを塵工強化すれば……」

「ああ、そうだな。直接、その効果を見せてもらおう。それが一番だ」


 スマイルマークの男は、背後の人物を振り向いた。


「きみがかけてもらうといい。私は見ているから」

「俺の砂塵能力は、ちょっと時間がかかります。それと、集中できる環境じゃないとむずかしいので、職場のほうまで移動してもいいですか」

「もちろんいいとも! ハハハ。それでは向かおうか」


 スマイルマークの男がシンの肩を引いた。

 そのまま、連れ去るようにその場を離れていく。


 路上には、道端で暮らす物乞いが並んでおり、じろじろと三人に目線を配った。

 なかには四肢がまともに動かない人間や、あきらかに精神に変調をきたした者もいた。粗悪な環境で砂塵粒子に触れ続けた結果、砂塵障害に罹った人々である。

 砂塵が舞う世界で、排塵機のある部屋に住めない人々は、ゆっくりと心身を蝕まれて死ぬ運命だった。


 いずれプレハブハウスのような簡易な小屋に至った。

 シンが明かりを点けると、椅子がふたつ並ぶだけの質素な室内があらわになる。

 大男のほうが受けるというので、彼を椅子に座らせた。

 失敗すれば、先ほどの金が奪い返されるかもしれないと思うと、シンは緊張を隠せなかった。

 しかし、これまでなんどもこなしている仕事である。


 シンは息を整えると、インジェクターを起動した。炎症を起こした肌に、普段よりも強く痛みが走ったが、無視して砂塵を放出した。

 シンの操る金色の砂塵粒子を、スマイルマークの男は興味深そうに、じっと観察していた。

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