3-8 とある兄妹の、真実


 今にも倒壊しそうな古い集合住宅の玄関口には、漢字の「地」に「海」を添えて、地海という苗字が彫られていた。

 書くのも難しければ、読むのも難しい漢字という文字は、遥か昔に遠く離れた大陸で生まれたものらしく、今ではすっかり廃れた文化である。

 せめて先祖代々継いでいるファミリーネームくらいは書けるように、と彼が両親に教わった字だ。

 その両親が病死して、自分よりもさらに幼い妹を養わなければならなくなったとき、彼もまた、妹にその漢字を教えた。

 部屋の一室で、彼は戸棚の奥から、妹のランが隠している一冊のスケッチブックを取り出した。

 前の晩、彼は妹にこっぴどく叱られていた。いくら自分たちの将来のためとはいえ、充分なケアもせずに黒昌器官を酷使する兄に、ランは怒り心頭の様子だった。


「あとちょっとでも無茶したら、もうお兄ちゃんとは口を利かないから!」


 そう言い放ち、泣き疲れて不貞寝したランの寝息が、静かに聴こえた。

 ランの成長は微笑ましかった。

 その昔、初めて偉大都市に移住する計画の話をしたときは、なにも疑わずに諸手を挙げて喜んでいたランが、今では自分の愚行に怒るというのだから、おかしなものだ。

 とはいえ、彼は無茶をやめる気はなかった。

 せっかく逆転の手段として与えられた自分の砂塵能力を使わないという手はないし、目標額まではあと少しだった。


 隠している金は、遠く離れた偉大都市まで安全に移動した上で、法律的に保護対象となる市民権を購入し、住宅を構えるのに必要な想定額に近々届こうとしていた。

 彼は、炎症を起こしている自身の首に触れた。

 砂塵能力の一種に、身体活性と呼ばれるものがある。肉体の筋力や瞬発力を活性化させる効果の砂塵粒子を身にまとい、優れた身体性能を発揮する。汎用性が高い代わりに、そう珍しくはない砂塵能力である。

 彼の砂塵能力は、それとは似て非なるものだった。

 彼の操る砂塵能力は、一時的にではなく、恒常的に活性させるのだ。

 しかも自分のみならず、他者にも同様の効果を与える砂塵粒子であり、かつ半永久的に効果を継続させた。稀少を超えた、非常に価値の高い砂塵能力だ。

 仮に非砂塵能力者でも、彼の砂塵能力による塵工的な補正がかかれば、武闘派の砂塵能力者に一方的に蹂躙されることはなくなる。

 退廃都市の生まれであり、なんの学もない彼だったが、自分の砂塵能力がそれ一本だけで食っていけるものだということは理解していた。

 彼の夢は安全な環境と平和な土地で、妹に不自由のない生活を送らせてやることだった。まともな教育を受けさせてやり、好奇心旺盛な妹がいつか夢を見つけたら、それが叶うときまで支援するつもりだった。


 砂塵能力を使用した商売を始めたのは、両親が死んで間もないころのことだった。自宅から少し離れた場所に職場を据えて、そこを砂塵施術の場として使い、客に砂塵能力を披露した。

 そもそもが貧困者の集まりである退廃都市で、はじめはごくわずかな対価しか得られなかったが、彼の持つ特別な砂塵能力の噂は徐々に広まっていき、今では街の外からわざわざ客が訪れるようになっていた。

 本来であれば、昼夜を問わずに職場に篭り、彼は四六時中インジェクターを起動している。一日の推奨起動時間を超えてインジェクターを使い続けるのはつらかったが、彼は弱音を吐いたことはなかった。


 ただし、今日限りは例外で、休みを取っていた。

 ランの要望を聞きいれて、今日と明日は休みを取ることを約束していたからだった。明日の昼、ランは一緒に近場の屋内市場に行って、買い物がしたいらしい。

 ランはこのごろ、やけに自分の欲しいものを聞いてくる。

 とくに欲しいものはなかった。

 強いて言えば、ランが描いているスケッチブックが欲しかったが、こうしてたまに盗み見ていることが妹に知られたら、まさしく彼の砂塵能力で活性化した身体を存分に使って、少女とは思えない力で平手打ちをしてくるだろう。

 それだけはごめんだな、とひとりで笑う。

 彼が、静かにスケッチブックを開こうとしたときだった。

 コンコン、とノックの音がした。

 こんな夜更けにだれが、と思う。念のため、彼はナイフを懐に忍ばせて、おそるおそる玄関に寄った。


「どちらさまですか」とたずねると、男の声で返事があった。

「こんな時間に失礼。ここに、シン・チウミという砂塵能力者はいるかね」


 彼の名前だった。地海進、と書いた。


「俺が、そうですが……」

「ああ、いたいた。ハハハ、よかった。いや、他人を永久に塵工強化させるクリニックを開いている者がいるという噂を聞いて、遥々やってきたのだがね。いなかったようだから、人に聞いて、こうして家まで訪ねてきたわけだ」

「それはつまり、お客さん、ということですか?」

「客? ……ああ、そうだね。そう、私は客だ。ぜひ、その砂塵能力を見せてもらいたいのだが」


 見せてもらう、という言いかたが気になって、シンは怪しく思う。

 奇妙な来客には関わらないほうがよかった。

 そうでなくとも、ランとの約束がある。


「すみませんが、日を改めてもらえますか? 今日明日は、仕事を休むつもりなんです」

「休む? 明後日まで? いや、そいつは困るな。あまり、こんな汚い街に長居したくない。まともな娯楽品もなさそうだぞ。そうだな、どうしたものか。……きみ、念の為聞くが。普段得ている対価は、金かね?」


 どうやら、男は外の街からやってきた人間らしい。

 あまり長く話していると、ランを起こしてしまう恐れがあった。シンは声のボリュームを抑えて答えた。


「そりゃ、金ですが……」

「ハハハ、そりゃそうだな。失礼、意味のない質問をした。今ここに……えー、だいたい百万ほどある。きみが出てきてくれるなら、一括でポンと払おう。それでどうかね?」


 ……百万?

 思わず、シンは耳を疑った。

 ちょうど目標額を埋められる金額だ。シンは目の色を変える。先ほどからの高慢な口ぶりも、どうやら金を持つ人物のように見受けられた。


「ほ、本当ですか?」

「ハハ、本当だとも。私は、けっして嘘をつかないことを信条としているんだ。絶対に支払うことを、約束しよう」


 やけにうまい話だが、事実ならば、もう明日にでも引っ越しの準備を始められることになる。

 急に高鳴りはじめた胸を押さえて、シンは玄関脇のマスクフックに手を伸ばした。なんの飾り気もない、スタンダードなデザインの安マスクを被ると、インジェクターをたしかめた。

 出て行く前に、振り向く。奥のソファでは、変わらない様子でランが眠っていた。

 約束を破る形になるが、背に腹は代えられなかった。


(……ごめん、ラン。戻ってきたら、いくらでも怒られてやるから)


 シンは扉を開いて、外に出た。

 そこにはふたりの人物がいた。

 ひとりは細身の男で、スマイルマークのマスクの上に、つばの長い帽子を被っている。派手な彩色の外套を着込み、トランクケースを引いている。

 もうひとりは、対照的に横幅の広い大男だった。対照的に野性味のある風体で、ごつごつとした鉄製のマスクをしていた。


「おや。まさか、こんな子供だったとは……ハハハ、意外だったな。きみ、ちゃんとした砂塵量が出せるのかね?」


 さきほどから話していたのは、このスマイルマークの男らしい。

 笑い上戸のようで、快活な笑い声をあげるが、どういうわけか聴いていて耳障りだった。もうひとりのほうは沈黙を保っており、話が耳に入っているかどうかすら怪しい様子だった。

 奇妙な二人組だ。シンの第六感が警鐘を鳴らす。

 だが、このチャンスを逃すわけにはいかない。

 シンが緊張した佇まいでいると、スマイルマークの男が気づいたように笑うと、懐に手を伸ばした。


「ハハ、そうだった。ほら、約束通りだ」


 シンは、ひょいと札束を渡された。


「え、でも……」

「言っただろう、出てきてくれるなら払うと。いいから受け取っておきたまえ、ハハハ」


 まさか本当に全額を、それも先払いという形でもらえるとは思わなかった。

 シンはボロボロのコートに、大切に金をしまった。

 これで、目標金額が達成したことになる。まだ現実味が伴わないながらも、歓喜の気持ちが沸々と湧いてきた。

 声の限り叫んで、室内で眠っているランを抱きしめてやりたい気持ちになるが、ぐっと堪える。まずは、仕事を済ませるのが先だった。


「それで、どちらを塵工強化すれば……」

「ああ、そうだな。直接、その効果を見せてもらおう。それが一番だ」


 スマイルマークの男は、そんな妙な言いかたをすると、背後の人物を振り向いた。


「君がかけてもらうといい。私は見ているから」

「俺の砂塵能力は、ちょっと時間がかかります。それに、集中しなければいけないので、職場のほうまで移動してもいいですか?」

「いいとも! ハハハ。それでは向かおうか」


 スマイルマークの男が、シンの肩を引いた。

 そのまま、連れ去るようにその場を離れていく。

 職場は、歩いて数分とかからない位置にある。

 路上には、道端で暮らす物乞いが並んでおり、じろじろと三人に目線を配った。

 なかには、四肢がまともに動かない人間や、明らかに精神に変調を来した人間もいた。粗悪な環境で砂塵粒子に触れ続けた結果、砂塵障害に罹った者たちである。

 砂塵粒子が包む世界で、排塵機のある部屋に住めない人々は、ゆっくりと心身を蝕まれて死ぬ運命だった。

 プレハブハウスのような、簡易な小屋に至った。

 シンが明かりを点けると、椅子がふたつ並ぶだけの質素な室内があらわになる。

 大男のほうが受けるというので、彼を椅子に座らせた。失敗すれば、先ほどの金が奪い返されるかもしれないと思うと、シンは緊張を隠せなかった。

 しかし、もう何度もこなしている仕事である。

 シンは息を整えると、カチリとインジェクターを起動した。炎症を起こした肌に、普段よりも強く痛みが走ったが、それを無視した。

 ごわり、と金色の砂塵粒子を身にまとう。

 シンの才気あふれる砂塵粒子が、男の身体を特別な塵工体質に変えていく。

 シンの砂塵能力を、スマイルマークの男は興味深そうに、じっと観察していた。


 ---


 妙な胸騒ぎがして、ランは目を覚ました。

 ソファから起き上がり、隣の部屋を見に行く。

 どこにも兄の姿が見えなかった。今夜はどこにも行かないと約束したのに! と怒りを覚えた。

 ランは、最近買ってもらった、黒い犬を模したマスクを装着した。

 もっとほかにかわいいのがいくらでもあるのに、と兄に言われたが、ランはこのデザインがよかった。マスク占いが好きで、十一月生まれのランが願ったのは、家族運と健康運である。

 それに曜日と生まれ月を参照すると、黒色の犬が推奨されたのだった。

 ランは、玄関の扉に手をかける。ひとりの外出、それも夜間は固く禁じられていたが、かまわなかった。ランはこれまでその約束を破ったことはないというのに、兄の方は好きに約束を破っていることに強い不満を感じていた。

 家の外には、だれの姿も見えなかった。

 ランは、兄の特別な砂塵能力のおかげで、俊足には自信がある。試したことはないが、大の大人が相手でも捕まる気はなかった。

 間違いなく、兄は職場にいるはずだった。

 ひとりでやってきたランを見たら怒るだろうが、それに懲りて、今後は自分の言い分をちゃんと聞いてくれるはずだと思った。

 しっかりと施錠して、暗い道を駆け足でいく。ひゅんひゅんと身軽に進むランは、ぶきみな物乞いたちとはけっして目を合わせずに、急いで兄の職場に向かった。


 ---


「……終わり、ました」


 たっぷり時間をかけた施術を終えて、シンがそう言った。

 カチリ、とインジェクターを解除すると、砂塵粒子が消失していく。


「俺の能力の唯一の難点は、許容運動量を超えても活動できるから、自分で体力の限界を見極めないとオーバーワークしやすくなることです。でも、それ以外のデメリットはありません」

「ふむ。……どうだ、モンステル?」


 スマイルマークの男がたずねると、大男は立ち上がった。

 その場で正拳突きを放つ。もともと拳法かなにかを嗜むらしく、手慣れた動きで飛び蹴りや手刀を空中に繰り出した。

 ぶわっ、と風圧が生じてスマイルマークの男の帽子がずれた。

 モンステルは効果を保証するように、ゆっくりと頷いた。


「……すばらしいな」


 帽子の位置を正して、スマイルマークの男がつぶやく。


「なるほど。永続的な砂塵加工を、不変の物質ならともかく、日々変化する人体にも正確に作用させるわけか。まさか、こんなゴミ溜めのような街に、これほどの砂塵能力者がいようとは……ハッハッハッ! まさしく、掘り出し物だ。いや、わざわざこんな退廃都市下りまで足を運んだ甲斐があったな、モンステル?」


 そう聞いて、シンは複雑な気持ちになる。たしかに治安的には最悪な街であり、一刻も早く出ていきたいのはたしかだが、故郷は故郷だった。

 だが、満足している客を相手に、文句を言う気はさらさらない。

 シンは一刻も早く家に帰って、妹に報告しようと思った。ランもきっと喜んでくれるにちがいない。


「それじゃ、俺はこれで失礼します。鍵とかはだいじょうぶなので、そのまま出て行ってください。もともと、金目の物はなにも置いていないですから――」


 そう言い残して、シンは足早に去ろうとした。

 そのときだった。


「――待ちたまえ」


 スマイルマークの男がパチン、と指を叩いた。

 巨大な男が、どっしりとシンの行く手を阻んだ。


「その、稀少な黒晶器官……ぜひ、欲しいな。私に、くれないか?」


 モンステルが巨大な手をこちらに伸ばしてきた。

 とっさにシンが避けると、部屋の中央に置いた椅子が粉々に破壊される。

 その拳を、モンステルはじっと眺めた。今しがた受けたシンの砂塵能力の効用を実感しているらしい。


「ほお。その動き、自身にも塵工強化をかけているようだな。ハハハ、まあ当然か」

「いったい、どういうつもりだ……!」


 モンステルの攻撃を避けながら、シンは叫んだ。


「やめろ! 俺はきちんとと、砂塵能力を使っただろう!」

「そう――実演してもらったわけだ。あとで勝手に試してもよかったのだが、やはりオリジナルの使い手に見せてもらうのが、もっとも能力理解が深まるからな」

「なんだと……?」

「それに、見たとこきみはまだ十代半ばだろう? 砂塵能力に伸びしろがあるようだったら、しばらく様子見してもよかったのだがな。先ほどの十分な砂塵量を見る限り、かなり早熟なようだ。ハハハ。つくづく、優秀な黒晶器官と言えるな」


 相手がなにを言っているのか、意味がわからなかった。

 シンは護身用に隠していたナイフを抜くと、モンステルの腹に突き刺そうとする。しかし、モンステルはリーチの差を使って、迫るシンの身体を返り討ちにした。


「ぐゥッ……!」


 シンは床を転がった。

 これまでも、そこらの物取りや強盗相手には、何度か戦ってきている。

 ランを守りとおすために、最低限戦えるようにならないといけなかったからだ。

 だが、この相手はこれまでの雑魚とは違う。

 ――勝てないかもしれない、とシンは直感する。

 怪しい連中だとは思っていたが、まさかこうなるとは思いも寄らなかった。


「目当てはなんだ? さっきの金か? それだったら――」

「ちがうさ。言っただろう、きみの黒晶器官が欲しい、と。ハハハ、そのままの意味だよ」


 スマイルマークの男は、ここまで自分の手で引いてきた、小さなトランクを開いた。ごそごそと漁り、瓶を取り出す。そのなかには、培養液のような半透明の液体に浸る、黒い水晶然とした小さなものが浮いていた。

 生で見るのは初めてだが、それが人体の頸部に宿る黒晶器官であることを、シンはすぐに理解した。


「えーと、きみの名前はなんだったかな。そうそう、表札を見たが……ああ、私は漢字が読めないのだった。ハッハッハ……そうだ、思い出したぞ。たしか、シン・チウミくん、だったな」


 スマイルマークの男は、瓶に巻いたラベルに、胸元のペンを使ってなにかを書きこんでいく。


「今日の日付、砂塵能力は塵工体質の付与。詳しくは、半永久的な身体活性を与える。ランクは文句無しにS。SSでもいいくらいだが、そんなランクは用意していないからな。年齢は……きみ、正確にはいくつだね? ……ハハハ、返答はなしか。まあ、十五やそこらだろう。ふむ」


 モンステルと格闘戦をしながら、シンは算段を立てた。

 モンステルはまだ、その活性化した肉体の扱いに慣れていない。馬力が出すぎて、逆に持て余しているようだった。

 逃げよう、とシンは思った。

 スマイルマークの男は、どうやら加勢する気はないらしい。

 出入口はひとつで、窓はないが、うまく誘導すれば隙をついて脱出できる。

 そうしたら一目散に家に戻って、ランを連れてどこかに潜伏して、こいつらをやりすごす。

 住所は割れているが、もうあの家に用はない。両親の墓の近くに隠している貯金を回収したら、そのままランといっしょに、新天地に向けて旅立てばよかった。


「さて、モンステル。どうだ? いい加減、捕まえ……ていうか、速いな。凄まじい速さだ。ハッハッハ、これはスゴいな、目で追えないぞ。――モンステル、あまり困るようならインジェクターを起動しろ。そのほうが確実だ」


 その言葉で、シンはこの大男が砂塵能力者であることを知った。どんな効果の砂塵粒子を使うかはわからないが、取り逃がすことなどありえないという口ぶりだった。

 愕然とするシンと相対して、モンステルが首元に手を伸ばそうとする。

 そのときだった。

 キィ、と小屋の扉が開いた。

 黒い犬のマスクをかぶった、ほんの小さな少女が、なかの様子を不安そうに覗いた。


「お兄、ちゃん……?」 

「ラン……ッ⁉」


 シンはマスクの下で驚愕に顔をゆがめる。

 それから、思考するより先、ありったけの声で叫んだ。


「来るな、逃げろ―――ッ!」


 モンステルが、扉のほうを振り向いた。

 その巨躯と強面のマスクに、ランが「ひっ」と怯えた。


「なんだ、家族かね? それなら話は簡単だな。――モンステル!」


 スマイルマークの男が指を叩く。

 モンステルはランに迫ると、巨大な手で肩を掴み、ぐっと押さえつけた。

 ランが恐怖で泣き出した。


「お兄ちゃん、なに? この人たち……やだ、やだっ! 離して!」


 ランは必死で暴れるが、モンステルの太い腕はびくともしなかった。

 その光景に、シンは構えていたナイフを、からんと落とした。


「ふむ。人質というやつだな」


 スマイルマークの男が、ランに近づいた。


「きみは、弟……いや、妹か? ハハハ、女の子にしては、ずいぶんといかついマスクをしているな。それで、きみはなにかの砂塵能力者かね? 兄妹なら、往々にして同程度に有用な砂塵能力者であることが多いが……」

「お前……、妹から、離れろ……!」


 怒気のこもった声で、シンが言った。

 スマイルマークの男が、ひょいと振り向く。

 シンは両手を挙げて、その場に膝をついた。完全な降伏を意味する姿勢だった。


「頼む、その子を解放してくれ。俺のことは、どうしてくれてもいい。黒晶器官が欲しい、だったか? なんでもいい。金でも、黒晶器官でも、俺の命でも、なにを持って行ってもかまわない。だから、妹だけは……」


 必死の懇願に、しかしスマイルマークの男は首をひょいと傾げて言った。


「いや、そうは言われてもね。君の黒晶器官はなんであれいただいていくつもりだし、金になど微塵も興味はない。それにこうなってくると、この少女の持つ砂塵能力も気になるのだがね」

「妹は、非砂塵能力者だ……! 本当だ、嘘じゃない!」


 マスクの下に必死の形相を浮かべて、シンは叫んだ。

 それでもスマイルマークの男は迷っている様子で、居ても立っても居られない気持ちになり、シンはその場にひざまずく。

 それから、小屋の床に頭を押しつけた。硬いコンクリートとマスクの額が擦れて、ゴリゴリと音を立てた。


「この通りだ……! 頼む、妹だけは、助けてくれ……俺は、どうしてくれてもいいから……! 一生奴隷だろうが、殺されようが、なんだっていい。だから、妹だけは見逃してくれ。その子には、なんの罪もないんだ……!」


 ――自分が愚かだったのだ、とシンは後悔した。

 こんな危険な連中を呼び寄せるのならば、もっと目立たない方法で金を稼がなければならなかったのだ。自分の向こう見ずな行為でランを危険な目に遭わせることだけは、絶対にあってはならないことだった。

 しかし、まだ最悪ではなかった。ランさえ助かれば、それは最悪の事態ではない。

 シンの死に物狂いの懇願に、スマイルマークの男は、しばし黙った。

 それから、一拍の後――


「ハッハッハッハッハッハッ!」


 楽しそうに、大声で笑った。

 もともとひとりで勝手に笑ってはいたが、輪をかけて機嫌が良さそうだった。


「いや、すばらしい。感動したよ、シン君。これは兄妹愛、というやつか……ハッハッハ。その年齢で、たいしたものだ。わかった、よく理解したよ。私は、有能な砂塵能力者には、それなりに敬意を表するつもりだ。きみの持つすばらしい能力に免じて、この少女のことだけは生かそう。……それで、かまわないかな?」


 その言葉に、シンは顔を上げた。


「それは本当か? 本当なんだな……ッ⁉」

「もちろんさ。さっきも言ったが、私は嘘をつかないのが信条だ。”きみの黒晶器官はもらうが、代わりにこの少女のことは見逃そう”。一字一句違わず、この約束を守ると、天下の砂塵粒子に誓うさ。――モンステル!」


 パチンッ! とスマイルマークの男は指を弾いた。すると、ランの両肩を掴んだまま、モンステルが近づいてくる。


「お兄ちゃん、ごめんなさい、ごめんなさい、わたし、言いつけ破って……!」


 ランは、なにか自分のせいでこの事態を招いたことだけは理解しているらしく、嗚咽混じりで何度も謝った。


「待て、なぜ離さない? おい、すぐに妹を……」

「大丈夫さ。ハ、ハハ、ハハハ。約束は、守る。私を、信じたまえ」


 スマイルマークが、シンを見下ろした。

 そのぶきみなマスクの向こう側の素顔は、覗けない。

 それでも、相手がなにかを企んでいることだけは伝わった。

 ――だめだ。この男は信じることはできない、とシンは直感する。おそらく嘘は言っていないのだろうが、かといえ真意も伝えていない。

 シンは、逆にスマイルマークの男を人質に取るしかない、と考える。

 ランの命が懸かっている以上、間違っても騙されるわけにはいかなかった。

 しかし、シンが動こうとした瞬間、モンステルが空いているほうの手で、シンの背中をがっしりと押さえつけた。

 床に押しつけられたシンは、頭上から降りかかる、不可思議な言葉を聞いた。


「ところで、突然だが……? ちなみに、私は信じているが」

「な、にを……ッ」

「しかし少なくとも、およそ人格、自意識と呼べるものは、すべて脳の電気信号が生み出す不確定な錯覚にすぎないそうだよ。まあ、これは単に旧文明由来の脳科学の一説だが、私の経験では、どうやら正しい……」


 カチリと音がする。スマイルマークの男がインジェクターを起動していた。その周辺に、錆びた合金のような色をした、非常に高濃密な砂塵粒子が現れる。

 この世の禍々しさを凝縮したような、いやな気配のする砂塵粒子に、シンは息を呑んだ。


「お兄ちゃん……! やだ、わたし、こわいよ……っ」

「ラン……!」


 シンは恐怖する妹から、男のほうに目を向けて怒鳴りつける。


「お前、いったいなにをするつもりだ……!」

「――シン君。きみは、人体に塵工的な永続効果を付与する、非常に稀な砂塵能力者だが……実に奇遇なことにね。私も、そうなのだよ」


 両手の人差し指を長く立てて、スマイルマークの男は兄妹の額に触れた。


「私は右手と、左手で触れた、二つの人体組織の中身、その性質を――」


 マスク越し、ぞわり、ぞわりと高密度な砂塵粒子が、二人の頭を包み込んでいく。


「そっくりすることができる。その意味は、今はまだわからないだろうから。身を以って、楽しく知ってくれたまえ。ハ、ハハ、ハハハ……フッハッハッハッハッ……」


 シンの目の前が、ちかちかと光りはじめた。サイケデリックな彩光が、視界を包んでいく。あまりの気色悪さに、シンは体内の物すべてを吐き出しそうな気分になった。砂塵粒子のざわめきに、ランの泣き声と、男の狂ったような高笑いが混じって、耳をつんざいた。

 素手で脳みそを掻き乱されるような不快感に、シンは永遠の死を覚悟する。

 しかし――そうはならなかった。


 ---


 どれだけの時間が経ったのだろうか。

 身の毛がよだつ経験は、一瞬のようにも、永遠のようにも思えた。

 目を開くと、おおまかに状況は変わっていない。自分の職場に、スマイルマークの男がいて、モンステルがいて――いや、もっとも肝心な人物がいなかった。

 ランはどこだ? と彼は思った。

 最愛の妹の姿を探すと、すぐ間近に、さんざん見慣れたようで、初めて見るような、変わった風体の少年がいた。

 よく知るマスクに、よく知る背格好だ。

 向こうも、同様にこちらを見ていた。

 彼はなにかを言おうとしたが、うまく言葉にできなかった。

 口が正常に回らない。それどころか、身体すらもまともに動かない。強い麻酔をかけられたように、自分の身体が制御できなかった。


「さて、シン君。約束通り、きみの身体の黒晶器官をいただくとしようか。さて、どれどれ……ん? やけに皮膚が傷んでいるな。これまで、よほど酷使してきたか……残念、唯一の減点事項だ! だが、まあいい」


 スマイルマークの男が、シンの使っていた鋭利なナイフを拾う。

 それで、少年の首を一気に切り開いた。鮮血が、ばしゃりと辺りに弾け飛ぶ。

 絶命の声が、室内に轟いた。

 それは長く、長く、どこまでも響くような声で、生涯において耳から離れないだろうことを予期させる、悲痛な叫びだった。

 スマイルマークの男は、黒晶器官の入った瓶を開くと、培養液の水面に指を近づける。今しがた切り裂いた男の首のなかにもう一方の指を差して、砂塵粒子を放出した。

 ざわざわと音を立てて、肌の合間から覗く黒晶器官と、瓶のなかの黒晶器官を、砂塵粒子が包みこむ。

 十秒ほどしてから、スマイルマークの男はインジェクターを解除した。

 それから、放心するように口にした。


「あー、しかし、笑えた。本当に……こんなにウケたのは、かなり久しぶりだな。最高の砂塵能力も手に入ったわけだし……今日は、いい日だった。きちんと、日記に残しておかねば……」


 彼は、魂の話、そして中身の交換という男の砂塵能力の話を思い出しており、なんとなく、なにが起きたのかを理解しはじめていた。

 それでいて、まるで現実を認めることができずに、その場に伏せ続けていた。

 男の声が、水中で聴くように、くぐもって響いた。


「さて、シン君。少女のことは見逃すし、このまま生かしもする。つまり私は約束を、きちんと守ったわけだ。互いに、いい取引となったな……本当に。本、当、に……ハ、ハハ、ハハハ、ハハハハ」


 高らかな笑い声が遠ざかっていった。

 扉が閉まり、静寂が訪れた。

 しばらく、彼はそのままでいた。

 彼が放心から覚めたのは、指先が濡れたからだった。見れば、流れる血液がこちらまで届いていた。つー、と床を流れるひと筋の血に、奇妙な温かさを感じる。

 おびただしい量の血を生み出す死体がひとつ、そこにはある。

 彼は半身だけで起き上がり、その相貌を見つめた。

 ゆっくりと、死体の被るマスクを外す。

 普段、鏡で見ている顔が、恐怖の貼りついた表情で絶命していた。

 どう否認しようが、死んでいるのはシン・チウミその人だった。

 そして、妹の姿はどこにも見えない。

 おそるおそる、彼はマスクをはずした。

 さらりと首に髪先が当たる、知らない感覚がした。

 素顔を晒して、血液の水面に視線を落とす。

 そこに映っていた、妹の顔を目にしたときに――彼は、声の限り絶叫した。

 悲哀と、後悔と、恐怖と、絶望が混ざった慟哭の叫びは、彼が現実を拒絶して気を失い、血の海に倒れるまで、永久の如く響き渡っていた。




 いつまでも耳のなかに残響する断末魔と、スマイルマークの男が残していった高笑いに、彼は目を覚ました。

 髪と顔の皮膚に貼りついた、渇きはじめた血から漂うかおりに、まず覚えた感情は、ほかでもない。

 少女の肚の底に、けっして拭い去ることのできない、黒い怨嗟の炎が渦を巻いた。

 ぎらり、と光る赤い眼を宿した少女は、亡霊のような手つきで黒犬のマスクを被ると、幽鬼のような足取りで立ち上がった。

 これまで、よく触れて、何度も撫でてきた愛しい身体は、よく知っている身体感覚とはまるで異なり、まともに直立することすら難儀だった。

 底冷えするような、屍者の冷気を身にまとい、彼は歩を進めた。

 歩きながら、彼はこの、全身を包みこむような黒い感情を意識した。どこまで掘っても底が見えないほどに深い、憎悪の感情を、人が復讐心と呼ぶことは――


 そのときはまだ、知らなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る