第8話 子猫
「掃除、終わったんですけど!!」
客室のほうから不機嫌そうに叫ばれて、幸恵ママはどれどれと鈴菜の仕事振りを確認しにいった。
鈴菜はソファ席に足を投げ出すようにして座り、不満げに口を曲げていたが、それでも店のすみずみまできちんとモップがけをしたようだった。
「あら、すごく綺麗になってるじゃない。ありがとう。助かったわ」
「……ほんと、何なの……腹立つんだけど」
「じゃあ、特別にまかないを食べさせてあげる。本日のメニューは煮豚丼よ。さあ、たんとおあがり~」
まだ怒りのおさまらない鈴菜の前に、幸恵ママはどんぶりを置いた。その衝撃で煮豚がぷるんと揺れた。
「まだ夕方だし、夕飯には早いです。それに、こういうのは太るからいいです」
そう言いながらも、鈴菜は煮豚丼をじっと見つめた。白飯の上に、やわらかそうな煮豚が分厚く切られて盛りつけられており、中央には白髪ネギがこんもりと盛られていた。
食べたい気持ちがむくむく湧いてきたが、一度断った手前、やっぱり食べるとは言いづらかった。
「太ってもいいじゃない」
と幸恵ママは言ったが、自分の張り出したお腹を見下ろして、
「まあ、多少ならね」
とつけ加えた。
「戦うにはエネルギーが要るものよ。ガス欠じゃ勝てる戦いも勝てないわ。戦うのならしっかり食べないとね。子猫ちゃんがどんな問題を抱えてるのか私にはわからないけれど、これだけは確かよ」
「戦いたいなんて思いません。揉め事とか嫌いだし」
「ふーん?」
「私、学校でいじめられています。でも、いじめるやつらを攻撃したいなんて思ってません。相手と同じレベルになりたくないんで!」
興奮状態にあった鈴菜は感情に任せて、誰にも言ったことのなかった秘密を幸恵ママに打ち明けていた。
「そうなのね。じゃあ、どうするつもりなの?」
「別に。あんなやつら無視すればいいし」
幸恵ママは、それには何も答えず、カウンターの奥に設置されたオーディオを操作した。すぐにピアノのメロディが店内に流れ始めた。
「この曲、メンデルスゾーンの「夏の名残の薔薇」っていうのよ。聞いたことある?」
「いえ」
「じゃあ、トマス・ムーアの詩も知らないわね。愛する人を失ってしまったら生きてはいけないっていう詩なの。仲間の薔薇たちがみんな枯れてしまって、残されて一人で寂しく咲く薔薇の気持ちが、うちの店名には込められているのよ」
ピアノの悲しくも美しいメロディが店内を満たしていく。
「私は夏の名残の薔薇。枯れていく花を見送ることしかできなかった。それを後悔しているのよ。ねえ、鈴菜ちゃん、いじめを無視できるっていうなら、それでもいいわ。だけど、本当に無視できてる?」
鈴菜は返事をしない。
「あなたをいじめる子を私が叱ってあげてもいいわ。学校に話をしに行ってもいい。でも、それはあくまでも鈴菜ちゃんからの頼みがあってこそなのよ。あなたがいじめを無視するって言うのなら、私があなたにしてやれることは何もないわ」
考え込むように鈴菜は黙り込んだままだ。
「愚痴や弱音って恥ずかしいかしら。それって自分の弱みを見せる行為だから、むしろ勇気の要ることじゃないかしらね。嫌われるかも、馬鹿にされたらどうしようって怖がって、醜い姿を晒すのを嫌がって、それで誰にも助けを呼べずに身動きがとれないのは、本当に立派かしら?」
「鈴菜ちゃんが戦う相手は、いじめっこじゃないのよ。助けてって周囲にどれだけ訴えることができるのかっていう、自分の周りとの戦いなのよ。つらいわよね。しんどいし理不尽よね。なんでこんな戦いをしなきゃいけないんだって、そんなのおかしいって思うわよね。でも、あなたが戦ってくれるなら、周りだってあなたのために動けるのよ」
「まずは親に相談してみなさいよ。内緒にしてるんでしょう? そこから始めなくっちゃね。それでだめなら、またうちに来なさい」
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